第二章 薔薇薫る宮殿 4

『あの執事は、本当に不気味だな。何より、くせえし』

 食事を終えて部屋に入るや否やそう言ったエレミヤに、イザヤはため息をついた。廊下でジョットから渡された手燭の火を吹き消し、机に置く。

 リリアンの行方に繋がるような情報は得られなかったことを伝えると、モリスは「そうですか」と落胆を隠さなかった。夫人もカロルもほとんどしゃべろうとせず、実に陰気な夕食となってしまった。

「不気味、というのは失礼ですよ。それはエレミヤさんの印象ですよね」

『だが実際そうだろう。ああいう底無しの目は、何を考えてるのかわからなくて不安を誘うんだよ。ハルピュイアの目と同じだ。それにあの執事、馬丁とはどうも折り合いが悪そうだな。同期で年の頃も同じなのに、立場が違いすぎる。一時的とはいえ、執事は使用人たちの上司にあたる存在だからな』

 確かに、その通りだ。それに厩舎で馬丁のレオに話を聞いたとき、ジョットは中に入ろうとしなかった。それまでの聞き込みでは、そばを離れることはなかったと言うのに。

「馬丁のレオさんは、リリアンさんに読み書きを教わったと言っていましたね。執事のジョットさんは、まだ書くことが苦手だと言うのに」

『失踪した長女は馬丁とは親しかったが、執事とはそうでもなかったようだな。あの匂いの強さなら、当然か』

「あの香水は、一体何なのでしょう。明日、聞いてみましょうか」

『やめとけ。あの匂いは、バニラだ。この地域で好まれている香水だよ。高価だから、おおかた箔付けのためにつけてるんだろう。それにしたってちょっとつけ過ぎだがな。薔薇といい、この屋敷はどこもかしこも匂いで溢れてるな』

 心底うんざりしたような物言いだった。

「明日には終わらせてここを発ちたいところですね」

『何か計画はあるのか?』

 問われて、イザヤは寝台に腰かけた。

「計画は、これから立てるのですよ。ひとまず、アトリビュートから考えてみましょうか。薔薇をアトリビュートに持つのは、聖母とアフロディテです。が、今回の事件に結びつくような主題はありません」

『じゃあ、事件の内容から考えてみるか? 姿が消えるっていうと、冥府の神ハデスの隠れ兜くらいしか思いつかないが』

 ハデスの持つ隠れ兜は、かぶると姿が見えなくなるという武具だ。ペルセウスがメドゥサを退治する際に貸与されたことで有名だった。

「残念ながら、私も同じです。が、やはり、今回のこととは結びつきません」

『なあ、いちかばちか、薔薇に「回収」をかけてみないか? 他にアトリビュートになりそうなものがないんだから、もうほぼ決まりだろう』

「だめです」

 かぶせるように答えたイザヤに、エレミヤはため息をついた。

「回収」は、魔石に精神を集中させることで磁石のように対象から魔力を「吸い出す」ものであり、息を吹きかけることによって稀人の体内の魔力を魔石を通して「吐き出す」攻撃系魔術とは性質を異にしている。体力こそ消耗はしないが、体内の魔力消費とともに多大な精神的疲弊を伴うゆえ、機構では「一日に一回が限度」と教えられていた。立て続けに回収を行うと精神に大きなダメージを負い、生ける屍のようになってしまうこともあると言う。

 どれだけの待機時間を置くかは回収人によって違っていたが、イザヤの場合は少なくとも八時間ほど待つ必要があった。その間に回収が必要な場面に遭遇しても、何もできないのだ。それでは「回収人」としての義務を果たせない。

「やはり私は、主題を特定させてから回収に臨みたいと思っています」

『だがあまり時間がないんだぞ。今回の事件は、アトリビュートと実際に起こった出来事の乖離が過ぎる。家族や使用人が嘘をついている可能性だって否定できない。今日みたいな調子で聞き込みを続けたところで、埒が明かないぞ』

 確かに、今の状態のままでは厳しい。イザヤはまとまらない思考を放るように嘆息した。

「では、あと半日だけ、待っていただけませんか。明日の正午までに主題の特定ができなかったら、そのときは薔薇に回収をかけることにします」

『それはいいが。なんで半日なんだ?』

「違和感です」

『違和感?』

「はい。今日調査をしているとき、違和感を覚えたんです。けれど、それが何なのか、はっきりとわからないんです」

『それは、いつのことだ』

「中庭の薔薇園に出たときのことです。その違和感が何なのかわかれば、解決に近づくような気がするんです」

『なるほどな。明日は、もう一度薔薇園から調べてみるか。あの執事抜きで行動できればいいんだが。どうも監視されてるようで、気持ちが悪いんだよな』

「ですから、それはエレミヤさんの印象でしょう。印象で人を判断するのは避けた方がいいかと」

『自分がそうされたくないからか?』

 返事をしようとして、声が喉の途中でつかえた。

「もう寝ます」

 靴を脱ぎ、布団に入る。その瞬間、部屋を覆っていた闇が薄らいだ。窓の外を見上げる。藍色の空には、丸い月が浮かんでいた。

 無言でイザヤを見下ろす月は、世界を遍く照らし出し、平等に影を生み出していた。それは、かつて独房の窓から見上げたものによく似ていた。


 ――ヒュプノスとシジフォス。ヒュプノスとシジフォス。

 男のつぶやきとともに、顎の先から汗が落ちる。

 ――まったく、とんでもない組み合わせだ。誰がこんな鬼畜刑を……いや、そもそもなぜそんな場面を描いた? 画家にとっては魅力的な主題だったのか?

 男の思考が、頭の中で声のように響く。

 ――目覚めたら、すぐにヨナに会いに行く。奴は無事なはずだ。俺の方が罪は重い。これよりは幾分マシな刑罰のはずだ。

 ヨナとは誰だろう。そう思ったとき、暗かった視界に光が差した。目の前にあったものが取り去られ、同時に大きな音がする。男が、崖を見下ろす。転がっていく大岩。

 ――三千五百十一回。

 そうつぶやいて、男は崖を下り始める。

 やめたいのに、やめられない。体がどんなに悲鳴を上げても、男は止まることができない。

 ――クソ魔石め。何の恨みがあって、こんなマネを。

 毒づいても仕方がない。わかってはいるが、男は自身の運命を呪うほかなかった。

 十年。それだけ耐えれば、また回収人として元に戻れる。ヨナと組むことはできないかもしれないが、もう一度外に出られる。そのときこそ、おれは――


 はっと、目を開ける。首回りが汗でびっしょり濡れていた。イザヤは半身を起こし、激しい鼓動を落ち着かせるように胸に手を当てた。

 くらりと、頭がふらついた。額に触れる。交換手術前、魔石が埋められる瞬間を思い出す。

 夢、だったようだ。だがあれは、何だろう。体中を流れる汗と、血の滲む手足。ちぎれそうな筋肉に、岩の感触。すべてが、実在するかのように鮮烈だった。

 ヒュプノスもシジフォスも、神話の登場人物だ。前者は眠りの神、後者は神を欺いたために永遠に続く苦行の罰を受けた男の名前だ。山頂まで岩を持ち上げることを命じられたシジフォスだが、あと少しで届くというところで毎回岩は転がり落ちてしまう。決して山頂に届くことがないことを知りながら、シジフォスはこれを繰り返すほかないのだ。

 そっと、左目に触れる。動かない。彼もまた、寝ているのだろう。

 エレミヤの記憶。そんなはずがないと思いながらも、イザヤは口を手で覆った。左目の相棒のことを、イザヤは何も知らない。

 よせ。彼がどんな過去を生きてこようが、自分には関係のないことだ。

 そう思いながらも、胸の鼓動はなかなか治まってくれなかった。

『どうした』

 左目の声に、イザヤはびくっと飛び上がった。

「いえ。ちょっと、目が覚めてしまって……」

『待て』

 イザヤの言葉をさえぎり、エレミヤが鋭い声を出した。心臓がどきりと飛び跳ねる。

『今、外から物音がしなかったか?』

「物音?」

 裸足のまま床に下り、窓辺から外を見やる。すると、中庭に人影があった。厩舎方面から、屋敷に向かって歩いてくる。

『妹か』

 エレミヤの言う通り、それは寝間着姿のカロルだった。具合が悪いのではなかったか。

 続いて、厩舎横の小屋の扉が、ゆっくりと閉められるのが見えた。あの小屋は、馬丁のレオの寝床だ。

『馬丁と夜中に密会か。穏やかじゃねえな』

「あの二人は、恋人同士なんでしょうか」

『そうは見えねえが、ありえなくはないな。あいつらが共謀して姉をどこかに隠してるのかもしれない』

 カロルが洗濯場の扉から中に入るのを見送りながら、イザヤは首をひねった。厩舎は、あの小屋も含めてすべて調べ、結果怪しいところは何もなかった。隠し部屋を作れるような空間もない。

『どうする。行って、問い詰めてみるか』

「そうですね。行きましょう」

 急いでブーツを履く。そうして部屋を出ようと足を踏み出したとき、頭がくらりと揺れた。

『大丈夫か』

「すみません、平気です」

 壁に手をついて答える。もう片方の手で頭に触れると、エレミヤが小さく息をついた。

『おまえ、ここに来てから何度もクラクラしてるよな。やっぱり、匂いのせいか』

 ――匂い。

 イザヤは、はっと目を見開いた。

「エレミヤさん、わかりました」

『え、なんだ?』

「違和感の正体です。匂い、そう、薔薇ですよ。中庭の薔薇の香りは、夫妻の部屋で初めて嗅いだものとは違っていました。あの部屋も確かに薔薇の香りで満ちていましたが、その中にかすかな刺激臭のようなものがあったんです。ジョットさんの香水に混じっているような、頭がクラクラしてくるような匂いです」

『刺激臭? それは、気づかなかったな。どんな匂いだ?』

 記憶を総動員して、似ている匂いを探す。鼻につんと来る、独特の匂い。

 はっと思い出す。ひとつ、思い当たるものがある。

「松明です。フォンスの衛兵の持っていた、松明の匂いに似ています」

『松明』

 エレミヤの声のむこうに、わずかな明るさが感じられた。

『わかった。それは、松脂の匂いだ』

「松脂?」

『ああ。これでわかった。おれもあの執事に違和感を覚えてたんだ。奴の指にはペンダコがあった。だが奴は字を書く仕事をしていない』

 言われてイザヤは、あっと声を上げそうになった。

「あれは、ペンダコだったんですか。でも、どうして」

『夫妻の部屋と執事に共通する松脂の匂い、字を書かない執事のペンダコ、そして屋敷の設計に関わった、鉱石集めが趣味の夫人。ここまで来たら、答えはおのずと出る。「アトリエ」だ』

「アトリエ……」

『おまえは知らないだろうがな。油絵の具を溶くのに使う油は、松脂から作られるんだよ。絵の具の顔料は鉱石からできてるものがほとんどだ。夫人なら、余計な金を払って鉱石を「加工」させることも簡単だっただろう。そして夫妻の部屋は、廊下から見たときと中に入ったときとで広さの印象が違った。若干狭く感じたんだ。どうだ、もうわかっただろう』

「つまり、夫妻の部屋とリリアンさんの部屋の間に、隠し部屋――アトリエがあるということですね」

『そう。薔薇も香水も、松脂の匂いを隠すためのものだった。そのアトリエこそが、「宮殿」だったんだ』

 その言葉で、イザヤははっと目を見開いた。

「もしや主題は、『プシュケー』ですか」

 うなずく代わりに、左目が上下に大きく動いた。

 プシュケー。『アモールとプシュケー』という主題で描かれる、美しい王女の名だ。アモールはアフロディテの息子、エロスのことを指す。

 美の女神アフロディテはプシュケーのあまりの美しさに嫉妬し、息子のエロスに、愛の弓矢を使って卑しい男と恋をさせるよう命じる。だがエロスは間違って自分を矢で傷つけ、プシュケーを好きになってしまう。娘を結婚させたいプシュケーの父親は神託を受けるが、それはアフロディテによる「山の上に娘を置いて世にも恐ろしい怪物と結婚させろ」というものだった。エロスは婚礼衣装を身につけたプシュケーが山の上にいるところを攫い、自身の宮殿に運ぶ。そこでプシュケーはエロスと結婚するのだ。

『薔薇の間を舞っていた蝶がいたな。薔薇は確かに美の女神アフロディテのアトリビュートだが、今回は惜しくもハズレだ。大事なのは薔薇ではなく、蝶だった』

「蝶は、プシュケーのアトリビュートですね。そしてリリアンさんは、プシュケーとして『宮殿に連れ去られた』。では、エロスの役割を担ったのは……」

『あいつしかいねえだろ。行くぞ、プシュケーの待つ「宮殿」に』

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