みぃ
『笑ってる』、私は慌てて窓の外に目をやった。すると彼女は、電話ボックスの壁すれすれに立ち、左耳にあてた受話器の底に右手をていねいにそえたまま、好奇の目でこちらを見すえていた。
「なんだって?」
『さっきのボロアパートの女がね、笑ってる、ニッコリ、笑いえくぼが浮かんでる』
「そんなにはっきりとわかるものか? こんな夜ふけに、それもガラスごしで」
『私、
「初耳だな」
『だってはじめて言うもの。……思えば、誰かにこのことを話したのもはじめてね』
「まあ、そんな機会がないんだろうさ。そうそう使い道もないだろうからな。
『意外とそうでもないわよ?』
「というと?」
『男の人としてるとき、相手の顔がはっきり見えるもの』
「はははははははははははははははははははははははは」
『今日のあなたはとても
「ああ、わかるか? じつはな、別れたんだよ
『ええ。私とてもうれしいわ。すごくうれしい。すごいわ。あの奥さまを
「なに、どんなってこともないさ、ただ、
『まあ、それが難しいのだけれどね。それにしても。お疲れさま。ごほうびが欲しいんじゃない?』
「ああ、いますぐお前を
『そっか、そうよね、もう、電話ごしでいることもないのよね。これからはいつでも、どうどうと相手のところに通えるのね』
「だから、俺いま、お前の家の前にいるんだ」
『え、そうなの? やだぁ。私……家の片づけすませてないわよ?』
「そんなの気にしないさ。なんなら俺も手伝うぜ?」
『たしかに、これからいっしょになる相手に、
「まかせろ。……そう言うと思って、刺身包丁も持ってきてあるんだ」
『あなたらしいわ。なんせ、初デートに〝ゴム〟を持ってくるくらいだものね』
「おいおい……それはもう言わない約束だろ……? で、どうする?」
『そうね……さきに家にあがってていいわよ。
「ちなみに
『そうねぇ……生き別れた〝ふたごの兄〟ってことにしておくわ』
「はははははははははははははははははははははははははははは」
『じゃあ、切るわね。私もすぐにいくから』
「ああ、せいぜい夜道に気をつけてな」
『あははははははははははははははは』
突然彼女は、電話機のほうに
十円玉を入れる彼女の手つきは、どこか楽しげだった。カエルの
満足いくくらい十円玉をいれることができたのだろう、彼女は、ひとつ身ぶるいをした。で、つぎに、形を崩さないよう盛り塩に針を挿入するような慎重さで、プッシュボタンへと手をのばした。
そして彼女は、こちらにチラと顔を向け、ピンとのばした人さし指で、プッシュボタンを押しこみはじめた。そのうごきにあわせて、
そのとき突然、室内にスマホの着信音が鳴りひびいた。私はそれにおどろき、
鶏肉たちは、ベッドのうえにきれいに並べられていた。ちょうど、〝
「うわはははははははははははははははははははははははははは」
と、誰かの笑い声がして、ベッドから
〝自分の顔はいまも、すこしくらいにやけているんだろうか〟、という思いつきから、私は、ベッドの下から首をのばし、窓の暗がりに目を向けてみた。そこに映る自分の顔は、皮の
すると私の顔は、影のなかに落ちくぼみ、目も、鼻も、口もかき消え、やや
視線を、チラと落とす。
彼女は姿を消していた。
顔の向こうに透けて見える
とまりかけた振り子のようにゆれる緑の受話器は、〝誰かとしたくてしたくてたまらない〟というように、ときおりかすかに
部屋にひびきつづける着信音は、およそ
私は、部屋の暗がりに視線を向けながら、鶏肉のかたまりに躰をあずけた。ひんやりとした冷たい感触、まるで、
「あは、あはは。あは、あは。あはとあははと、あはとあは」
ソファーのうえに
彼と私は、色も形もおそろいのスマホを使っていて、着信音までいっしょにしていたから、どちらのスマホが鳴っているのか、ここからでは判断がつかなかった。まあ、そんなのはどうでもいいことだ。こんな夜
そう結論づけてしまうと、あんなにうるさかった着信音が、声を落としたように感じられた。そのちょっとした
私は腕をまわし、鶏肉のかたまりをそっと抱きしめた。
思いがけず手に入った無料の食品。
いくら肉類が苦手といっても、そのなかでもとくに鶏肉が苦手といって、それで
それを無駄にするなんて、そんな法はないはず。とくに、私にとっては。空腹に目をまわしているというなら、なおさら。
独りで生きていくというなら、自分の
私はそうと決めると、鶏肉から躰を離し、
「ごちそうさまでした」
『おそまつさまでした』
ごし 倉井さとり @sasugari
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