<4.進行>
さすがに一ヶ月も経過すれば、愛が成長した事は気付かれてしまった。
だが、もう遅かった。
「嫌! ゼンといる! ゼンが居ないと死ぬ!」
「大げさな事言ってないで、早く来るの! あなたが成長したら親元へ返すって決まりなのよ!」
暴れる愛と、それを押さえる時雨。
全はというと、既に父親に押さえ込まれていた。
「全。残念だがお前達は、楽園症候群に罹患したと判明した。このまま死なせるわけにはいかないんだ」
「離せ! 離してくれ! 愛をっ……返してくれ!」
必死に抵抗するが、さすがに力は敵わない。
父親が嘆息混じりに呟いた。
「あえて、彼女の部屋に監視カメラを付けなくて正解だったな。私の読みが当たっていれば、こうなる事は確実だった」
「やだあ! ゼン!」
尚も暴れる愛に対し、時雨は付き添いの研究員に指示を出す。
「この子に鎮静剤を! 早く!」
「は、はいっ」
「薬!? 薬は嫌! 嫌い!」
注射器に過敏に反応した愛は、自由な足を使って、注射器を持った研究員を蹴り飛ばした。
そのはずみで落ちた注射器は割れてしまった。もうあれは使えない。
「そういえば、女性ホルモンを促進する薬を混ぜた食事だけは、絶対に残していたな。……天性の嗅覚と味覚を持ち合わせている、ということか」
「そうだよ。僕と真逆だ。僕は味すら分からないからね」
「全、お前は楽園症候群の研究から外す。彼女とも、二度と会わせない」
冷徹な言葉に、皮肉めいた笑みが浮かぶ。こんな表情が出来るとは、思ってもみなかった。
「父さん。それは無理だ。分かってるはずだよ。だって、楽園症候群にかかった二人を引き離した結果は、父さんがよく知ってるんだから!」
「ぐ……っ」
「ゼンの声、もう無くなるの無理! ゼンと眠ってると、楽園の夢が見られるの! でも、一人だと寒くて真っ暗なの! 眠れなくなるの!」
愛の言う通りだ。二人で居れば多幸感が増し、その分、一人になった時はとてつもない虚無感が襲い掛かる。
その落差に耐え切れず、二人は何度も夜を重ねた。肌さえも。
だからこそ、彼女は成長を止めなくなったのだろう。今や、彼女は全とほぼ変わらない年齢の容姿になっている。
伸びた髪は切ったが、すらりとした手足も、細い顔も、全てが大人に近づいていた。
成長は内面もだったが、取り乱している今の愛は、多少の退行を見せている。
そしてそれをどうにかしてやりたいが、全も彼女に近付けず、ひたすら抵抗するしかない。
「引き離しても無駄だよ。どんな手を使ってでも、愛の傍に戻る。二人で幸せな夢を見続けるんだ」
「そんな事、させませんよ。あなたは未来の所長です。対する彼女はただの患者で被験者。いずれは別れます」
「時雨、そんな事言って、彼女を排斥するつもりだよね? 君は最初から彼女を敵視していた」
「全……時雨は、時雨なりに心配を」
「心配する必要なんて無かったんだ。ただ僕達を不用意に引き離す行為そのものが、彼女の心情だろう? リスクを考えない短絡的な行動に、情なんてない」
今の全にとって、時雨も父も、ただ敵でしかなかった。
力ずくで運ばれていく愛は、なりふり構わず泣き叫んだ。
「いやあああっ!! ゼン!! ゼン――――!!」
扉が閉まった後も、彼女の悲鳴は響き、それさえも聞こえなくなった頃、ようやく全は後ろ手に拘束されたまま、一度開放された。
「まずはその依存性について、調べさせてもらう。投薬治療が可能ならばそうするつもりだ」
「手遅れなんだ。もう、脳の全てに彼女の声が染みついて、薬なんかじゃ消えない」
「それならば、強制的に彼女の記憶を失わせる。もちろん、彼女にもだ」
「……その程度で、楽園症候群が治るとでも?」
笑わせてくれる、と全は吐き捨てた。彼女に溺れながらも、レポートは書いていたのだ。出力していないだけで、確実に彼らのした事は悪手だと。
「記憶を操作したところで、完全に以前の僕に戻るわけがないじゃないか。ましてや、何かの拍子に愛の声を聞いてしまったら、声の主を探し求めて彷徨うだろうね。……かつての、被験者たちのように」
――当時、楽園症候群が騒ぎになったのは、一組の心中が起きたからだ。否、あれを心中と呼んでいいかは分からない。
だが、それをきっかけに、施設に他の家族たちが押しかけ、子供達をめいめいに引き裂き、家へと連れ帰った。中には頭を打って記憶を失った子供も居たという。だがその子供も、とある場所でパートナーだった相手の声を聞き、向こうも気付き、結局二人は許されない仲であるとして、駆け落ちし、川から遺体で見つかったという。
しっかり抱き合い、幸せそうに微笑みながら死ぬ姿は、水死体だというのに美しく、そして恐ろしかったと見た者は語った。
そしてそれだけにとどまらず、あの事件の関係者であり、パートナーが居た者達は皆、再会を果たした者は心中を、果たせなかった者は絶望の中でありながらも死を選び、共に夢見た楽園へ向かうという遺書を遺して自殺した。
共通項は、誰もがどんな死に方をしようとも、安らかであり、生きている人間の方が絶望する程の幸福を湛えていた事実。
だからもう、全と愛が引き離されようが、全はもはや将来を考えずに愛を探し続けるし、愛もそれは同じだろう。
その果てに再会しようが出来なかろうが、死を選ぶ。そう考えた時点で、既に二人のステージは最終段階に進んでしまっていたのだ。
楽園症候群の真の恐ろしさは、
かつてどれほど親しみ、愛した者であっても、楽園症候群のパートナーが出来てしまえば、ただの他人。
それは全にも変わりなく、今必要なのは愛というたった一人だけ。
「
拘束されたままでもうわごとのように呟き続ける全に、父は届かない声を投げかけた。
「私の判断が甘かった……二人を、出会わせるべきではなかったんだ」
それはもう、どうしようもない後悔の言葉。掴み取れなかった、未来への哀惜。
全の頭の中では、今も彼女の甘い声が響き続けていた。
『愛してる、ゼン』
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