第三章 月影の修道院 3

 修道院を囲む壁の高さは、ちょうどイザヤ二人分ほどだった。上部には鉄製の忍び返しがつけられており、よじ登ったところで侵入するのは難しいだろう。それは外からだけでなく、内側からも同じことだった。

 南壁沿いには、衛兵詰所と施療院が建てられている。施療院内には病室の他に薬草室と浴場があり、日中は二名の修道女が看護係として働いているとのことだった。

「ありがとうございました」

 案内の途中で突然礼を言ってきたラザロに、イザヤはきょとんとした。

「どうも院長は、僕のことを単なる青二才の教師だと思っているみたいなんです。あなた方のおかげで、僕が司祭であることを思い知らせることができて、スッキリしました」

「君は、司祭にしては随分若いからな」

「えへへ、実は僕、史上最年少の司祭なんです。十四で司祭資格を得て、今年で四年目です」

 目の前の童顔司祭が年上であることを知り、イザヤは少なからず驚いた。

「ご立派ですね。さぞかし優秀でいらっしゃるのでしょう」

 動揺を隠すように言った言葉だったが、ラザロはそれを素直に受け取ったようで、照れるように微笑んだ。

「いえいえ、そんな」

「君のおかげで助かった。おかげで今夜の宿も確保できたしな」

 ラザロの取り計らいで、今夜は敷地内の施療院に泊まることになっていた。

「しかしミリアム院長は、噂通りのお人のようだな」

 ザカリアの言葉に、イザヤは「噂通り?」と首をかしげた。ラザロがうなずき、口を開く。

「彼女は裕福な商家の生まれなのですが、幼い頃より読み書きに天賦の才を発揮し、才女として有名だったそうです。学識だけでなく信仰心も深く、十年ほど前に親の決めた縁組みを拒んで、当時廃墟だったこの修道院を再建したのですよ。その際、教会が所領の一部を寄進したんです。著作も多く、その博識ぶりは今や連邦じゅうに知れ渡っているほどなんですよ」

「つまり彼女にとってここは、自分の手で築き上げた城のようなものなのだな」

 ザカリアが、鐘楼のそびえる修道院の建物を静かに見上げた。

「その通りです。傀儡魔を出したことが世間に知れれば、修道院の評判が下がるだけでなく、院長のこれまでの努力も無に帰してしまうでしょう」

 ラザロがそう言ったとき、一行は衛兵詰所の前で足を止めた。視線を感じて振り返ると、先ほどの門番が門のそばからじっとこちらを見つめていた。イザヤの視線に気づくと、苦い顔をして目をそらす。

「あの門番も含めると、衛兵はどれくらいいるのですか」

「交代制ですが、常に二人以上はいるようです。中を見ていかれますか」

 ラザロに問われて、ザカリアがうなずく。

「もちろん。いかにも、アトリビュートがありそうな場所だからな」

「もう、魔力の主題がわかってらっしゃるんですか?」

 ラザロが驚いたように目を丸くする。

「まあな。と言っても、君も教師なんだろう? 旧世界文書に通じているなら、われわれが話した事件の概要を聞くだけで推理できそうなものだが」

「あいにく僕の専門は『リベルの書』でして。たしかに旧世界文書はひととおり学びましたが、回収人の方ほどの知識はないのですよ」

 そう言って頭をかいたラザロに、イザヤは「セレネとエンデュミオン」の物語を簡単に説明した。

「月の女神、ですか。それでその、セレネのアトリビュートというのは……」

「弓矢に三日月、鹿と猟犬ですね」

 イザヤが言うと、ザカリアがうなずいた。

「さすがに鹿はないだろうが、弓矢や犬、三日月の形をしたものに気をつけて見てみる必要があるだろうな」

「なるほど、弓矢。それなら、詰所を調べる必要がありますね。しかし、三日月はわかりますが、どうして月の女神のアトリビュートが弓矢や猟犬なんです?」

 首をかしげたラザロに、イザヤが答える。

「月の女神セレネは、後に狩猟の女神ディアナと同一視されるようになったんです。弓矢や猟犬は、本来はディアナのアトリビュートなのです」

「エンデュミオンとの悲恋の物語は本来セレネのものだったが、後にディアナにも転用された。そのため画題にも『セレネとエンデュミオン』『ディアナとエンデュミオン』の両方が存在するんだ」

 二人の回収人の言葉に、ラザロはちょっと眉を寄せた。

「なんだか、ややこしいですね。神がたくさんいるというだけでも、頭が痛くなりそうなのに」

 すると、頭の中でふっと息が漏れる音がした。

『やはり司祭は、神話主題には詳しくないんだな』

 イザヤは小さくうなずいた。

 詰所では、一人の衛兵が手の中でダイスを転がしていた。事情を話すと、彼は自分が椅子代わりにしていた長持ちをみずから開けて見せてくれた。

 中には古い上着や鎧の他に、錆び付いた剣が何本かしまわれていた。イザヤがひとつひとつを改める間に、ザカリアは壁にかけられた斧や立てかけられた槍を見て回っていた。

「ここに、弓矢はないのかな」

 衛兵は部屋の奥に置かれた長持ちを開けた。つるの張られていない弓が数本と、数十本の矢が束ねて入れられている。

「つるは張らないんですか?」

 イザヤが問う。

「弓は、ほとんど使わねぇんです。おれたちは銃を使うんで」

「何。銃があるのか」

「安心してくだせえ、旧世界の遺物じゃねえです。カナンの職人が作ったもんですよ」

 そう言うと、衛兵はザカリアの背後の壁を指差した。金属のフックにかけられたライフル銃が二挺、無言で鈍い光を放っていた。

「さすがに修道院の中で旧世界の遺物をこっそり使うなんてこたぁしませんよ」

 衛兵の追従笑いに、「当然ですね」とラザロは目を細めた。

「イザヤ。僕が弓矢に『回収』をかける。僕の『目』とともに、君も見届けてくれないか」

「回収、ですか?」

 ザカリアの思いがけない言葉に、イザヤは目を見開いた。

「しかし、この弓はつるが張られていません。これではアトリビュートとして機能しないのでは?」

「つるが張られていなくとも、弓は弓だ。細かい形状や状態は、アトリビュートとなる資格に影響を及ぼさない。可能性がある以上、試してみるべきだ」

「でも、もし違っていたら……」

「回収」は一度使うごとに待機時間が発生する。ザカリアのそれがどれほどのものかわからなかったが、今「回収」を行ってしまったら、今日はもう再び発動することはできないだろう。

 そんなイザヤの考えを打ち消すように、ザカリアはにっこりと微笑んだ。

「安心してくれ。今『回収』を使っても、日暮れ前には再び使えるようになる」

『まさか』エレミヤの困惑の声が響く。『ありえねえ』

 自身の思考を代弁するような相棒の言葉を聞きながら、イザヤは絶句した。

「それに、万が一僕が使えなくても、君がいる。問題ないだろう?」

 にこりと小首をかしげるザカリアに、イザヤは反論することができなかった。その無言を諾と解釈したのか、ザカリアは黒い手袋をするりと外した。

 中指に嵌められた魔石は、血のような赤色をしていた。その色の強さに、一瞬どきりとする。が、弓矢にかざされた途端、潤いを含んだ優雅な光が放たれた。

 ――女性の主題だろうか。

 光の印象からどこかたおやかなものを感じた瞬間、ザカリアがため息とともに首を振った。魔石の光は、途端に消えていく。

「違ったようだ」

 ザカリアは長持ちの蓋を閉じ、衛兵に礼を言った。

「壁内に犬はいるか?」

「犬? いませんよ。院長が動物嫌いで有名なんですよ。獣の匂いにハルピュイアが寄ってくるからって、馬も手放したくらいです」

「獣の匂い、か。猟犬という線は、なさそうだな」

 詰所を出ると、ザカリアはイザヤを振り返った。

「次は、『月』だ。今日の月の出は九時頃のはず。それまで調査を続けさせてもらおう」

「月って、月に向かって回収をかけるつもりですか?」

「ああ。今夜は三日月じゃないが、かの女神を月そのもので表した絵もあるくらいだからな。試す価値はあるだろう」

 その言葉に呆然としていると、エレミヤの声が鳴った。

『驚くことじゃねえぞ、イザヤ。虹、雷、雨なんてアトリビュートもある。まあ、あまり前例はないが』

 もちろん、知識としてそうした自然現象がアトリビュートになることは知っていた。だが、「月」という触れることのできないものに向かって「回収」をかけるということが、あまりに現実離れしているように思えたのだ。

 戸惑っているイザヤをよそに、ザカリアは修道院の建物を見上げた。

「さて、次にすべきは、ここにいる人間を詳しく調べることだな」

「そのためには、中に入る必要がありますね」

 ラザロが意気揚々と言った。

「まずは聖堂へ参りましょう。その後、修道院の内部をご案内します」

 修道院は北と南で分かれており、北側には鐘楼を持つ聖堂、南側に修道女たちの生活空間があるとのことだった。

「鐘楼には、窓がありますね。西向きの、カナンの街を見渡せそうな窓が」

「あれは明かり採りの窓ですよ。聖堂から入れます。行ってみますか?」

 そう言って、ラザロは西側にある聖堂の入り口を開けた。閂方式の扉で、夜間は閉ざされるが、日中はこうして開いているとのことだった。

 中は、機構の内部と似た白い石壁の空間だった。白木の祭壇へと続く身廊の床は、祭壇上の大きな丸窓から入る光に照らされていた。かつては「薔薇窓」と呼ばれステンドグラスで装飾されていたが、今では透明のガラスが嵌め込まれているのみだ。燭台やリベルの書はその都度用意をするとのことで、祭壇の上には何も置かれていなかった。

 鐘楼の扉は、入ってすぐ左側にあった。一般的なウォード錠の扉で、ここも聖堂と同じく夜間は鍵がかけられると言う。扉を開けるとすぐ、螺旋階段が上へ向かって延びているのが見えた。窓は、三十段ほど上ったところにあった。ラザロの言った通り採光用のもので、ガラスは入っていない。東側の壁を背にしてしゃがむことで、カナンの街を見渡すことができた。

「ここに人が入るのは、鐘を鳴らすときだけですか」

 イザヤの問いかけに、ラザロがうなずく。

「そうですね。係の修道女が、聖務日課――お祈りの時間ごとに、鳴らしていますよ」

「それ以外の人間が入ることはないのか?」

 ザカリアに聞かれて、ラザロが困惑気味に眉を寄せた。

「そうですねえ。鐘以外に何もない場所ですし、鳴らしたらすぐにお祈りの時間だから、長居もできません。無断欠席しようものなら院長からのお咎めが待っていますし、労働を放棄してここで怠けても同じです。いや、もっと恐ろしいことになるかもしれません」

「つまり、係の修道女以外は来ないということだな」

「いや、そうとも言い切れません。つい最近まで、補修工事が行われていたんですよ。漆喰を塗り直したんです。ほら、きれいでしょう」

 ラザロが指差した壁は、よく見れば確かに真新しい白さだった。

「古い建物ですからね。一部、剥がれ落ちてしまっていたんです」

「つまり、最近まで外部の人間が出入りしていたということか」

 ザカリアの問いに「ええ」とラザロはうなずいた。

「職人たちが六人ほど、だったかな。年明けから始まって、終わったのは――僕の着任直後だから――ちょうど、ひと月ほど前だったと思います」

 となると、被害の発生時期とは重ならない。職人の中に傀儡魔がいる可能性はないというわけだ。

 だがザカリアは「なるほど」と不敵な笑みを浮かべた。

「つまり、その間彼らは、修道女たちと接触できる立場にいたんだな。職人と修道女の間に何かがあってもおかしくない。もしそうなら、それが今回の事件を引き起こす契機となったかも――」

「まさか!」ラザロが眉をひそめ、ザカリアの言葉を遮った。「あの院長がいる限り、そんなことは起こり得ませんよ。お祈りの時間ごとに、作業を中断させていたくらいですからね。職人たちも、作業が終わったらすぐに帰っていましたよ」

「そうか。では、関係なさそうだな。残念だ」

 ザカリアの小さな声を聞き逃さなかったようで、ラザロはむっとして口を尖らせた。イザヤはあわてて「上に行きましょう」と声をかけた。

 階段を上りきると小さな踊り場があり、鐘を鳴らすための紐が頭上からつり下がっていた。やや錆び付いてはいるが大きく立派な鐘を、イザヤは下から見上げる。鐘の周りにはぐるりとアーチ型の窓が開けられていたが、踊り場からはザカリア二人分以上の高さがある上に、足をかけられるような場所もない。あそこから外を見ることはできないだろう。

 イザヤは紐を引いてみたい衝動に駆られたが、さすがに怒られるだろうと思い、素直に下まで下りた。

 聖堂に戻る。祭壇に向かって右側に、慎ましげな白い扉があった。

「あの扉の先が修道院です。さっそく参りましょう」

 扉を抜けると、そこは回廊の一角だった。アーチ型の列柱を持つ回廊は、右斜め奥に見える中庭を四角く囲んでいる。

「部屋があるのは回廊の東側と南側のみです。こちらの東側には……」

 言いながら、ラザロが通路の左の壁を差す。

「聖具室と図書室があります。図書室では写本も制作しているんですよ。この修道院の大事な収入源になっています」

「写本、ですか」

 言いながら、イザヤのはリシャール家で見た空の本棚を思い出していた。写本とはいえ、本であることには違いない。

「大丈夫ですよ。写本はもちろんのこと、図書室には、旧世界で生み出された内容の本は一冊もありません。あったとしても、注釈書など、崩壊後にリベルの司祭や神学者が手を加えたものになっています。アトリビュートとなるのは、リベルの書などの旧世界文書の書物でしょう?」

 初めて聞く話だった。その真偽を確かめるように、イザヤはザカリアに顔を向けた。

「リベル教会は表向きは書物の所持を控えるよう奨励しているが、実際は教会にも修道院にも多くの蔵書がある。救世主の加護が魔力を遠ざけると信じられているからな」

 なるほど、とイザヤはうなずいた。確かに、書物をアトリビュートとする主題や人物に、そこまで危険なものはない。モリスもあそこまで神経質になる必要はなかったのかもしれない。

 ラザロは、回廊をまっすぐ南へと進んだ。図書室を過ぎたところには階段があり、二階の東側は寮になっていると言う。

「南側は、一階が食堂と厨房。二階は院長の私室と客室になっています」

「客室があるなら、そっちに泊めてくれればいいのに。なあ、イザヤ」

「さすがに、それはダメですよ。ここは女子修道院なんです。お泊まりになれるのは、女性のお客様のみです。まあ、ほとんど使われていないみたいですけど」

「ラザロ司祭は、神学の講義をなさっているんですよね。それは、どちらで?」

「食堂ですよ。せめて会議室でもあればよかったんですけど、見ての通り小さな修道院ですので」

「建物内に、西――カナンの街を見下ろせるような場所はありますか?」

「一階は無理ですね。あるとしたら、二階の院長の部屋か、客間でしょうか。ほとんどの窓が南向きですが、身を乗り出せば、見えないことはないんじゃないかな」

「二階の西側にあるのは、院長の部屋の窓だな」

「そうです」

「入れるか?」

「難しいですね。というか、無理だと思います。院長不在のときは、鍵がかけられているみたいですから」

「そうか」とザカリアは唇を結んだ。

「とりあえず、修道女たちに話を聞こう」

 まず訪れたのは、図書室だった。何列にも並べられた棚いっぱいに、雑然と本が詰まっている。

 その光景に圧倒されていると、窓際の机に座る二人の修道女がこちらを振り返った。ラザロやイザヤの顔を順番に眺めながら、不安と好奇心の入り交じった瞳を互いに見交わしている。

「写本係のレアさんとラケルさんです」

「姉妹なのか?」

 ザカリアがラザロに問う。司祭の洗礼名同様、修道女もリベルの書から取った修道名をそれぞれ与えられる。レアとラケルはリベルの書に登場する姉妹の名だった。

「いえ、たまたまですよ。お二人とも、すみませんが少し協力していただけませんか。回収人の方々が、この修道院を調査していらっしゃるんです」

 ラザロの言葉で、二人は素直に立ち上がって辞儀をした。

 まずザカリアが、修道院での生活について尋ねた。

 修道女たちは、四時に起床し、朝の祈りの後に朝食を取る。その後は正午まで午前の労働を続け、昼食後、六時まで午後の労働。夕の祈りの後に夕食を取り、八時の就寝までが自由時間ということだった。

「自由時間は、回廊で過ごしたり、図書室で本を読んだりします。でも最近は、寮で過ごす子が多いですね」

「なぜだ?」

 ザカリアは答えていたラケルではなく、レアを見て尋ねた。レアはびくりと肩を震わせると、

「べつに、その、特別な理由はないです。ただ……」

「気兼ねなくおしゃべりできるのが、寮だけだからですよ」

 レアの言葉に蓋をするようにラケルが言った。レアは、うんうんと首を縦に振る。

「そうは言っても、院長に見つかればお目玉を食らいますが。とても厳しい方ですから」

「でも、すばらしい方ですよ。美しくて、才覚があって。院長は、私たちみんなの誇りなんです」

 そう言ったレアに、ラケルも深くうなずいた。

「ここひと月ほどの間に、何か変わったことはなかったかな」

「いいえ。何もありません」

 ザカリアの問いに、ラケルが即答する。イザヤがレアを見ると、彼女も「いつもどおりでした」と早口で答えた。ザカリアがふんと鼻を鳴らす。

 イザヤは、誰もいない図書室の奥を眺めた。奥の本棚はあまり整理されておらず、大量の本が積み重なったり、逆に隙間を作って傾いたりしている。

「ここにいらっしゃる修道女の方々は、全部で何人なんですか?」

 尋ねたイザヤに、ラケルが目を向けた。

「十二人です」

「写本係は、お二人だけなんですか?」

 その言葉に、レアが一瞬、目を横に流した。が、

「はい、そうです」

 ラケルがすぐに答えた。レアもまっすぐにイザヤを見つめてうなずく。

 ザカリアは、窓から外を眺めた。イザヤもそちらに目を向ける。野菜や薬草の植えられた畑の向こうに、東の壁が見えた。街とは反対方向だ。

「ここは関係なさそうだな。次へ行こう」

「では、食堂へ行きましょう」

 そう言って部屋を後にしようとした二人に、イザヤは声をかけた。

「すみません。彼女たちの作業を、少し見学していってもいいでしょうか」

「見学?」

 ザカリアが眉根を寄せた。

「ええ。興味があるんです」

「いいじゃないですか。こんな機会はそうそうないでしょうし」

 ラザロの言葉に、二人の修道女も「どうぞ」と微笑んだ。

「では、先に行っているぞ」

 二人が出て行くと、イザヤは二人の後ろに立った。レアは緊張気味にイザヤを振り返った。そうしてにこりと微笑むと、視線を戻しがてらイザヤの背後に一瞬目を向けた。

『イザヤ。今、そいつが見た机を調べろ』

 エレミヤの声には答えず、イザヤは作業を再開した二人の手元を眺めた。書見台に置かれた原書を見ながら、羽ペンとインクを使って機械のように整った字を書き写している。

 エレミヤの言ったように、レアが一瞬視線を向けた先――イザヤの背後にあったのは、写本が置かれた机だった。イザヤのいる位置からは、約八歩ほどの距離だ。明るい窓際ではなく、本棚と壁に挟まれた薄暗い空間にあるその机を、イザヤはちらりと振り返った。

 開かれたままの写本に目をこらすと、瞳孔がわずかに大きくなる。作業途中らしく、右ページと左ページの半分以上が白いままだ。インク瓶や羽ペンの他に定規や尖筆、白紙の羊皮紙が置かれたままの机も、つい最近までそこで誰かが作業していたことを示していた。

「細かい作業ですね。見た目より、ずっと骨が折れそうです」

 イザヤの言葉に、ラケルが「はい」とうれしそうに答えた。

「でも、やりがいがあります。出来上がった写本は、カナンでとても高く売れるんですよ」

「それだけ細密なら当然です。しかし、二人だけでは大変なのでは?」

 レアの羽ペンが止まった。が、それは気のせいかと思うくらい一瞬のことで、羽ペンはすぐにインク瓶へと浸された。

「仕事は大変ですが、だからこそ生まれる喜びも大きいんです」

 そう言うと、ラケルはにっこりとした顔でイザヤを振り返った。

「申し訳ありませんが、作業に集中したいので、そろそろ……」

 よく見ると、その顔はイザヤを見ていなかった。彼の耳のあたりに視線を沿わせ、笑顔を固めたまま反応を待っている。

「お邪魔をして、すみませんでした。失礼します」

 イザヤは頭を下げると、足早に図書室を出た。

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