はぐれものの島-5

「――――……」


 波の音が聞こえる。潮の香りがする。

 薄暗い中で、意識が浮上する。また気を失っていたのだと、奏澄はこめかみを押さえながら体を起こした。パラパラと砂が落ちて、どうやら砂浜に倒れていたらしい、ということに気づく。

 立ち上がって服の砂を叩くと、すぐ近くに船があることに気づく。コバルト号だ、と奏澄はほっとした。海に浮かべられているのではなく、傾船修理の時と同じように、浜に傾けて置かれていた。直後、違和感に眉を顰めた。

 古びた臭いがする。長期間、帆が張られた様子が無い。奏澄はぐるりと歩いて船を見て回った。細部を見れば、全く人の手が入らずに放置されている、というわけでもないようだ。しかし思った通り、この船は暫く航海に出た形跡が無い。

 マストを見上げれば、いつもそこに掲げられていた海賊旗は無かった。だが、これは奏澄と一緒に航海をしてきた、コバルト号だ。それは間違いない。奏澄は、不安に襲われた。

 使われていない船。仲間たちがいる様子もない。もうこれは、奏澄の船ではないのではないか。奏澄がいなくなったことで、団は解散し、船を手放したのではないか。

 奏澄にとっては、仲間たちと別れてから、それほど長い時間は経っていない。しかし、あの窓のあった不思議な空間に、どれほどいたのかわからない。この船の状態を見れば、あれから幾ばくかの時間が流れているのではないだろうか。

 もうここに、仲間がいないのだとしたら。誰も奏澄を、待ってなどいないのだとしたら。

 過ぎった考えを頭を振って追い払った。深呼吸をして、言葉に出す。


「メイズが、待ってる」


 待っている。メイズは。彼だけは、必ず。

 他の誰がいなくなったとしても、メイズとは、絶対の約束がある。 彼はその約束を、決して違えない。奏澄が、ちゃんと元の世界に帰ったのだと。その確信が持てていなければ、きっと。彼が待ってさえいてくれるのなら、奏澄はどこへだって会いに行く。


 奏澄は船に背を向けて、島に足を踏み入れた。しかし、霧の漂うその島は見通しも悪く、奏澄の恐怖心を煽った。ここがどこだかわからない。誰がいるかもわからない。どちらに行けば、人のいる場所へ辿り着けるのか。

 初めてこの世界へ来た時と同じだ。それでも、あの時より恐怖は無い。

 会いたい人が。帰りたい場所が。居場所があると、知っているから。

 奏澄は大きく息を吸って、歌い出した。この世界で初めて歌う、愛の歌を。


 暖炉の火だと、言ってくれた。それなら、どうか。明かりを、灯して。私を見つけて。


 歌なら、ただ呼びかけるよりも遠くまで声が届く。不思議に思った島民が、見に来るかもしれない。そうしたら、案内してもらえばいい。二、三曲歌って誰も来なかったら、とりあえず中心部を目指して歩いてみよう。

 そう考えながらも、奏澄はどこかで期待していた。この歌を聞いて、メイズが自分を見つけてくれることを。

 さすがにそれは都合が良すぎるだろうか、と歌いながら表情だけで苦笑して。草むらが揺れる音に、目を向ける。霧の向こうに、人影がある。思惑通りにいったことにほっとして、歌を止め人影の方に足を向けた。


「すみません、ここ……って……」


 声をかけながら、はっきりと見えてきた姿に、足を止めた。


「……メイズ?」


 見慣れた姿に、息が止まる。メイズは幽霊でも見るような顔で、呆然と立ち尽くしていた。

 じわじわと、嬉しさと、愛しさと、色々なものが込み上げて。涙で霞む視界のまま、奏澄は勢いよく駆け出した。


「……ッメイズ!!」


 なりふり構わず思い切り叫んで、走った勢いのまま飛び込んだ。固まっていたメイズは、その勢いを受け止めきれず、そのまま後ろへ倒れ込んだ。


「メイズ! メイズ!」

「……カ、スミ……?」


 泣きながら名前を呼び続ける奏澄に、メイズは信じられないような声を漏らした。震える彼の手は、奏澄を抱き締めようとする形のまま、宙に浮いている。


「本当、に、本物か?」


 幻覚の類だと思っているのかもしれない。触れたら、消えてしまうのではないかと。その不安を払拭するように、奏澄は泣きじゃくりながらも、メイズの首に腕を回して、ぎゅうとしがみついた。


「私だよ、カスミだよ! メイズ、ただいま!」


 奏澄の言葉にメイズは息を呑み、そして奏澄を抱え込むような形で、強く抱き締めた。


「……ッ、カスミ……!」


 奏澄と同じように、何度も何度も、名前を呼んで。その存在を確かめるように、きつく抱き締めた。その声色から、メイズも泣いていることが窺えて。苦しさは心地良くすらあった。奏澄は泣きながら笑った。

 暫くそうして、メイズが名残惜しそうにしながらも少しだけ体を離し、額を合わせた。その目に涙は無かったが、目元が少しだけ赤くなっているのを見て、奏澄は微笑んだ。


「おかえり、カスミ」

「うん。ただいま、メイズ」


 その言葉に、ここが、この腕の中が、帰る場所なのだと。メイズも同じように、思ってくれていたのだと。そう感じられて、胸が温かくなった。


「そうだ、メイズ。他のみんなは? どうなったのか、聞いてもいい?」

「ああ……。お前がいなくなって、もう一年以上経つからな。順に話す」


 一年以上。頭の中で繰り返して、奏澄は目を見開いた。


「一年!?」

「そうだ。お前の方では違うのか?」


 言われて、奏澄は目を逸らした。奏澄にとっては、つい先ほどのことだ。だが、そうとは言いづらい。

 一年。であれば、メイズの反応は納得だ。しかし、あれだけの再会劇をかましておいて、自分の方は今さっき別れたばかりです、と言ってしまうのはあまりに恥ずかしい。奏澄の方でも、大きな決断をしたり、心境の変化があったりと、言い訳はしたいところなのだが、メイズの耐えた時間と比べてしまうと。


「時間の流れが、ちょっと、違うみたい?」

「そうか。まぁ、いい。歩きながら話そう」


 ごまかした奏澄をさして気にすることもなく、メイズは立ち上がって、奏澄に手を差し伸べた。奏澄がその手を取って立ち上がると、逆の手を繋ぎ直し、手を引いて歩き出す。メイズの方から手を繋がれたことに驚いたが、しっかりと握られた手に、奏澄は申し訳なさを感じた。これはきっと、奏澄が急に姿を消したせいだ。また消えてしまうのではと、怯えているのかもしれない。

 奏澄は繋がれた手をもぞもぞと動かして、指を五本全て絡めた。そして、ぎゅっと握り返す。決して離れないと、伝わるように。


 歩きながら、奏澄はこの一年のことをメイズから聞いていた。

 ここが、はぐれものの島であること。奏澄は元の世界に帰ったと、皆が判断したこと。そのため、一部を除いて自分たちの居場所に帰ったこと。いつか再び海へ出る時のため、コバルト号は置いていったこと。メイズは村に間借りしていて、船では生活していないこと。

 レオナルドは三ヶ月ほど島にいて、島民の話を聞いたり、島の物を分解したり修理したりと研究していたようだが、その後ヴェネリーアに戻ったそうだ。

 ハリソンは、今も村で診療所を開いている。だが、一人ではなく助手を雇い、自分に何かあっても島の人間を治療できるように、医学を教えているらしい。


 まずはハリソンに顔を見せに行こう、と二人は診療所の戸を叩いた。

 奏澄の姿を見たハリソンは大きく驚いて、次に二人の繋がれた手を見て、表情を緩めた。


「おかえりなさい、カスミさん」

「ただいま、ハリソン先生」


 深く聞かずにそれだけ言ったハリソンに、奏澄は紳士ぶりは健在だと思いながら微笑んだ。


「カスミさん。あのコンパスは、どうなりましたか?」

「え? あ、あれは、まだ持ってます」


 奏澄は首から下げたコンパスを、襟元から取り出した。


「ただ、針の色は戻ってしまったんですけど」


 奏澄の血で赤く染まっていた磁針は、元通りの鉄の色に戻っていた。

 それを眺めて、ハリソンは何かを考える目をした。


「それは、もうあなたの物です。元の世界に戻るつもりがなくても、今後も持っていると良いでしょう」

「……はい、そうします」


 正直、このコンパスはトラブルの元になるのではないかと思っているのだが。こっそりセントラルに返すわけにもいかないし、オリヴィアの言葉を思い返せば、返したいとも思わない。ハリソンが持っていた方が良いと言うのであれば、何か意味があるのだろう。そう考えた奏澄は、今後もこれを肌身離さず首から下げていようと決めた。


 診療所を出て、今度は一軒の家を訪れた。中から出てきたのは、アルフレッドだ。奏澄は彼のことを知らないので、一歩下がった位置で頭を下げた。


「彼女は」

「彼女が、以前話したカスミだ」

「……戻ってきたのか」


 アルフレッドは、心底驚いた様子だった。複雑な表情で自分を見つめるアルフレッドに、奏澄は居心地の悪さを感じ、身じろぎした。


「待ち人が戻ってきたということは、お前はこの島を出ていくんだな」

「そうなる。長い間、世話になった」

「お前たちには、俺たちも随分刺激を貰った。今夜は、祝いの席を設けよう。大したことはできないが、送別だ」

「感謝する」


 短いやり取りではあるが、関係は悪くなさそうだ。メイズはこの村で、それなりにうまくやっていたのだろう。そのことに、奏澄は少しだけ寂しさを覚えていた。自分がいなくても、メイズは普通の人たちと普通に暮らしていける。それは、良いことだ。寂しいと思うのは、あまりに自分勝手だろう。その気持ちには、蓋をした。


 夜までの時間、奏澄たちは船の準備をすることにした。予想通り、たまに手は入れていたようだった。島の人間も手伝ってくれていたらしい。最低限航海をするのに問題は無いということで、荷物の積み込みや簡単な点検を行えば出航できる。

 コバルト号に乗り込んだ奏澄に、メイズは一枚の布を手渡した。


「これ……」


 広げると、それは見慣れた海賊旗だった。


「ライアーから、お前が戻ったら渡すように頼まれた」

「ライアーが……」


 彼の描いたたんぽぽを眺め、奏澄はそれを大切に抱き締めた。

 自分が戻ることを。メイズ以外にも、望んでくれていた。


「お前が戻ったら会いに行くと、あいつらと約束している」


 その言葉に、奏澄は驚いてメイズを見た。メイズが、仲間と、約束を。


「一緒に会いに行くだろ?」

「――もちろん!」


 たんぽぽが咲くような笑顔で、奏澄は答えた。

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