第二章 薔薇薫る宮殿 5
長女の部屋に入り、夫婦の寝室側――北側の壁を調べる。衣装掛け用のフックが等間隔に並んでいた。一番廊下に近いフックに沿うように、壁紙の継ぎ目が見える。
フックに手をかけ、静かに引く。するとそれまで壁に溶け込んでいた扉が、ゆっくり開いた。
途端に、松脂の匂い。中は暗闇だが、寝台一つぶんほどの幅の空間であることがわかった。正面の棚に、たくさんのガラス瓶が並べられている。
イザヤは、窓のない部屋の奥を見やった。そこにはっきりと、二人の人影があった。男女だ。女は、白いドレスを纏っている。男が覆い被さるように女を抱きしめ、じっとこちらを見つめていた。
「リリアンさん、ですね」
囁くような声で、ゆっくりと歩み寄る。
「捜しました。お父様も心配していらっしゃいます。ここから出て、顔を見せてあげましょう」
「いやよ」
小さいが、鋭い声だった。
「いやよ。私はこの人と一緒になるの。この人が、私をここに連れてきてくれたんだもの」
そう言うと、リリアンは茶色い瞳をうっとりと男に向けた。
やはりリリアンは、傀儡魔と化している。おそらく、男のほうもそうだろう。
今は夜だ。薔薇園に、蝶はいない。元凶の魔力が回収できない以上、リリアンを依頼主に引き渡すのが一番手っ取り早い。幸い、依頼主はこの壁の向こうにいる。イザヤは同じように壁紙の継ぎ目を見つけ、開けようとした。が、押しても引いても動かない。
「無駄ですよ。その向こうには、普段は棚が置かれています。あちらの部屋でそれを移動させないことには、開けることはできないのです」
リリアンを抱きしめていた男が、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたも見たでしょう。奥様の集められた鉱石が入った棚ですよ。押せば簡単に動くように車輪をつけましたが、普段はつかえをして動かせないようにしてあるんです」
「それも、あなたが細工したんですか。……ジョットさん」
言われてジョットは、にやりと唇を持ち上げた。
「私は手先が器用な
「とても素敵。私、ずっとここにいたいわ。あなたと一緒に」
「大丈夫だよ、リリアン。僕たちは、ずっと一緒だ。永遠にね」
ジョットがリリアンと見つめ合う。その隙に、イザヤは手袋を外した。二人が密着しているのは好都合だった。一度に捕縛することができる。
――『コキュートスの氷』。
露わになった魔石に、息を吹きかける。すると全く同時に、ジョットがこちらに右腕を突き出した。
「『鉛の矢』」
イザヤの右手から放たれた黒い光が、鈍色の火花とともに弾け飛んだ。
鉛の矢は、感情をエネルギーとする魔術を弾き飛ばすエロスの魔術だ。やはりジョットも傀儡魔と化していた。
つまりあの二人の感情は、魔力による一時的なものに過ぎない。
「ようやく、二人の幸せを手に入れたんだ。誰にも邪魔はさせない」
「目を覚ましてください。あなたたち二人は、互いを愛してなどいないのです」
「黙れ! おまえに何がわかる! よそ者の悪魔に!」
悪魔、という言葉に、イザヤの吸い込んだ息が一瞬止まった。その隙に、リリアンが細い指を持ち上げる。
すると、指先から色とりどりの光の玉が生まれた。その玉は蝶の形となり、イザヤめがけて一斉に襲いかかってきた。
『部屋を出ろ、イザヤ!』
開いた瞳孔で光を捉えたために、視界が白く染まる。頭がくらりと揺れ、方向感覚がわからなくなる。
『しっかりしろ! 魔術には魔術で対抗できるだろ!』
エレミヤの言葉に、イザヤは荒い呼吸の口元に右手を近づけた。
『銀三十シェケル』。
右手の上に現れた、革袋の感触。その紐をゆるめ、口を二人に向かって差し出す。
銀貨の触れ合う音が、蝶の羽ばたきで揺らぐ空気を鎮めていく。やがて目眩が治まり、視界が暗いアトリエの光景を取り戻した。
リリアンが目を見開き、震えている。その視線の先に、ジョットの青い顔。
「……リリアン――いえ、お嬢様。私は……」
言葉が止まる。互いに見つめ合った二人の表情からは、先ほどまで満ちていた恍惚がとうに消え去っていた。
*
朝日が中庭を照らし出すと、薔薇園を蝶が舞い始めた。白い羽に、黒い斑紋。
イザヤは赤い薔薇に止まった蝶に魔石を向けた。これだけ接近していれば、複数の対象物に同時に「回収」をかけられる。
黄色い光を浴びた蝶から生まれたのは、薄桃色の魔石だった。フランソワ・ジェラールの『アモールとプシュケー』。
有翼の青年が、美しい女性の額に接吻をしている。これは、この二人の恋の始まりの場面を描いたものだ。人間であるプシュケーには、目の前にいる神の姿は見えていない。エロスの愛の接吻を受けて初めて彼のことが見えるようになるのだ。プシュケーの視線が明後日の方向を向いているように見えるのは、この絵が接吻の「瞬間」を描いているからなのだろう。
『やはり、薔薇は関係なかったか』
薔薇が何の反応も見せなかったことに対する言葉だった。イザヤは「ええ」とつぶやいてから、先ほどまでいた夫婦の寝室を見上げた。カロルはまだ、泣いているのだろうか。
イザヤの魔術によってリリアンとジョットが落ち着いたとき、騒ぎに気づいた夫婦がリリアンの部屋から隠し部屋に入ってきた。モリスはリリアンに飛びついて抱きしめた。夫人は扉のそばに立ったまま、静かな視線をジョットへと向けていた。ジョットはアトリエの隅へと後ずさりし、父親の涙を受けるリリアンの呆然とした表情を見つめていた。
アトリエから出て、リリアンを寝台に寝かせる。家政婦長やメイドのアンヌに声をかけられ介抱されても、リリアンの目はうつろなままだった。
蝶がアトリビュートであること、主題がプシュケーの物語であること、朝日が昇り次第回収をかけること。イザヤはそれらを簡潔にモリスに告げた。モリスは長女の無事をひたすらに感謝し、イザヤに何度も頭を下げた。アトリエの存在について、夫人に問い詰めるようなことはしなかった。
「お願い。結婚を、取りやめてほしいの」
リリアンの部屋に入って来た途端、カロルは姉に向かってそう言った。
「魔力のせいだとしても、使用人とただならぬ関係にあったなんて、ずっと隠し通せることじゃないわ。リリアンだって、全部忘れてお嫁に行くなんて無理なはずよ」
カロルによれば、リリアンは、武芸ばかりに熱中して彼女の話す物語に興味を示さないジュリオのことが苦手だった。婚約が決まった日、カロルは姉が部屋ですすり泣く声を聞いた。
なんとか姉の結婚を阻止したいと考えたカロルは、姉に思いを寄せる馬丁のレオを利用することを思いついた。婚礼衣装が届いたあの日の夜、カロルはレオを姉の部屋に忍ばせて関係を持たせるつもりだったのだ。傷物になってしまえば、姉は結婚をやめると言い出すだろうと考えて。
「なんてことを」
額に手を当てたモリスは、悲痛な声を出した。カロルは表情を変えずに言う。
「リリアンは、好きでもない人と結婚しなければならない運命に絶望したのよ。考えてもみて? すぐそばに自分のことを愛してくれる人がいるなら、その人と結ばれたほうが幸せでしょう? 身分なんて関係ない。レオは優しくてたくましくて、リリアンにお似合いだと思ったのよ」
カロルはジョットにこの計画を吹き込み、レオの手引きをさせようとした。それを受けたジョットはすべてを夫人に伝え、リリアンをアトリエに隠そうと進言した。信心深いモリスは神に攫われたと信じ込むだろうし、外聞を恐れて表沙汰にすることはないと考えたのだ。
「ジュリオ様との食事の日には、彼女をアトリエから部屋に戻す予定だったんです」
ジョットが震える声で言った。本来なら、数日待って食事を無事に終わらせ次第、結婚までの期間はリリアンを親戚の家に預けるつもりだったと言う。だが、予想外の出来事が起こった。
「リリアンさんは、アトリビュートの蝶を介してプシュケーの魔力に魅入られました。その結果、ジョットさんに恋をしてしまったんです。そして、ジョットさんも」
後を継いだイザヤに、カロルがため息をついた。
「まさか魔力に取り憑かれていたなんて、考えもしなかったわ。でも、いかにも本好きのリリアンが好みそうな筋書きよね。親の決めた、好きでもない相手との結婚。そこから救い出してくれる、運命の相手」
カロルは当初、先走ったレオが独断で姉を攫って厩舎に隠しているのではないかと疑い、彼を問い詰めた。その潔白を知ると、今度はジョットに疑惑の視線を向けた。だがこのままリリアンが見つからず食事会が流れれば、結婚の話自体が見直されるのではと思い、しばらく様子を見ていたのだと言う。
「けれど、レオが焦り始めたの。ジョットが何をしたにせよ、この状況がリリアン自ら望んだものだとは思えない、早く助けてあげないとって」
イザヤという回収人の登場に動揺しつつも、カロルはなんとしても食事会が終わるまではこの状況を保つべきだと考えた。イザヤが部屋から目撃したのは、余計なことをしゃべらないよう、彼女がレオに釘を刺しに行った後の場面だったのだ。
「ねえ。どうして、何も言わないのよ」
カロルの声に、涙が混じった。寝台に座るリリアンの元に詰め寄り、その肩を掴む。
「どうして本当の気持ち、言わないの? 『いい子』はもう、終わりにしなさいよ。長女だからって、お父様の言いなりになんてなる必要ないのよ」
リリアンは髪を振り乱す妹をじっと見つめた。うつろだった表情に、憐れみと恐れが入り交じる。
「リリアン。おまえは……」
モリスの問いかけに、リリアンは手の中のシーツをぎゅっと握った。
「私は……ジュリオ様と、結婚します」
「リリアン」夫人が寝台に歩み寄る。「本当に、それでいいの?」
「はい」
母親を見上げる目に、決意が宿る。
「結婚は、両家だけではなく、彼と私の間でも約束したことです。約束は、守ります」
カロルの泣き声が、部屋に響いた。ジョットが、逃げるように部屋を飛び出していく。
リリアンは睫毛を伏せて、ゆっくりとうつむいた。
彼女の寂しげな横顔を思い出していると、目の前の蝶がふわりと飛び立ち、薔薇の木陰に隠れた。
蝶がリリアンだけでなくジョットにも作用したように、魔力は時として周囲の人間も巻き込むような真似をする。
『プシュケーの運命を変えたのは、アフロディテの嫉妬だった。が、今回は関係なかったようだな。妹の行動は嫉妬ではなく、真に姉を思ってのことだったわけだ。やり方には、かなり問題があったがな』
「そうですね。かなり強引な方法でした」
しかし、とイザヤは目を伏せた。リリアンがプシュケーの魔力に共鳴したのは事実だ。神託で怪物と結婚させられそうになったプシュケーと、親の意思に従って結婚しようとしているリリアン。彼女にとって、婚約者は怪物のようなものだったのだろうか。
イザヤの脳裏には、アトリエで見た彼女の恍惚とした表情がいまだにこびりついていた。魔力に取り憑かれていたとはいえ、あれだけ幸せに満ちた表情を、正気に戻ってからの彼女は一度も見せていない。
『さて、これでおれたちは用済みだ。そろそろ行くか』
「はい」
魔石をマントの隠しに入れると、イザヤは改めて薔薇園を眺めた。この屋敷に抱いていた印象をがらりと塗り替える、鮮やかで生き生きとした自然の姿。虚飾だから何だと言うのだろう。やはり花の命に様式は関係ない。
自然の作り出す美を目に焼き付け、中庭を後にしようとした、そのとき。
空気を切り裂くような悲鳴が、屋敷の中から響いた。かと思うと、使用人部屋に繋がる扉が開いた。転がり出るように現れたのは、洗濯メイドだった。
「ジョットが……!」
恐ろしさに震える顔を見て、イザヤはすぐに中に入った。ひとつの扉が開いていた。使用人の誰かの私室だ。嫌な予感がした。戸口から部屋の中を見て、イザヤは文字通り息が止まるのを感じた。
ジョットが、梁からぶら下がっていた。その顔色から、彼の死は明らかだった。
知らせを受けてやって来たモリスとレオの手によって、体が下ろされた。モリスが祈りを捧げる中、メイドのアンヌが机の上の紙に気づいた。
――さようなら。リリアン様の幸せを願っております。
「嘘」
背後から現れたのは、まだ寝間着姿のままのリリアンだった。真っ白な顔で、ジョットの遺体の横に膝をつく。
「嘘。嘘。どうして」
「お嬢様。これが……」
アンヌが書き置きを差し出すと、リリアンはジョットに覆い被さった。モリスは無言で娘の背中を撫でた。
リリアンが死んだと知ったのは、イザヤが教会に戻ってからだった。彼女の近くには、大量の白い粉が落ちていたと言う。それは彼女が母親の部屋から持ち出した鉛白の粉だった。鉛白は白い絵の具の原料だが、強い毒性を持つことでも知られていた。
――まるで「ピュラモスとティスベ」のような幕切れだったな。
そんなエレミヤの言葉が、イザヤの冷えた心に空しく響いた。
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