第二章 薔薇薫る宮殿 3

 その後イザヤは、カロルの部屋と夫妻の部屋を見て回った。

 カロルの部屋も家具は最低限のものしかなく、質素そのものだった。唯一、カーテンやシーツがピンク色で統一されていたことが姉の部屋とは違う温かみを持たせていた。質問を待っているらしいカロルをよそに家具の下や壁を調べてみたが、人が隠れられるような空間は見当たらなかった。

 夫妻の部屋は、娘たちの部屋の倍ほどの広さがあった。こちらも質素ではあったが、それまでの部屋とが大きな違いがあった。匂いだ。入ってすぐに、嗅いだことのない香りがイザヤの鼻腔をくすぐった。植物の香りだろうか。そう思った瞬間、たくさんの薔薇を活けた大きな花瓶が目に入った。イザヤは先ほどのモリスの言葉を思い出し、これかと得心した。

 花瓶は、部屋の壁沿いに並んだ棚の上にいくつも置かれていた。イザヤは初めて見る薔薇に引き寄せられるように棚へと近づいた。柔らかそうな花弁に触れたい気持ちを抑え、その香りを胸いっぱいに吸い込む。ガラスの扉を持つ棚の中には、様々な色の鉱石が並んでいるのが見えた。

 薔薇の甘やかな香りは部屋のすみずみまで満ちており、調べているうちに頭がくらくらしてくるほどだった。薔薇の芳香のことは知っていたが、ここまでのものとは思わなかった。

 すべての部屋を見終わると、イザヤは東側に位置する客間に案内された。ジョットが来るまで待つように言って、モリスが扉を閉める。

 イザヤは静かに部屋を見回した。引き出しのない机に、寝台の足元に置かれた長方形のチェスト。中身はきっと空だろう。

『おい』

 ひさびさに聞いた相棒の声に、イザヤは体中の力がほどけていくのを感じた。

「随分と静かでしたね」

『話の邪魔をしちゃ悪いと思ってな。しかし、よりによって今回も姉妹とは。厄介なことにならなきゃいいが』

「前回は双子ですし、そもそも状況が全く違います」

『しかし、あのおっさんの言ってたことが気になるんだよな。姉妹は厄介だと言ってたろ。似てない姉妹ってのは、喜劇にも悲劇にもなりやすいからな』

「情報が少ないうちの判断は危険ですよ。印象や一般論ではなく、見たものから可能性を探っていったほうが……」

『薔薇だな』

 矢のような言葉に、イザヤはカーテンを閉める手を一瞬止めた。

「そうですね。今まで目にした物の中でアトリビュートになりそうなものは、それしかありませんでした」

『薔薇といったら、聖母だろ。赤い薔薇は彼女の苦しみ、白い薔薇は彼女の純潔を象徴しているんだったな』

「赤い薔薇は『殉教』の象徴でもあります。が、それは考えてもしかたがありません。アトリビュートはあくまでも付属品であり、象徴的な意味は持たないのですから」

 アトリビュートの中には、抽象的な概念を具体的な形で表す「象徴」に用いられるものもある。アトリビュートが主題と不可分であるのに対して、象徴はそれ単体で描かれることもままある。

 薔薇は救世主の母親である「聖母」のアトリビュートであるが、同時にエレミヤやイザヤの言ったような「純潔」や「殉教」の象徴でもあった。

『とりあえず、薔薇がアトリビュートの主題を挙げてってみるか』

「そうですね。まずは――」

 イザヤがそう言った瞬間、視界の端で扉が静かに動くのを捉えた。はっとして口をつぐみ、じっと扉を見つめる。

 少しだけ開けられた扉を、誰かが外からノックした。

「失礼しました。一度お声がけしたのですが、お返事がなかったもので」

「ジョットさんですね」

 イザヤの声で、扉がゆっくりと開いた。そこには召使いのジョットが申し訳なさそうな顔をして立っていた。香水の匂いが、遠慮なしに部屋の中へと流れ込む。

「すみません、少し疲れていたようです。考え事をまとめるのに、つい独り言を」

 しばらくの間エレミヤと会話をしていなかったせいか、つい話しこんでしまった。油断した。回収人そのものとは違い、「目」の存在は一般には知られていない。

 しかし、イザヤの苦し紛れの言い訳に、ジョットは特別な反応を示さなかった。

「使用人たちの元へご案内するよう、旦那様から言いつかっております」

「はい、お願いします」

 即座に返事をしてから、イザヤはぎこちない笑みを浮かべてみせた。


  *


「このお屋敷で働いている使用人の方は、全部で何人いらっしゃるのですか」

 ジョットの後をついて階段を下りながら尋ねる。

 匂いのことでエレミヤが文句を言うので、イザヤは彼から少し距離を取るようにして歩いた。

「家政婦長、ハウスメイド、洗濯メイド、料理人、馬丁、そして執事である私、ジョットの六人です。数年前までは家政婦長の夫が執事を務めていたのですが、急な病で亡くなりまして。家政婦長の弟であり、雑用係をしていた私が執事の仕事を一時的に任されるようになったのですが、後任が見つからず、結局今も様々な仕事を兼任している状態です」

「執事、ですか。失礼ですが、どんなお仕事をなさっているんですか」

「来客対応の他、食器や家具の手入れ、食料庫の管理、給仕、戸締まり、蝋燭の火入れ……といったところでしょうか。基本的には、言われればなんでもやります」

「なるほど、大変なお仕事ですね」

「ええ、まあ。ですが、やりがいはあります」

 ジョットが答えると、「へえ」と頭の中で感心の声が響いた。

『若いのに、たいしたもんだな』

 若い、と言うエレミヤの言葉に、イザヤは改めてジョットを眺めた。言われてみれば、つややかな肌には皺もなく、巻き毛の髪も豊かだ。

「あの、失礼ですが、おいくつですか」

 おそるおそる尋ねたイザヤに、ジョットはくまのある目をぎょろりと動かした。

「モリス様には、十五になる年から七年間お仕えしております」

 頭の中で計算したイザヤは、なんと答えていいものか惑った。想像していたよりも、ずっと若い。ジョットは視線を泳がせるイザヤを見て、ふっと目を細めた。

「見えないでしょう?」

「いえ……、そんなことは」

 イザヤは、これからは人に年齢を聞くのはよそう、と思った。

 食堂と居間を通り過ぎ、廊下の途中に設けられた扉をくぐる。その先が使用人のスペースになっているとのことだった。家事室に入ると、繕い物をしていたメイドがあわてて椅子から立ち上がった。

「メイドのアンヌです。ここに来て二年の、一番の新人です。清掃やリネンの管理が主な仕事ですが、奥方やお嬢様方のお世話も担当しています」

「はじめまして」

 細い金髪は、白いキャップの中でまとめているらしい。お辞儀をすると同時に、耳の横の後れ毛が小さく揺れた。リリアンの部屋に婚礼衣装を運んだメイドだ。

 メイドは、モリスから聞いた話に少し詳細を付け加えた程度のことを述べた。リリアンが鍵をかけて部屋にこもることは、よくあることだったと言う。

「ご家族との関係はどうでしたか?」

「とても良好でした。特にカロル様とは、本当に仲睦まじいご姉妹でした」

「なるほど。他に何か、気づいたことはありませんか。物音がしたとか、なんでもいいのですが」

「いいえ。特に、ないと思います」

『ふむ。嘘はついてなさそうだな』

 イザヤは再び咳払いをしてから、軽く頭を下げた。

「ありがとうございます。お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした」

 ほっとしたような表情になったアンヌを残し、イザヤはジョットに連れられて部屋を出た。

 続いて訪れた厨房で、家政婦長と料理人に会うことができた。ジョットの姉だという家政婦長は、彼とはずいぶん年が離れているように見えた。頭に巻かれたバンダナから、ぼさぼさの髪がはみ出ている。

 料理人のほうは、彼女よりはいくぶん若く見えた。赤ら顔に無精髭を生やしており、突き出た腹の上のエプロンはひどく汚れている。

 モリスに仕えて二十年以上になると言う彼らは、リリアンが消えた時間は一階にいた。料理人は厨房で朝食の片付けと昼食の準備。家政婦長は厨房で朝食後のお茶を用意した後、家事室で日用品の注文書の作成と家計簿のチェックをしていたと言う。

「弟は字は読めるのですけど、まだ書くことが苦手なのです。書き仕事はすべて私が行っております」

 家政婦長が言うと、ジョットはもぞもぞと手を揉み合わせた。

 彼らにもアンヌにしたのと同じ質問を投げかけてみたが、答えは彼女とほとんど変わらなかった。リリアンの結婚に関しても、本人や家族のみならず、使用人も祝福の気持ちでいっぱいだったと言う。

「屋敷のことは、家政婦長である私がすべて把握しております。外部から何者かが侵入したなんてことは、絶対にございません」

 そう言い切った家政婦長の声には力があった。イザヤは礼を言ってその場を辞した。

 厨房の奥の扉から中庭に出ると、屋敷の北側を覆う高い塀が目に入った。途中で足をかけられる場所もなく、たとえ侵入できたとしてもあの塀を乗り越えて出ていくことは不可能だろう。

 扉のすぐそばで、洗濯メイドがシーツを取り込んでいた。彼女はここに来てから五年とのことで、モリスが話していたように、リリアンの失踪した時間にこの扉を使った人間はいないと言った。彼女は家族とはほとんど関わらないらしく、話せるようなことは特にないとのことだった。

 薔薇園の間を通り、庭の北側に位置する厩舎へと向かう。先を行くジョットをそのままに、イザヤは立ち止まって薔薇を眺めた。赤と白の間を、何羽もの蝶がひらひらと舞っていた。香りは、夫妻の部屋で嗅いだものよりずっと濃い。まさしく、今を生きる植物の香りだ。イザヤは知ったばかりの香りに親しみを感じつつ、それを掻き分けるようにして歩いていった。

 そのとき、ふと胸の中に引っ掛かりを覚えた。何だろう。何か、違和感がある。

 使用人たちの言葉だろうか。それとも、屋敷の造り? いや、違う。では何だ。

「イザヤさん」

 ジョットに呼ばれ、はっとして駆け出す。厩舎の前に立つジョットは、イボのある手を重たげに持ち上げて言った。

「どうぞ、中へ。馬丁のレオがいるはずです。私はここで待っています」

 ジョットを置いて厩舎に入ると、一人の若者が藁の山から立ち上がった。服に隠れてはいたが、腕も脚も太い筋肉で盛り上がっている。

「あなたが、レオさんですか」

「そうですが……」

 怪訝そうな顔をしたレオに、回収人であることを告げる。彼は一瞬目を見開いた後で、イザヤの星屑の瞳をしげしげと見つめた。

 十三歳の頃から七年間ここで働いているという彼は、件の時間、ここでずっと馬の世話をしていたのだと言う。モリスが出かけて以降、裏門の出入りはなく、気になったこともないと言うことだった。

「あの。リリアンは、大丈夫でしょうか」

 主家の娘を呼び捨てにしたことに、イザヤはちょっと眉根を寄せた。

「ああ、すみません。その、彼女はおれがここに来たときから、兄みたいに慕ってくれて、いろんな物語を教えてくれて……リリアン――様のおかげで、おれは読み書きができるようになったんです」

「では尚のこと、リリアンさんが心配ですよね」

 イザヤの言葉に、レオははっと表情を引き締めた。

「――もちろんです。できることなら、おれが助けてやりたいくらいです。でも……おれには、さっぱりわからない。もう、あなたのような人に頼るしかないんです」

「最善を尽くします。気づいたことがあれば、どんな些細なことでもいいので教えてください」

「わかりました。よろしくお願いします」

 そう言うと、レオは深々と頭を下げた。伸ばしっぱなしの金髪は薄汚れてはいるが、彼の力強さと若々しさによく似合っていた。

『念のため、厩舎を調べさせてもらえ』

 そう言われたイザヤは、馬に鼻息を吹きかけられながら、厩舎の隅々まで見て回った。二階には藁が積み上がっていたが、レオはわざわざフォークで中に何も隠されていないことを示してくれた。なんでも、リリアンが失踪してすぐ、モリスにそうするように言われたということだった。

「ご主人様は、おれのことを疑ってるんですよ」

「なぜです?」

「おれがリリアン様に対してよくない思いを持ってると思ってたみたいです。もしそうだったとしても、こんな汚いところに押し込めるわけないのに」

 そう言って力なく笑ったレオの顔は、幼い少年のように寂しげだった。

 厩舎を出ると、ジョットが少し離れたところで屋敷を見上げていた。こちらに気づくと、「終わりましたか」と振り向いた。

「夕食の準備ができ次第お声がけしますので、それまではお部屋でお休みください」

 西日の差す薔薇園を通って部屋に戻る。恭しい辞儀とともに扉を閉めようとしたジョットに、イザヤは静かに問いかけた。

「今回のこと、ジョットさんはどうお考えですか」

 ジョットはゆっくりと顔を上げると、無表情のままイザヤを見つめた。

「わかりかねます。私は、一使用人に過ぎませんので」

 そうして目を細めると、薄い唇を横に引き伸ばした。それが笑みなのだと気づいたのは、彼が廊下に消えた後のことだった。

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