第三章 月影の修道院 4
イザヤが食堂に向かうと、ザカリアたちはそこにはいなかった。奥の扉から話し声がしたのでそちらに向かうと、そこは竈や調理台の並ぶ厨房で、一人の修道女がポットを使って茶を淹れている最中だった。垂れ目で人の良さそうな修道女は、せっかくだからどうぞ、と芳香を放つ茶を勧めてきたが、イザヤはザカリアに倣って遠慮した。
厨房には窓がひとつ、東側に設けられていたが、高い位置にある上に戸棚で塞がれており、外を見ることは不可能だった。
二階の寮には修道女はいないはずだと言うラザロの提案で、一行は厨房から直接外に繋がる扉を抜け、詰所を横目に施療院のほうへと向かった。壁の南東に寄り添うように建てられた施療院の北側には、図書室から見えた畑があり、四人の修道女が作業をしていた。
ラザロはまず、その四人に声をかけた。彼女らもレアとラケルと同様、男性らの突然の登場に何事かと目を見張った。ラザロが事情を話したところ、最近まで薬草係だったと言うナオミが施療院の中を案内してくれることになった。他の三人のうち一人が看護係、二人が厨房係だと言う。
「修道女たちには、それぞれ係が決められているんだな」
「そうです。係は、全部で七つありますね」
施療院のほうへ歩きながら、ナオミが答えた。
写本係、看護係、薬草係、厨房係。食材や日用品の注文や倉庫の管理を担当する供給係。以上の係は二人ずつおり、その他には、聖務日課の際に燭台やリベルの書を用意する聖具係が一人、燭台に火を入れて回る蝋燭係が一人いるということだった。ナオミは現在、この蝋燭係を担当していると言う。
「私だけでなく、みんな手空きのときには、他の係の手伝いをしているんですよ」
イザヤはナオミの後をついていきながら、ラザロがいなかったら彼女たちはどのような態度を見せたのだろうかとふと考えた。ナオミもラケルと同様、イザヤやザカリアのほうへ顔は向けても、はっきりと目を合わせることはしようとしなかった。一口にリベルの信徒とは言っても、様々なのだ。
施療院の扉を開けると、そこには五つの寝台の並んだ細長い部屋があった。
旅人や巡礼者等を含む、壁の中で生じた怪我人や病人が治療を受ける場だが、今は患者はいないと言う。ここが今夜の宿か、とイザヤは屋根の下で眠れることに密かに胸をなでおろした。
「奥が、薬草室になっています」
寝台の横を通り、ナオミが奥へと向かった。開け放された扉をくぐると、匂いが一気に濃くなった。壺や袋の詰まった棚に、皿やすり鉢の載せられた作業台。ふいごの備え付けられた竈には大釜が吊るされている。何より目についたのは、天井の梁に干された何種類もの薬草だった。
「タマル、一人なの?」
ナオミが部屋の隅に向かって声をかける。見ると、小さな椅子に座った一人の修道女が書見台の本に顔を向けていた。彼女ははっとしたように振り返ると、ナオミやイザヤたちにせわしなく視線を這わせた。
「はい。ルツさんは、院長のために薬草茶を淹れると言って厨房のほうに」
そうして立ち上がった彼女の大きな青い瞳に、イザヤは目を奪われた。濃い睫毛に縁取られてうるんだように見えるその瞳は、イザヤたちの登場に不安を覚えてか、小さく震えていた。
「きれいな人でしょう」
耳打ちしてきたラザロに、イザヤはびくりと飛び上がった。ザカリアは落ち着いた表情で彼女を見つめている。反応に困っているうちに、ナオミが振り返って言った。
「彼女はタマル。ここでは一番の新人なんです。ひと月前に、薬草係になったばかりなんですよ」
「その前は?」
ザカリアの鋭い声に、ナオミはちょっと気圧されたように目を見開いてから答えた。
「蝋燭係でした。蝋燭係は燭台に火を入れるだけじゃなく、鐘を鳴らす係も兼務することになっていたんです。けど、彼女体が弱くて、螺旋階段を上ってる途中で倒れちゃって。それで院長が係替えをなさって、私が代わりに蝋燭係になって、鐘を鳴らしてるってわけです」
「じゃあ、鐘楼の鍵の開け閉めをしているのは君なのか?」
「そうです。夕の祈りの後で聖堂の閂をかけるのも、私の役目です」
「鍵は、いつも持っているのかな」
「ええ。肌身離さず、持ち歩いています」
言いながら、ナオミは修道服の胸のあたりに手をやった。どうやら、首から下げているものらしい。
「なるほど。あの院長、厳しいように見えるが、優しいところもあるんだな」
ザカリアに顔を向けられ、タマルは「そうです」と答えた。
「院長は、この修道院や私たちのことを、とてもよく考えてくださっています。院長のおかげで、私たちは安心して祈りと労働に身を捧げることができるんです」
桃色の唇から流れ出る細い声を聞きながら、イザヤはじっくりとタマルを眺めた。これまで出会った修道女からは似たような印象しか受けなかったが、彼女は違う。ラザロの言った通り「きれい」だったし、振り返って顔が見えたときは、部屋全体の空気が変わったように思えるほどだった。他の修道女同様、後ろ姿は周りの風景に静かに埋もれていきそうなのに対し、ひとたび頭巾の間にその白い顔を見出せば、一瞬で目を奪われてしまう。
「院長は、薬草の知識も豊富なんですよ。薬草についての本を書いているくらいです。ご覧になりますか?」
ナオミの声が、イザヤの視線を彼女へと向けた。ナオミは、タマルの前の書見台に置かれていた本を手に取った。立ち位置から自然とそれを受け取る形になったイザヤは、静かにページをめくった。途端に細密な薬草の絵が目に飛び込んできて、イザヤは本を取り落としそうになった。
「それは絵ではなく『図』であるということで、教会に認められています。地図と同じですね」
「図?」
ラザロの言葉に眉根を寄せる。
「つまり、芸術ではないということだ。実物と見紛うほど、恐ろしいまでに写実的だが」
惜しいな、という最後の言葉を、ザカリアは顔を背けてからつぶやいた。
薬草の絵の下には、その名前と薬効が小さな文字で記されていた。院長の手書き原稿を元に、銅版で印刷されたものだということだった。
絵と図は、どう違うのだろう。図とは絵よりも記号などを用いた単純なものだと思っていたが、この薬草はどう見ても「絵」だ。
『何が芸術か線引きするのも、結局は教会なんだな。こんなこと、教会関係者以外には認められないだろうよ』
エレミヤの声に小さく息をつくと、ナオミはイザヤが開いたままの本のページを指差した。
「そのナデシコ、院長の命で、最近栽培し始めたんですよ。院長は、薬草の栽培に力を入れていこうとお考えなんです」
ナオミが誇らしげに言った。左ページの「図」には、先が糸のように裂けている花びらを持つ淡紅色の花が描かれている。右ページには「ナデシコ」という大きな文字の下に、細かい字で薬効や使用部位などが書かれていた。ナオミによれば、薬草は施療院で使うこともあるが、そのほとんどは街の薬屋に卸しているということだった。
そのとき、タマルが膝から崩れ落ちるようにしてしゃがみ込んだ。「あっ」と声を上げたイザヤの視線で振り返ったナオミが、あわててタマルの元に駆け寄る。
「どうしたの? 具合が悪いの?」
「すみません、少し……気分が……」
「差し支えなければ、寝台に運ぶが」
ザカリアの申し出を、タマルは固辞した。その様子を見て、ラザロは「おいとましましょう」と二人に声をかけた。
「残念ながら、時間が来てしまいました。教会に戻らないと」
施療院を出てすぐに、ラザロがため息をついた。
「もっといっしょに調べたいのに、悔しいなあ。どうです、傀儡魔の正体は掴めそうですか?」
「まあ、なんとか。なあ、イザヤ」
ザカリアに言われ、あわててうなずく。
「はい。ラザロさん、今日はご協力、ありがとうございました」
「リベルの司祭として、当然の務めですよ」
ラザロはにっこりと微笑んだ。
「明日、また来ます。どうぞお気をつけて、ご無理なさらぬよう」
教会へ帰るラザロを見送ると、ザカリアはすぐに院長のもとへ向かった。その結果、イザヤはザカリアとともに聖務日課を見学することとなった。彼曰く、これも調査の一環らしい。
時間になるまで中庭で待つ間、ナオミがやって来て回廊の壁掛け燭台に火を入れ始めた。ザカリアは彼女の仕事に興味を持ち、近づいて話しかけた。そのまま彼女について、聖堂のほうまで行ってしまう。エレミヤが『ふん』と鼻を鳴らした。
「今日は、わりあい静かでしたね」
『今回は、別の回収人との共同任務だからな。会話の邪魔しちゃ悪いと思って、おとなしくしてたんだよ。だが、何もしてなかったわけじゃねえ。「目」として、見て聞いて、いろいろ考えていたんだぜ』
「何かわかりましたか?」
『おまえはどうなんだ』
逆に問われて、イザヤは周囲を見回してから答えた。幸い、中庭にも回廊にも修道女の姿はない。
「十二人ではなく、十三人なのではないかと」
作りかけの写本を思い浮かべながら言うと、一瞬の間を挟み、エレミヤがふっと笑った。
『そうだろうな。ここの修道女は嘘をつくのが下手らしい。堂々とした口ぶりが、かえって「これは嘘です」と言わんばかりだった。で、他には?』
「他?」
『薬草室だよ。あそこで気づいたことはなかったのかよ』
言われて思い出すも、考えれば考えるほど、院長の描いた美しい「図」の印象のみが強く立ち上ってくる。
「すみません、特に事件に繋がるようなことは……」
そう言いかけたとき、鐘の音が響いた。最初はやや遠慮がちに聞こえたそれは、だんだんと誇らしげに修道院の空気を揺らしていった。
中庭から回廊に入ると、様々な方向から現れた修道女たちが、聖堂目指して無言の行進を始めていた。イザヤはその最後尾について聖堂に入り、入り口横の壁に背を預けているザカリアを見つけた。彼の隣に立ち、祭壇を向いて並ぶ修道女たちの背中を眺める。祭壇に一番近い場所には院長が立っており、修道女たちの集合を静かに待っていた。
整列が終わると、院長が祈りの言葉を唱えた。一分ほどのその詠唱が終わった途端、修道女達は機械仕掛けの楽器のように一斉に歌い出した。そのみずみずしく荘厳な響きは、皮膚に直接染みこんでくるような心地よさをはらんでいた。
これが「教歌」か、とイザヤは修道女たちの歌声に聞き入った。旧世界では教会堂に祭壇画などの絵を飾ることで「リベルの書」の内容理解の補助としていたらしいが、装飾品が禁じられた今の世界においては、この歌がその役割を担っていた。歌詞は、リベルの書から取られたものだ。
――深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。
「罪」という歌詞が、モリスが言い放った「悪魔の力」という言葉を呼び起こした。イザヤはそれを振り払うように、ぎゅっと目を閉じた。
祈りの時間が終わると、聖具係が片付けをし、ナオミが壁掛け燭台の火を消していった。他の修道女たちは無言で回廊に吸い込まれていく。祭壇の近くに立っていた院長が、イザヤとザカリアに鋭い目を向けた。二人は無言で外に出ると、施療院に戻って夕食を取った。
その後ザカリアは、月が出るのを待ってイザヤを外へ連れ出した。当初の計画通り、二度目の回収をかけるのだ。
詰所で弓矢に回収をかけてから、まだ四時間も経っていない。見た目には現れていないが、ザカリアの精神と魔力は確実に摩耗しているはずだ。
「やっぱり、よしましょう。危険です」
イザヤの言葉に、ザカリアは「大丈夫」と目を細めた。
「僕はどうも、図太くできているみたいでね。回収は得意なんだ」
ザカリアは手袋を外した手を高く掲げ、赤い魔石を月へと向けた。
東の空に出たばかりの月は、右側が欠けた形をしていた。フードを深くかぶったザカリアは、紺色をした春の夜空をじっと見上げた。何も言わず、微動だにせず、一心に月に手をかざすその姿は、まるで手のひらに月光を集める詩人か何かのようだった。
「――違ったようだ」
一分ほどで、ザカリアはゆっくりと手を下ろした。
「やはり、三日月でないとだめか。最初の被害者が出たのは約二週間前。前回の三日月もちょうどその頃だ。今回の傀儡魔を生み出したアトリビュートは三日月。そう考えるのが自然だろう」
やはりそうか、とイザヤは息をついた。セレネのみならずディアナやアルテミスを描いた絵画のほとんどが、三日月を模した飾りを頭につけている。
「しかし、次の三日月までまだ二週間ほどあります。それまで待つしかないのでしょうか」
「回収できなくとも、やれることはある。傀儡魔を見つけ出し、これ以上の被害が出ないように幽閉しよう」
「そのことなんですが、気づいたことがあります」
「十三人目のことだろう」
にやりと笑ったザカリアに、イザヤは声を失う。
「図書室にいるとき、僕の『目』が気づいたんだよ。シスター・レアがちらちらと、作りかけの写本が置かれた机を気にしてるってことにね。そうでなくても、彼女たちは明らかに何かを隠しているように見えた。おそらく、院長の厳命によるものだろう。あるいは大好きな院長の名誉を守るための、彼女ら独自の判断かもしれないが」
「関係なさそうだ」と言って先に部屋を出たザカリアのそっけない背中を思い出す。あのとき既に、怪しいと気づいていたのだ。
「では、傀儡魔は、その十三人目なのでしょうか」
「その可能性が高いな。傀儡魔はおそらく、客間に幽閉されている」
「客間? 院長室ではなく?」
「場所から考えれば西向きの窓のある院長室が一番怪しいが、あの院長が自室に傀儡魔を隠すとは考えにくい。彼女は育ちが良く潔癖だ。われわれ回収人やハルピュイアを厭う態度の裏には、魔力への恐怖があると考えていい」
『随分と乱暴な推理だな』
エレミヤの呆れた声に同意しかけるも、ザカリアの怜悧な表情を前にすると、不思議と納得させられてしまう。
「客間も院長室も常に施錠されているそうだが、寮から屋根裏に入る方法をシスター・ナオミから聞き出した。屋根裏からなら、二つの部屋を調べることが可能だ」
「屋根裏、ですか。というより……よく、教えてもらえましたね」
「そこは経験がものを言うんだよ。とにかく、明日は屋根裏に上がる必要がある」
「しかし、入れるでしょうか? ラザロさんは明日も来てくださると言っていましたが、さすがに寮のある二階に入ることは難しいんじゃないでしょうか」
「誰もいないときに入ればいい。都合がいいことに、ここでは時間ごとに全員が聖堂に集合しなければならないという決まりがある」
「お祈りの時間、ですか。ですがそもそも、聖堂の中にすら入れるかどうか……」
「もう一度、『見学』させていただくんだよ。僕たちは、ここで仕事することを認められた客人だ。修道女の尊敬を一心に集めているあの院長なら、聖務日課への参加を希望する客人を無碍に断るような真似はなさらないだろう」
「しかし、気づかれます」
いくら全員が祭壇のほうを向いていようが、こっそり修道院に入ろうとすれば、扉の近くにいる修道女が気づかないはずがない。
「そこは、作戦があるんだよ。せっかく二人で組んだんだ、これを生かさない手はない」
そうしてザカリアの話した「作戦」に、イザヤは絶句した。あまりに突拍子がなく、無理があると感じたからだ。
「絶対にうまくいきませんよ、そんなの」
「やってみないとわからないだろ? 大丈夫、僕に任せてくれ。さ、明日に備えて、今日はもう寝るとしよう」
施療院に戻ると、二人は並びの寝台に横たわった。
油や薬草の匂い、かつてここに寝ていた患者の気配が、イザヤを落ち着かなくさせた。ザカリアの寝息が聞こえてくる中でエレミヤの声を待ったが、もう長いこと左目は動かず、吐息すら聞こえてこない。意識を本部に戻しているのだろうか。
二人での任務は初めてだと思っていたが、よくよく考えてみればイザヤは初めからずっと二人だった。目という形で体内に住みつく、もう一人の意識。うるさくて敵わないと思った彼の声も、こう聞こえてこなくなるとどこか不安になってくる。自分の体の中に、自分ひとりきり。そんな当たり前の状態が、心許なくて仕方がない。
エレミヤの声がしたとき、イザヤはいつの間にか眠っていたことに気づいた。
『おい、起きろ』
せわしなく動く左目につられるように、ばっと両目を開ける。一瞬、自分が今いる場所がわからず混乱したが、次に言われた言葉で修道院の施療院に寝ていたことを思い出した。
『ザカリアがいない』
空の寝台を確認してから、部屋を見回す。あわててブーツを履いて薬草室にも行ってみたが、影すら見つけることはできなかった。
『用を足しに行ったんだと思ったんだよ。でももう、三十分近く帰ってこねえ。いくらなんでも長すぎるだろ』
「捜しにいきましょう」
施療院の扉を開けると、柔らかな光がイザヤに降り注いだ。先ほど回収をかけた月が、高い位置にぼんやりと見える。風に流れる雲が月を覆うのと同時に、イザヤはフードを顔の前に引き寄せた。
『やっぱり、あいつは怪しいと思ってたんだ。抜け駆けするに違いないと思ったぜ』
「抜け駆け?」
『あいつの居場所はおそらく鐘楼だ』
「どうしてわかるんです」
『中庭にいたとき、蝋燭係にひっついて行ったろ。どういう手を使ったんだか知らないが、あのとき奴は相手を丸め込んだんだよ。鐘楼の鍵を開けておくだけでなく、聖堂の閂も外しておくよう頼んだんだろう。あれだけの数の燭台の火を消すには時間がかかる。ゆっくりやってりゃ、聖堂を出るのはあの蝋燭係が一番最後だ。そして明日の朝一番に聖堂に来るのも、鐘を鳴らすあの修道女だろう』
なるほど、とイザヤは合点がいった。鐘楼へ急ぐ足が、自然と速まる。
幸い、衛兵は詰所で寝ているようだった。起こさないように通り過ぎ、静かに聖堂の扉を開いた。開いている。
誰もいない聖堂は、闇に染まっていた。修道院への入り口も閉ざされている。
イザヤは鐘楼の扉に手をかけ、そっと引いた。中に入って見上げると、踊り場から赤い目がイザヤを見下ろしているのが見えた。
「来たか」
「ザカリアさん。驚きましたよ」
イザヤは静かに階段を上がった。
「黙っていてすまない。傀儡魔が来るかもしれないと思ってね。シスター・ナオミに協力をお願いしたんだ」
「彼女が傀儡魔である可能性は……」
「ないよ。あの子はいい子だが、単純だ。怪しいのはシスター・タマルだよ。彼女は、おそらく妊娠している」
イザヤの足が止まった。その瞬間、エレミヤが深いため息をつく。
『おれが言いたかったのに』
「気づいていたんですか」
思わず出た声に、ザカリアがくすくすと笑った。
「今のは、君の『目』に言ったのかな」
「すみません、驚いてしまって。修道女が妊娠なんて……」
「貞節の誓いを立てたと言っても、彼女らも女性だ。妊娠できないわけじゃない」
ザカリアは笑みを湛えたまま続ける。
「相手は、職人だろう。工事が始まったのは係替えより前だから、蝋燭係だった彼女はここの鍵を持っていた。今夜のように、男を引き入れることも簡単だったはずだ。院長が係替えをしたのは、体調を気遣ったというより、彼女から鍵を取り上げるためだ。工事が終わっても、壁の中には衛兵がいるからな。彼女のことが信用できなかったのだろう」
「ということは、合意の上だったのですか?」
「当然だ。彼女自身が動かない限り、妊娠には至らない。門番にいくらか握らせたら、すぐに吐いたよ。数冊の写本と引き換えに、シスター・タマルの頼み通り、夜中に職人をこっそり引き入れたとね」
「引き換えにって……まさか、写本を盗んだんですか?」
「写本係は目の前の作業で手一杯で、管理まで手が回らなかったんだろうな」
図書室の本棚の雑多な様子を思い起こす。するとエレミヤがたたみかけるように言った。
『院長が最近、ナデシコを植えさせたと言ってただろ。薬効のところに利尿作用とともに妊婦には禁忌だと書かれていたんだよ。種子が堕胎薬として使われていることもな』
次々と発覚する事実に、イザヤは頭がふらつくのを感じた。
「まさか、院長は……お腹の子を、殺そうとしているんですか」
「そうだろう。修道女が出産なんて、考えられる中でも一番ひどい醜聞じゃないか」
そうしてザカリアは口を押さえて笑った。イザヤは呆気にとられ、言葉が出ない。
「ところで、イザヤ。『貞節』『妊娠』という言葉で、ひとつの神話が思い浮かばないか。ディアナのものだ」
「『カリスト』……ですか」
ディアナの侍女のニンフたちは、処女神である主人同様、貞節でなければならなかった。しかしあるとき、全能の神ユピテルがニンフのカリストを誘惑し妊娠させてしまう。それを知ったディアナは激怒し、彼女を追放する。カリストは熊に姿を変えられ、ディアナの猟犬によって殺されそうになったが、ユピテルは彼女を救って天に上げ、星座へと変える。
「では、タマルさんは……『カリスト』の魔力に取り憑かれた傀儡魔なのでしょうか」
「わからないが、おそらく違うな。カリストそのもののアトリビュートはないから、ディアナのアトリビュートに侵された別の傀儡魔による影響を受けたとも考えられるが、無理矢理犯されたカリストに対し、タマルは違う。おそらくこの出来事をきっかけに、ディアナに強く共鳴した修道女がいるのだろう。すなわち、妊娠したタマルに激怒し、修道院から追放しようとした十三人目の修道女が」
「その行動が、『ディアナとエンデュミオン』の魔力に取り憑かれることに結びついた、というわけですね」
「ああ」
うなずいたザカリアは、黒衣の隠しから懐中時計を取り出した。金の蓋を開け、ぱちんと閉じる。
「もうすぐ四時か。おれはもうしばらくだけここにいようと思うが、どうする」
イザヤは少し迷った後、自分もいると答えた。踊り場に腰を下ろし、アーチ型の窓を見上げる。南の空、窓の端に引っかかるような形で、明るい月が見えた。リシャール家の屋敷で見た月が呼び起こされ、それをきっかけに、メイドの悲鳴やリリアンの涙が脳裏に浮かんだ。途端に沸き起こってくる暗い感情を持て余したイザヤは、思わず大きなため息をついた。
「どうした、悩みごとか。僕でよければ聞くが」
柔らかな月光に照らされたザカリアの顔に、イザヤの喉が開いた。
「ザカリアさんは、善人ほど傀儡魔になりやすいとおっしゃいましたね」
「ああ。その話か」
ザカリアはどこかうれしそうな声を出した。
「何か気になることでも?」
「私には、善人と悪人の違いがわかりません」
機構にいたときにイザヤが関わりを持った人間の数は、十本の指で事足りた。司祭たち。機構職員。顔も知らない相棒。それが外に出た途端、人々は世界という名を背負いながら、大波のごとくイザヤに迫ってきた。フォンスの姉妹。宿屋の主人。村人達。リシャール家の人々。カナンの住民。修道院の壁の中に住む人々。そしてザカリアに、ラザロ。彼らを善悪に振り分けることなど、イザヤにはとてもできないと感じた。
「悪人というのはつまり、罪を犯す人間のことだ。善人はみずからの内に罪の種を見出したとしても、行動にまでは移さない。魔力の介在によって初めて罪に手を染め、悪人と化すんだ」
「では、魔力は『悪魔の力』なのでしょうか」
モリスがその言葉を言い放った場面を想像する。彼の頭の中には、イザヤの姿が浮かんだだろうか。その「悪魔の力」を持って生まれた、呪われし稀人の姿が。
「さあね。そう思っている人にとっては、そうなんじゃないか」
その軽い返答に、イザヤはまじまじと先輩回収人を見つめた。
「ザカリアさんは、自分が稀人であることを呪ったことはないんですか」
「ないね。僕は、求められているだけで幸せだよ。特殊な力があって、それを発揮できる環境が整っている。それ以上何を望む? 僕は、僕にできることをしていくだけだ」
そう言うと、ザカリアは「もう行こう」と立ち上がった。その性急さが後輩の言葉を拒んでいるようで、イザヤは戸惑いと後悔を覚えた。
「なあ、イザヤ」
階段を下りながら、ザカリアが振り返った。
「君はまだ若い。これから先、迷うことも大いにあるだろう。そのときは、自分にとって何が一番大事なのかを考えてみるといい。そうすれば、おのずと答えは出る」
――大事なもの。
イザヤは自身の思いを隠すように、魔石を包む手をぎゅっと握った。
「ザカリアさんは、何が一番大事なのですか」
わずかな変化を悟られまいと問い返したイザヤに、ザカリアはやや間を置いてから答えた。
「僕を必要としてくれた人たちに、報いることだよ」
少し乾いたその響きに、イザヤは彼の中にある諦めのような感情を知った。
機構は、確かにイザヤの力を必要としている。だが、ザカリアのように、彼らに報いようと思える日が来るのだろうか。
階段を下りきった二人は、誰もいないことを確認してから外に出た。カナンの街を覆う空はまだ紺色に染まっていたが、新しい朝のかすかな予兆が東の空に匂い始めている。
『おまえ、やっぱり気にしてたんだな。「悪魔の力」のこと』
「気にしてなど」
エレミヤの言葉に、小声で答える。その瞬間、銀色の光がイザヤの目前に降り注いだ。かと思うと、意識が搾り取られるような感覚に襲われた。目眩がして、足元がふらつく。
「イザヤ」
ザカリアの呼びかけの後で、『まずい』と言うエレミヤの焦った声がした。ほとんど無意識のうちに手を動かし、手袋を外そうとする。が、力が入らず、指がうまく動かない。
――倒れる。
そう思った瞬間、視界の端で赤い光が迸った。同時に、嗅いだことのない芳香が鼻孔から侵入し、激しく脳を刺激した。
「ナルドの香油」
ザカリアのつぶやきとともに、黄金色の液体が銀色の光を打ち消した。途端に指先に力が戻り、はっきりとした意識が戻ってきた。目眩だけはしがみつくように残っていたが、額のあたりからだんだんと薄らいでいくのを感じる。
「傀儡魔だ。月光を媒介に魔術を使ってきた。だが、姿が見えない」
ザカリアは院長の部屋の窓を見上げて言った。イザヤも目をこらすが、人の影は見えない。気配や視線を感じることもなかった。
「中に入って調べたいところだが、さすがに難しそうだな。走れるか、イザヤ」
「はい」
二人は、施療院を目指して駆けた。中に入ると、イザヤはすぐにザカリアに頭を下げた。
「すみません、油断していました。助けていただき、ありがとうございました」
言いながら、イザヤはザカリアの手の中に光る赤い魔石を見つめた。
光を打ち消したあの芳香は、ザカリアの放った魔術だった。ナルドの香油。そのアトリビュートが示す主題を、イザヤはよく知っていた。ザカリアが「面白い」と言った理由が、ようやく理解できた。
「マグダラのマリア、だったんですね」
「そうだよ。ね、面白いだろう」
リベルの書第四十三号十二章。救世主の足を高価な香油でぬぐう女が、マグダラのマリアだ。ユダは香油を売って貧しい人々に施すべきだと言うが、救世主はマリアの行いを讃え、ユダの意見を退ける。
『なるほどな。ユダの天敵ってわけだ』
エレミヤの声に、イザヤは密かに眉を曇らせた。
「傀儡魔を捕らえられなかったのは残念だな」
ザカリアは手袋をはめながら言った。
「が、おかげでひとつわかった。男を眠らせるには、月の光が必要らしい」
なるほど、と思いつつも、イザヤはすぐに首をかしげた。
「しかし、医者の息子が倒れたのは昼間でしたよね」
「知らないのか、昼間にも月は出ているぞ。二週間前の上弦の月は昼に出て夜中に沈む。他の被害者の倒れた日時にも、月が出ていたはず……」
ザカリアはそこで言葉を止めると、唇に笑みを浮かべた。
「それについては、僕の『目』が既に確認済みのようだ。機構本部の気象記録を見てきたらしい」
『けっ。随分と仕事が早いヤツだな』
そのとき、細い叫び声が聞こえ、二人ははっと天井を見上げた。子供が助けを求めて泣き叫ぶような、悲痛な響き。
「ハルピュイア、ですね」
声の感じからすると、どうも二、三羽ほどでこのあたりにやって来たようだ。イザヤは教会で見たハルピュイアの黒い目を思い出し、なんとなく懐かしい気持ちになった。
「ハルピュイアは、機構が作り出した魔物」
ザカリアのつぶやきに、イザヤはぎょっとした。
「カナンでは、そんな噂がまことしやかに囁かれているらしいよ。機構やわれわれがどう思われているのかがよくわかるようだな」
ザカリアはイザヤの驚いた顔を見てくすりと笑った。
「寝よう。朝の祈りまでもう間もないが、少しでも休んでおいたほうがいい」
ザカリアの言葉で、二人は寝台に身を横たえた。イザヤが目を閉じると、一羽のハルピュイアが甲高く叫んだのを最後に、壁の中に静寂が訪れた。
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