レストラン
玉樹詩之
レストラン
時刻は正午過ぎ。私はいつも通り、勤務地近辺にあるイタリアンレストランに入った。
「いらっしゃいませ~」
女ウェイターの間延びした声が私を迎え、その数秒後に当人が現れた。
「お一人ですか?」
「はい、隅の席空いてますか?」
「少々お待ちを」
彼女はそう言うと、店の最奥に目を凝らして窓際の角にある席を見た。
「はい、空いていますよ」
「それじゃあ、そこで」
「はい、ご案内します」
手短に受け答えをすると、彼女は右手に水の入ったボトルを持ち、左手にはコップを持って店内を先行した。私はその後に続いて店内を進み、窓際の角席。さらには店内が見回せるように壁側のソファに腰かけた。
「ご注文が決まりましたら、ベルでお呼びください」
中年と思われる熟練女ウェイターは、少し目を離した隙に水を注いだコップをテーブルに置き、適度なスマイルと適切な挨拶を残して店内入り口付近にある電光掲示板に目を移し、点灯している番号のテーブルに向かって行った。
私は早々にその背中から目を逸らすと、左手側に立て掛けてあるメニューを取り、雑にページを開いた。するとそこはパスタの欄であった。漠然と、今日はこの中から決めるか。と思った私は、メニューを開いたままテーブルに置き、ソファにもたれかかった。そもそもここには腹を満たしに来ているわけでは無いしな。なんてことを腕を組みながら考えていると、他の客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
先ほど自分を案内したのとは別の女ウェイターが、落ち着いた調子で挨拶をしながら静々と出て来た。そのウェイターも中年くらいであるが、もう一人のウェイターと比べると少しだけ若く見えた。その静かで沈着とした立ち振る舞いがそう思わせるのかもしれないし、実際彼女の方が若いのかもしれないと私が考えていると、入店してきた客は私とは真逆の、窓が周りに無い奥まった角席に着いた。都合よく女の客であった。
髪は黒く美しい直毛である。横から見る限り、目は優しさを体現するように緩く垂れており、鼻は目立たない程度に丸く収まり、唇はそれに反してぷっくりと出ている。他のパーツがこじんまりとしているせいか、いつの間にか大きめの唇に目が行く。ブラウンのカーディガンの中には白いシャツ。ズボンはラインが出ない程度にゆったりとしたカジュアルズボンで色は暗めである。あの落ち着き様と、傍らに置いているエコバッグからして、彼女はきっと買い出しの前に、あるいは途中に、ランチの時間を狙ってここに来た人妻だと私は推察した。
と、ここで私はテーブルに両手を着き、再度メニューを確認した。するとふと視界に入った鮮烈な赤。よし、今日はナポリタンにしよう。そう心に決めた私は、渋っていたベルを鳴らした。手隙のウェイターはすぐに駆け付けた。私は不愛想にナポリタンを頼んだ。
さて、私の日課はここからである。と言ってもまだ必要条件が整っていない。何が足りないかと言うと、標的の声音である。彼女がどんな声を出すのか知らなければ、それは映画を無音で見るような愚行であると言えよう。すなわち私は、彼女が注文する瞬間を待った。もう部屋の準備は出来ている。
私が注文を終えた僅か一分後、呼び出しのベルが鳴った。それに反応したウェイターが彼女のもとへ歩み寄る。
「このランチセットで」
私が人妻だと推察する女は、メニューに指を這わせながらランチセットを注文した。どのランチセットかは分からないが、そんなことはどうでもいい。重要なのはその声音であった。余所行きの少し高めのトーンで発された声。しかしそれにはどこか落ち着きに見せかけた諦観や無力感が見え隠れしていた。結婚をして仕事をするでもなく、だからと言って家事をなおざりにするわけにもいかない彼女は、時間を持て余して自分を満たしてくれる何かを探しているのだ。声からそんな雰囲気を感じ取った私は条件の全てが出揃ったことを確認して、いよいよ自らのゾーンへと沈み込んでいった。
ホテルのベッドはダウンライトで妖しく照らし出されており、ベッドの傍らにはカーディガンやカジュアルズボンが小動物の亡骸のように脱ぎ捨てられている。
「どうかしました?」
他人行儀のようなセリフは、男をたぶらかす甘く落ち着いた声音を以て発された。誘われるようにそちらを見ると、そこには人妻が横たわっている。なよやかに交差して伸びる二本の足は白く、その腰元は僅かにくびれ、それに反するように胸元は円滑に隆起し、肩と首筋に纏わりつく黒髪はライトを受けて所々淑やかな白を帯びていた。
「じっと見つめられたら恥ずかしいわ」
甘い音を漂わせる大きな花弁は紅い。思った通り、彼女には口紅が良く似合う。
「ごめん、見惚れてしまってね」
私はそう言いながらワイシャツを脱ぎ捨て、ズボンを脱ぎ捨て、彼女の横に寝転がる。正面から、それも近くで彼女の顔を見ていると、私は蜜を求める蜂のように、本能のままに花弁へと導かれていった。
諦念を抱く女の接吻は長い。旦那の味に飽きたからなのか、それとも久しぶりの味覚を存分まで楽しみたいからなのか、はたまた私の生を吸い尽くそうとしているのか、どれが正解かは分からない。しかし一つだけ確かなのは、彼女が寂しさの余りここにいるということである。
誰かの妻になってしまったことを後悔し始め、まだ一人の女でありたいという願いが生まれた時分の人妻は一等熟れた果実と言えよう。私の両手が彼女の肢体を愛撫すればするほど、彼女の内部で眠っている獣は次第に覚醒し、数分後には紅潮した頬と熱い吐息が私の首元に忍び込む。
荒々しい両者の吐息が互いの理性を蒸発させる。本能に従順な下僕となった男女は何を思うことも、何を考えることも無く、人間という形を保つためだけに纏われていた最後の一枚を解き、隠されていた神秘と触れ合う。ここまで来ると、もう目を瞑っていても彼女の全てが分かるようであった。
ある程度の場数を踏んでいる彼女は大仰に喘がない。本当の快楽を知悉しているからこそ、彼女は私の腕の中で時折小さな声を漏らすのみで、あとはただ、この場の雰囲気と一体になるかの如く、罪と欲に身を沈めて行った。
「今日はありがとう」
理性を取り戻した彼女は決まってそう言う。今日が最後になるかも知れないという危惧を内包したその言葉に、私は毎度心を震わせる。この言葉があと何度聞けるのだろうか。というこの背徳感こそが、私と彼女の逢瀬を加速させているということを私も彼女も知っていた。私たちは理解の上で発言をし、了承しているのであった。
ベッドに腰かける私の背後からはシーツがサラサラと擦れる音が聞こえてくる。振り向くと彼女はまだ寝転がっている。先ほどまで露わになっていた野生の部分。胸部から腰部にかけては薄い毛布を掛けており、軟弱な腕がそれを抑えている。じんわりと汗を纏った毛髪は所々束になってはいるものの、数時間前の典雅の影は辛うじて残っていた。
「また連絡します」
「あぁ」
煙草を吸わない私は、鮮烈な紅を保っている彼女の唇に吸い付く。誰かの女と身体的関係を持つよりも、私はこの密やかな罪の接吻に興奮を覚えるのであった。何故ならこの行為には、理性が伴っていたから……。
「お待たせしました。ナポリタンでございます」
私の妄想が終わると同時に注文の品が届いた。最早私の欲は満たされつつあったが、この食事こそが締めになるのだから、おざなりには出来ない。ボックスからフォークを取り出した私は右方に座る人妻を一瞥し、全てを消化するが如く、勢いよくナポリタンを頬張った。するとその瞬間、トマトケチャップの真紅がシャツに撥ね、図らずも彼女の口紅を想起させた。私はフォークを置き、撥ねたトマトケチャップを指で拭い取って舐めた。それはただのトマトケチャップであった。
レストラン 玉樹詩之 @tamaki_shino
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