<3.罹患《りかん》>
【楽園症候群に関する仮説レポート】
・この仮説にはまだ臨床実験が成されていない。
・例の施設にて行われた実験のうちの一つ、会話による相性の良し悪しが、楽園症候群の要因と思われる。
・当レポートは、あくまでも仮説として提唱されるものである。
初めに、仮説としての前提を記しておく。
『事件の起きた施設では、当時「障害者」と呼ばれていた者が集められ、それぞれ声によって互いに好感を抱いた者同士を同室とした。結果、声だけでも親密な関係に陥り、依存性を発露したものと思われる』
人間の声にも周波数は存在する。それは個人差にもよるが、その個人差において、心地よさを感じる者、不快さを感じる者、それぞれだ。
だが、ごくまれに特定の人間に対してのみ圧倒的な効果をもたらす声を持つ者は認知されており、それによって相手の意思さえ圧倒する事もあるという。
本件はその域に至らずとも、毎日同じ周波数の声を好意的な言葉によって聞き続ける事で、脳の中で声と快楽を結び付け、依存性を高める可能性がある事に気付いた。
日常ではほぼ有り得ない事だが、こういった施設での閉鎖空間ならば十分に起こる可能性はあり、また、特に聴覚優位を持つ者に対して効果が強く出たのではないかと推測される。
本仮説ではこれを「電子ドラッグ療法」と仮定。人工的な音と違い、生身の人間の声によって脳を断続的に揺さぶり、錯覚と多幸感を与える事で、疑似恋愛へと至るプロセスを作り上げた、と想定した。
互いに互いの声を快楽と結び付け、関係を継続し続けた結果、依存性が高まり、幻覚、幻想の類を引き起こした可能性もある。
しかしこれが何故、互いの安楽死、あるいは心中に結び付いたかは定かではない。よって、引き続きこの仮説の検証を続けていく所存である――。
※ ※ ※
いきなり飛び出た全の仮説は、父である穣も驚かざるを得なかった。
「まさか……これを、あの子が……愛という少女が、指摘したとは」
「彼女は何者なんですか。ただのデザイナーベビーにしては、あまりにも……」
驚きよりも恐怖に満ちた声で、時雨が呟く。
彼女は真っ当な人間であり、だからこそ理解出来ず、そして怯えるのだろう。
初日のような癇癪めいた方法で己の結末を示唆したり、かと思えば全の研究の邪魔どころかとんでもない助けを出したり。
まるで別の何かに見えているに違いない。人は、未知の領域を怖れるものだ。
「恐らくだが、父親側の遺伝子だろう。母親についてのデータも確認したが、分析する限り、強く望んだ部分が優秀さだった。ほぼ天才と言っても差し支えない程の頭脳を持った相手を求め、あの子が生まれた」
「……その経緯も、恐らく自力で得たのでしょうね」
ぎり、と拳を握る時雨を見て、穣は少し眉を下げる。彼女にとっては、相棒を横からかっさらわれたようなものだ。仕方あるまい。
だがこの仮説が正しいとしたら、愛は少なからず全に、否、全の声に対してそのような感覚を抱いた、と考えられる。
瞬間、ぞくりとしたものが背筋を走った。
(息子と、被験者を……このまま二人きりにし続ければ……あるいは)
「所長?」
怪訝な声と共にはっとする。今の考えは、悪魔の囁きだ。
ずっと突き止めたかった真実を前に、今自分は、父として最低なことをしようとしている。
だが、息子はどうなのか。同じように真実が近くにあるとして、黙って見ているわけがない。自分の血を半分とはいえ引いているのだから。
「……時雨。二人の様子を、見て来て欲しい」
「何故、私が」
「私では駄目だ。冷静な、第三者の観点が必要になる。……信じたくないが、信じたいんだ」
「…………なるほど。分かりました」
渋々、彼女は承諾してくれた。それを見送り、どっと穣は息を吐く。
「後で、監視カメラを設置するか……」
何かあってからでは遅い。処置は的確に、素早く行わなければいけないのだ。
しばらくして戻ってきた時雨の顔色は、すこぶる悪かった。
「すまない。報告を頼む」
「所長、私は……あの二人を早急に、引き離すべきだと考えます」
どうしてそう思ったのか。彼女は俯きながら話を始めた。
「まず、彼女の執着が初日よりずっと強いです。邪魔こそしていなかったようですが、全の至近距離から離れようとしません。全はいつも通りでしたが、彼女が仮に成長した場合、このままで済むと思えないのです。思い過ごしだといいのですが、こればかりはどうしても、不安要素として看過出来ないと思いました」
「……いや、今引き離すのはかえって危険かもしれない。それに彼女は、成長していないのだろう?」
「はい……ですが」
「日々のバイタルチェックの記録は残しておくように。成長の兆しが見えたら、そこで引き離す」
「分かりました。そのように」
時雨は安堵したように頷くと、監視カメラの指示も受けて部屋を出て行った。
彼女にとって、全は大事な後継者だ。少女という不穏分子をいつまでも傍に置いていたら、そのうち研究に支障が出る、と本気で考えているのだろう。
その懸念は恐らく当たりだし、下手をすれば二人共の命に関わる。
だからこそ、念入りに監視と準備をする必要があった。
いつでも、すぐにでも、依存をさせないように、と……。
※ ※ ※
愛が来て、半月が経った。彼女は相変わらず子供のまま、難しいはずの本を凄い速さで読んでいる。
対する全も、以前よりレポートがスムーズになった。彼女がレポートを読んで、着眼点を説明してくれるからだろう。時雨の仕事を彼女が奪う形となってしまったが、彼女との方がやりやすい、という事実は胸にしまっておく。
父との会食は止めた。代わりに、愛と一緒に食事の時間を過ごす事にしたのだ。
不思議な事に、彼女と食事をしていると、味が分かるような気がしてきた為である。その事を父に伝えると、苦い顔で承諾をした。
彼女は成長を見せない。それは母親の欲求から逃れる為であり、また、もう一つの欲求が生まれた事に全は気付いていた。
(僕の傍で成長が起きる事で、引き離されると勘付いている)
全も何となくだが、そんな気はしていた。
一応の許可で監視カメラが付いた時、愛は非常に嫌がっていたから。
読み終わった本を片付けた愛は、全の所に来て言った。
「ゼン、愛して」
「無理だよ。僕に、小児性愛者の趣味は無いんだ」
いつも通りのやり取り。愛は小首を傾げて言う。
「本当は、ゼンよりも一つだけ下、なのに」
「それでも、だよ。監視カメラが付いている以上は、ね」
「…………ゼン。あれ、いらない」
ほんのわずか、眉を寄せる愛。それに苦笑して、その頭をそっと撫でながら全は諭す。
「君を治す為だからね」
「嘘。マナが成長したら、すぐ、連れて行くつもり。マナ、そういうのすぐ分かる」
「……だから、もう成長出来ても止めている?」
「出来る。やだ、したくない。ゼンに愛して欲しい」
「…………声が届いているかもしれないね。そうだ、君の部屋はまだ、行った事が無かったね。どうなっているか、見てもいい?」
「何も、無い。荷物だけ」
来てもつまらない、と言いたいのか、愛は拒む。しかし、すぐに考え直したのか、頷いた。
「でも、ゼンが来たいなら、行く」
「うん。じゃあ、連れてって」
休憩がてら、全は愛の部屋へと向かった。どうやら、こちらに監視カメラはついていないようだ。
そして少しして、きょろきょろと辺りを見渡した愛は、ぎゅっと全に抱き着いた。
「……愛?」
突拍子もない行動に、全はどうしたらいいのか分からない。
しかし、すぐに異変に気付いた。
「う、ぐ……っ」
愛が僅かに呻くと、ほんの少し、髪が伸びた。ほんの少し、彼女の背が伸びた。ほんの少し、胸の膨らみが増した。
それは、明らかな成長。
「愛!?」
「……これくらいなら、きっと、ばれない。ゼン、愛して?」
ぴりりっ、と背筋に電気が走った感覚。慣れないそれは、一体何なのか全には分からない。
だが、今までの愛とは違う声だった。
「……愛、もう一度、言って」
声が震える。心臓が、今までにない程の脈拍数を叩き出している。
それでも、聞きたいと思った。思って、しまった。
本当に少しだけ大人びた表情を向け、愛は微笑んで囁く。
「ゼン、マナを、愛して」
震える。全身が。脳の奥底から。
(これは……一体、何だ?)
何度も聞いた声に、急に何かが上乗せされたような感覚。それはまるで、脳を溶かす程の、甘い刺激。
快楽。それは、全が今初めて知った、人間の欲求の一つだった。
「もう、いち、ど」
「ゼン、愛して。マナを愛して」
聞くたびに沈む。溺れる。もっと、もっと、と求めてやまなくなる。
(そうか、これが、愛の言っていた……声の正体)
頭の片隅で冷静に分析するが、心身共に、全はもう止められなくなっていた。
だから、掠れた声で、だけどはっきりと彼女に囁く。
「
ぎゅうううっ、と抱きしめる力が強い。だが、全には苦しさなど微塵もなかった。
「もっと、もっと言って」
「愛してる。
そして、どちらからともなく、唇が重ねられた。
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