第三章 月影の修道院 2
機構の門を出ると、教会の屋根に止まる複数のハルピュイアと目が合った。
カナンには、野生のハルピュイアが多い。名前の元となった神話の怪鳥のように食べ物を食い散らかすようなことはしないが、見た目が不気味であること、たまに上げる鳴き声が人間の悲鳴のように聞こえることから多くの市民に忌み嫌われていた。
「気になるかい」
ザカリアが楽しげに振り返る。
「いえ、そういうわけでは」
「ここまでハルピュイアが多い街は他にないからね。けど、見た目ほどの存在感はないよ。人に近づこうとは決してしないし、何よりおとなしい。夕方や朝方にたまに鳴き声は聞くけど、気になるほどのものじゃないね」
旧世界時代のものも残っている石畳の街路は、補修した部分との差異によりまだらな色をしていた。頭の中の地図と照らし合わせながらのイザヤとは違い、ザカリアは迷いなく歩を進めていく。
「ザカリアさんは、以前にもカナンで任務を?」
「ああ、回収人になりたての頃、ちょっとね。その縁で、教会のカナン支部に懇意の司祭がいるんだ。彼がなかなかのお偉いさんなものだから、ここ数週間、カナンに滞在して機構との折衝役を務めていたんだよ」
「折衝役、ですか」
「どうもリベル教会の方々は、魔力にご興味をお持ちのようでね。まあ、君が気にすることじゃない。ほら、あの通りを曲がれば最初の家だ」
二人が最初に訪れたのは、医者の家だった。診療所の二階が自宅になっており、仕事中の母親に言われてイザヤたちは上へと上がった。そこに被害者たる彼女の息子と、看護師の夫が待っているとのことだった。
観察するようにイザヤたちをじろじろと眺めてきた妻とは違い、二階で出迎えた夫は例のごとく曖昧な表情で目をそらした。
被害者は、寝台の上で長い手足を伸ばしていた。白い肌も波打つ金髪もつやつやしていて、今にも起き出しそうな生命感に溢れている。
「眠りについてから、もうすぐ二週間になります」
寝台の息子を見下ろしながら、父親が言った。
「妻の家は、代々続く医者の家系でしてね。薬を初めとして、やれることはすべて試しました。しかし指先一つ動かず、声すら漏らしません。こんなことが知れたら、評判はがた落ち。信頼も失ってしまいます」
「まあ、普通は何かの病気だと考えるでしょうからね」
寝台のそばでかがんだザカリアが、息子の顔を覗き込む。
「きれいな寝顔だ。微笑んでいるようにすら見える」
ザカリアの言葉で、イザヤも寝台に歩み寄った。確かに、苦しんでいるようには見えない。穏やかな寝息に合わせ、開襟シャツの胸が静かに上下している。
「この先の広場で倒れたところを、一緒にいた友人が運び込んできたんです」
「時間は?」
「昼の二時頃です。妻が診察してもどこにも異常はなく、ひとまず貧血で倒れたということにしたのですが……」
頻繁に見舞いに訪れる友人には、予後が悪いと言って面会は断っているということだった。しかし、これ以上ごまかし続けるのも難しいだろう。
隣の部屋には、同じように眠り続けている若者が二人寝かされていた。街の外に住んでいるらしい行商人に、もう一人は旅人だ。こちらも広場で倒れるようにして眠っているところを、ここに運び込まれて来たのだと言う。どちらも先週のことで、発見された時間は、行商人は夕方四時頃、旅人は夜七時頃ということだった。目を覚まさない上に引き取り手もないことから、ここに置くほかなかったのだそうだ。
「彼らは、われわれの理解を超えています。水も食事も摂らずに眠り続ければ、普通は一週間で命を落とします。それなのに、こいつは……むしろ、眠る前よりも生き生きしているように見えて……」
そこで言葉を止めると、父親は我が子から一歩後ずさった。何も知らずに眠り続ける息子の寝顔を、イザヤは微かな同情と憐れみとともに見つめた。
階下に降りると、「ねえ」と白衣姿の母親に声をかけられた。先ほどまで診ていた患者は帰ったらしい。
「その左目。交換手術したって、本当なの?」
その口ぶりにも、イザヤの黄色い瞳を指す指にも、遠慮はなかった。
「一体、どうやるの? 傷はすぐに閉じると言っても、痛みは感じるのよね。麻酔はするんでしょ?」
「機密事項なので」女医とイザヤの間にザカリアが割り込んだ。「失礼します。行くぞ、イザヤ」
「どうして神経が繋がるのかしら」
戸口に向かう間にも、彼女は言葉を止めようとしなかった。
「目だけでなく、他のパーツも交換できるんじゃない? 興味あるわ。首をすげ替えることだってできるかもしれないし、そもそも人間だけじゃなく――……」
ばたり、とザカリアが勢いよく扉を閉める。その緑の瞳が、激しい感情に揺れているように見えた。初めて見る先輩回収人の表情に、イザヤは胸がざわめくのを感じた。
「ザカリアさん。大丈夫ですか」
「ああ。少し、腹が立ってしまってね」
扉を一瞥すると、ザカリアは鼻から息を漏らした。
「まるで、実験材料扱いだ。彼女に切り刻まれる前に、ここを離れたほうがよさそうだな」
ザカリアは、軽く唇の端を持ち上げてみせた。そうして、感情を悟られまいとするようにさっと顔を背けた。
――実験材料、か。
あの女医にとって、われわれ稀人は別種の生物であり、興味深い研究対象なのだろう。それはエリアスを初めとする機構の職員にとっても同じことだ。
ザカリアの瞳に燃えた感情を見て、イザヤは自分の中にも同じものがあることに改めて思い至った。
その後二人は、衛兵、靴職人の徒弟、商家の奉公人などを見て回った。いずれも医者の息子と同じように、生き生きと眠り続けていた。
どちらが言い出すでもなく、二人は広場と呼ばれる開けた空き地に足を向けた。
風が、砂埃を舞い上げる。ここにはかつて、大きな噴水があったという。今は円形に並べられた石の残骸が残るのみだ。
「共通しているのは、眠りに落ちたとき全員が屋外にいたということですね」
イザヤが言った。広場、自宅の庭、大通り――被害者の家族によれば、細かい場所は違えど、彼らは全員が屋外で倒れたとのことだった。その中でも複数人がこの広場で倒れている。一方で、倒れた時間は朝から夜までバラバラだった。
「この広場は、一つの鍵だな」
ザカリアがうなずく。
「だが、共通点はそれだけじゃない。やはり全員、美しかった」
その言葉に素直にうなずけなかったのは、エレミヤが『そうか?』と言ったからだった。
『髪の色も顔立ちも、てんでんばらばらだったぞ。フォンスのときみたいな共通点がない』
どちらに答えていいものか迷っているうちに、ザカリアが口を開いた。
「美しさの基準は、人によって違う。が、基本的に人は『整っているもの』を好む傾向がある。彼らはそれぞれ個性的だったが、全員『整って』いたと言えるだろう」
確かに、とイザヤは首肯した。目を閉じていても――いや、目を閉じた無防備な状態であるからこそわかる、造形の美しさ。追従や虚栄心による表情筋の動きがないからこそ、生来あるがままの相貌が晒される。
「眠りを描く絵画は多くある。そのほとんどが女性か子供だ」
「『ヤコブの夢』や『眠るヨナ』などもありますよ」
そう言ったイザヤに、ザカリアは苦笑いを見せた。
「もちろん、男性のものもある。が、これだけ長時間眠り続けている時点で、その二つの主題とは合致しない。リベルの書ではなく、他の神話主題だと考えたほうがいい」
そこまで言うと、ザカリアはイザヤの顔を正面から見つめた。
「もう、わかっているんだろう?」
「『セレネとエンデュミオン』、かと」
イザヤの静かな返答に、『ま、それしかねえわな』と言うエレミヤの声が重なる。
月の女神セレネは、あるとき羊飼いのエンデュミオンを空から見かけ、その美しさにたちまち恋に落ちる。しばらくは彼の眠る姿を眺めて満足していたが、人間である彼がいずれ老いて死ぬ運命であることを嘆き、彼に不老不死と永遠の眠りを与える。
「被害者の家やその付近には、エンデュミオンのアトリビュート――牧羊犬や家畜は存在しなかった。屋外を見渡せる場所に、彼らの美しさに魅了された人物がいるということだろうな。セレネの役割を演じる、傀儡魔が」
そう言ったザカリアが視線を上げたのと同時に、イザヤは背後を振り返った。カナンを見下ろす、東の丘。その上には、壁に囲まれた石造りの修道院が見える。
「広場はともかく、民家の庭や通りまで見ることができるのはあそこくらいのものだろう」
うれしそうに言うと、ザカリアはイザヤの肩に手を置いた。
「行こう。アトリビュートを探すぞ」
*
聖マドレーヌ修道院は、カナン東地区の丘の上にある女子修道院だ。新緑のアーモンドの木々に挟まれた道を上る途中、イザヤはカナンの街を振り返った。西に比べて開発が遅かった東地区の家々は、通りに沿って秩序だった並びをしているものの、数が少ないせいか、広場を含めた「隙間」がよく見渡せた。高く延びる鐘楼はもちろん、壁から頭を出している修道院の二階の窓からなら、問題なく彼らを眠らせることができただろう。
『処女神から修道女を連想したのなら、随分と短絡的だな』
「処女神はアルテミスです。同じ月の女神でも、セレネは子供がいるから違いますよ」
小声で答えるが、ザカリアは気にしていないようだった。今のイザヤのように、ザカリアも時折口の中で言葉を転がしていることがあった。彼も「目」と会話しているのだろう。
『セレネとアルテミスはほぼ一緒だろ』
「同一視されているとはいえ、元々は違う女神です」
数々の神話における神々の習合は、イザヤの頭を悩ませたことの一つであった。ギリシャ神話とローマ神話。神としての性質や役割は同じでも、たびたび名が変わる。
セレネはギリシャ神話の月の女神である。彼女はまず、ローマ神話の月の女神ルーナと同一視された。その後、同じギリシャ神話の狩猟と貞潔の女神・アルテミスと同一視されるようになった。兄のアポロンが太陽神であったため、妹のアルテミスが月の女神の役割を引き受けたのだ。そこに、ルーナやアルテミスと同一視されていたローマ神話の多産と狩猟の女神・ディアナが加わり、セレネやアルテミスの持つ神話を吸収していったのだ。
「着いたぞ」
ザカリアの声で、イザヤは姿勢を正した。修道院の四方を囲む石壁が、すぐそこに迫っている。西壁の南端にある門の前まで来ると、ザカリアがイザヤを振り返った。
「念には念を入れよう。なるべくフードで顔を隠すんだ。特に君は、危険そうだからな」
最後の言葉で、イザヤがフードをかぶる手が止まった。彼の論法からすると、張り切ってかぶれば、自身の美しさを認めたことになってしまう。
門番小屋から顔を出した衛兵は、黒ずくめの二人を見てはっきりと顔をしかめた。
「魔力回収機構から参りました、回収人のザカリアです」
「同じく、イザヤです」
「回収人?」
二人に名刺を差し出された門番は、ザカリアとイザヤを交互に見比べた。
「何も聞いてないぞ。司祭様は一緒じゃないのか?」
この門番を含め、修道院内の人間は誰ひとりとしてカナンで起きていることを知らないはずだ。修道女たちは、基本的に修道院の外に出ることはない。
「あいにくですが、われわれだけです。調査が必要なので入れていただけないでしょうか」
「知っての通り、ここは女子修道院だ。司祭以外の男を中に入れるわけにはいかない。帰ってくれ」
門番は臭いものを避けるように顔をしかめて手を振った。その表情に、イザヤはずいと身を乗り出した。
「こちらに傀儡魔がいる可能性があります」
門番の顔から余計な力が抜ける。
「つまり、魔力のよからぬ影響が広がりつつあるのです。悪い芽は、早く摘んでおくに越したことはないでしょう」
「いや、しかし……」
迷いが見えたところで、ザカリアがイザヤに顔を寄せた。
「幸い、われわれがここに来るところは、誰にも見られていませんのでご安心を。ひとまず院長様にご報告だけでもしたらどうです? このまま追い返すより賢明だと思いますが」
門番は不安に駆られたのか、少し視線を泳がせた後で「待っていろ」と言って小屋を出て行った。
「やはり、司祭がいたほうがよかったな」
「ええ。そうですね」
麓の第六教会に立ち寄ったところ、司祭は留守だった。下男によれば、日没の礼拝までには戻るだろうが行き先は知らないとのことだったので、先に修道院を訪れてみようということになったのだ。
しばらくして戻ってきた門番は、二人と目を合わせずに「どうぞ」と門を開けた。木製の落とし格子の門をくぐると、すぐに石造りの建物が目に入った。手前の棟が修道院で、奥に見えるものが聖堂だろう。
「聖マドレーヌ修道院へようこそ」
突然声をかけられびくりとすると、ザカリアがそちらに頭を下げた。
「初めまして。回収人のザカリアと申します。こちらはイザヤ」
あわててザカリアの隣に立つ。目の前に立つ婦人は、恭しく辞儀をした。
「修道院長のミリアムと申します」
三十代くらいだろうか。院長と言う割には若く見える。
白い頭巾と襟掛けに、黒いタブリエ。頭巾は額から顎までの顔以外をすっぽり覆っており、髪はおろか耳さえ見ることはできなかった。
「院長じきじきにお迎えくださるとは光栄です。早速ですが……」
「お引き取りください」
ザカリアの言葉を遮り、ミリアムはにべもなく言い放った。
「あいにくですが、当院では回収人の方々の力を必要とするようなことは一切起こっておりません。私どもは、救世主のはからいに感謝の祈りを捧げながら、清貧と労働の日々を静かに過ごしております。姉妹たちの信仰と聖性を保つためにも、無用な刺激は避けねばなりません。どうかお引き取りを」
その淀みのない言葉に、エレミヤだけが『したたかそうな女だな』と軽口を叩いた。
「しかし、院長。あなた方に日々の聖務があるように、われわれにも果たすべき任があるのです。そもそも、リベル教会は機構の協力組織ではないですか」
「当院はあくまでも信徒集団であり、リベル教会はもちろん、あなたがたの組織とは直接の関係を持っておりません」
「――それは違いますよ、マザー・ミリアム」
背後からした声に振り向く。そこに立っていたのは、年若い赤毛の青年だった。リベル教会の司祭が着る、緑の祭服をまとっている。
イザヤと同じか、ともすると年下に見えるほどの幼さを感じさせる顔立ちだった。白い頬にはそばかすが散っている。その上に並ぶ大きな青い目が、楽しげに細められた。
「ラザロ司祭……講義はもう、終わったのですか」
院長の硬い声に、「ええ」とはずむような声で答える。
「ここのみなさんは、とても優秀でいらっしゃいますから。僕のほうが教えられているような錯覚に陥りますよ」
その言葉が終わらないうちに、ザカリアが一歩彼に近づいた。
「初めまして、司祭殿。回収人のザカリアです。こちらはイザヤ」
司祭はザカリアを見ると、微笑みながらうなずいた。
「初めまして、ザカリアさん、イザヤさん。第六教会の助任司祭、ラザロと申します。先月から、こちらで神学の講義を担当させてもらっています」
二人から名刺を受け取ると、ラザロは興味深げにそれを眺めた。
「カナンの街で起こっている事態については、僕も連絡を受けて知っています。あ、もちろん、院長にはお話しできませんよ。機密事項ですからね」
院長は無表情のまま言葉を返さなかった。そうは言っても、このままの状態が続けば、いずれ噂が耳に届くことになるだろう。できれば、その前に解決してしまいたい。
「お会いできてよかった。先ほど教会に寄らせていただいたのですが、司祭がお留守だったので」
ザカリアが言うと、「ああ」とラザロはうなずいた。
「教区民が危篤との知らせを受けましてね。今日の日没の礼拝は僕がやることになってるんです。でも、幸いまだ時間があります。修道院内をご案内しましょう」
そうして先を立って歩き出したラザロに、院長はあわてて手を伸ばした。
「お待ちください。私は、許可を出しておりません。そもそも、客人を受け入れる余裕など――」
「機構の回収人を追い出したとなれば、公務執行妨害罪として教会で処分を下さなければなりません。こちらの荘園が元々は教会領であることをお忘れなく。所領分割で済んだとしても、聖マドレーヌの名に傷がつくことは避けられないと思いますよ」
言われた院長は、ぐっと唇を横に引き結んだ。
「……わかりました。ただ、修道女との接触は最低限にしてください。本来は司祭の方以外、男性の出入りは禁じられていることをお忘れなく」
「もちろんです。彼らの目的は、あくまでも調査と回収ですから。そうですよね、イザヤさん」
振り返ったラザロに無邪気な笑顔を向けられ、イザヤはあわてて「ええ」とうなずいた。
「では、行きましょう。僕もリベル教会所属の聖職者として、せいいっぱいご協力させていただきます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます