第一章 首斬りの泉 5
執政官の厩舎で馬を引き取ると、イザヤはノーラの言った通り、日の昇らぬうちにフォンスの町を後にした。
まだ眠っている町を背に、馬を引いて歩く。まだ闇の濃い森に入った途端、最後に見たノーラの顔が頭を掠めた。反感とも諦めとも取れぬ、すべての感情を亡くしたような表情。
――彼女が祈らずとも、もう二度と会うことはないだろう。
『苦い初仕事だったな』
「何がです」
ぐるりと動く左目が、静かな思考を遮った。わずかな苛立ちが、イザヤの声に棘を添える。
『よかれと思ってしたことが、相手には望まれていなかったんだ。そりゃガッカリするよな』
その言葉は、イザヤの胸に深く突き刺さった。あえて見ないようにしていたものを、はっきりと目の前に差し出された感覚だった。この一瞬の小さな心の動きまで、左目に届いてしまっているのだろうか。
「私の心情を勝手に推測して決めつけるのはよしてください。いくら『目』でも、そこまではわからないはずですよ」
早口で言ったイザヤに、左目は乾いた笑いを返した。
『おいおい。もしかして、口に出しさえしなければ思考や感情は体の中にしまわれたままだとでも思ってるのか? もしそうなら、考えを改めたほうがいいぞ』
――いやな男だ。
なるべく考えないようにしていたエレミヤへの印象が、はっきりとした言葉でイザヤの胸に刻まれる。
だが、言葉を交わしたことで、町を出たときよりも気持ちが楽になっていることに気づく。この変化も気取られてしまうのだろうか。体の一部である以上、もはや抵抗や拒否は徒労でしかないのかもしれない。
『そういや、あの宿の主人』
やや慎重に切り出したエレミヤに、イザヤはうなずいて続きを促した。
『妹の手助けをすることで、娘の無念を晴らそうとしてたんだろうな』
「そうですね。それもあるかもしれません」
『それもって、おまえはどう考えているんだ?』
イザヤは、宿屋の主人の冷たい横顔を思った。眉間に皺を寄せ、睨みつけるようにダイスで遊ぶ旅人を見ていた、険のあるまなざし。
「復讐、したかったんじゃないでしょうか」
殺したくても殺せなかった相手への憎しみを、ルーナを通して旅人にぶつけていたのではないか。あの横顔には、信念よりも憤懣がそぐうように思えてならない。
『つまり、宿屋の主人は若い男の旅人を敵視していた、とも考えられるわけだ』
左目がぱちりと瞬く。
『もしかしたら妹が最初に恋した相手だけじゃなくて、主人の娘をひどい目に遭わせたって奴も、おまえと同じような見た目をしていたのかもしれねえな』
その言葉の裏に意図を感じて、イザヤは低い声を放った。
「慰めのつもりですか」
宿屋の主人がイザヤと目を合わせようとしなかったのは、娘を奪った旅人への憎しみが理由であって、イザヤが稀人であることは関係なかった。
もし彼がそう言おうとしているのだとしたら、そんな気遣いは逆にみじめになるだけだ。
するとエレミヤは「はっ」と吐き捨てるように笑った。
『自分で自分を慰めるなんて、情けねえ真似はしねえよ』
「自分?」
『おまえは、おれだからな』
一瞬の間を置いて、イザヤは思わず首を振った。
「変な言い方をしないでください。気持ち悪いです」
『おまえこそ勘違いするなよ。ただ、おまえは回収人で、おれは「目」。一時的に、運命共同体になってるってのは事実だろ。それに、おまえもおれも、同じ稀人なんだ。稀人であるおまえが言われた言葉はそのまま、おれが言われた言葉でもある。それを忘れるな』
同じ、稀人。
その言葉が、イザヤの胸にじんわりと響いた。
「なるほど。そういうことなら、忘れないようにします」
『それでいい』
イザヤは右手の中にある赤い魔石を握りしめた。初めての成果。この小さな魔石を得るまでの経緯が事件の関係者にどんな影響を与えようとも、そこは回収人の領分ではない。
感情は、仕事の邪魔だ。イザヤはこの一日で胸が抱いたすべての感情を手放すように、細く長い息をついた。
「早く教会に戻って、魔石を送ってしまいましょう。エレミヤさんも、機構に報告を……」
イザヤはそこで言葉を止めた。正確には、止めざるを得なかった。
舌が、動かない。いや、舌だけではなかった。全身が石のように固まり、まばたきひとつできない。
が、黄色い左目だけは、状況を確かめるようにぎょろりと動いた。
『効いたようだな。続けるぞ。口だけは利けるようにしてやる』
その途端、動きかけだった舌が歯の付け根に触れた。
――「静止」。「目」に与えられた魔術のひとつだ。その名の通り、回収人を麻痺させて一切の動きを封じる。
『イザヤ。おまえ、魔石に何をしているんだ?』
ひゅっと、背筋が冷えた。全身が動かないことも相まって、まるで氷漬けになったような感覚がする。
「……何の、ことです?」
かすれた声に、口が渇いていることを知った。
『フォンスに着く前に目を覚ましたとき、おまえの右手のしびれは痛いほどだった。慣れない馬に緊張したせいかと思ったが、馬術訓練のとき言われたことを思い出したんだよ。「手綱にかける力は左右均等に」ってな。そしておまえは、きちんとそれに従っていた。なのにあのとき、しびれていたのは右手だけだった』
反応を待つように、エレミヤはそこで言葉を切った。イザヤの唇が震え出すと、再び脳内に低い声が響き始める。
『その後も、おまえは何度も右手を握りしめていた。初仕事でよほど重圧を感じているのか、あるいは何か意味があってしていることなのか。注意しているうちに、やがて指輪の魔石がわずかに熱を持って震えているような感覚を捉えた。あまりに小さい感覚だったから、最初は気のせいかと思ったくらいだった。だが、妹に放った魔術を見て確信した。おまえの魔石は、普通じゃない。主題の割に、効果がありすぎる』
動かない体の中で、イザヤは指輪の黄色い魔石に意識を寄せた。
『主題が語る概念の力は、魔術の効果に比例する。おまえの魔石の主題は「裏切り」だ。臆病や嫉妬から生まれた、不道徳な行為に過ぎない。だが一方の妹の魔力の主題は「欲望」だ。人の欲望には際限がない。欲望に囚われた傀儡魔を前にしたら、おまえの魔石ではせいぜい身を守るのが精一杯のはずだ』
硬く、強い語調。初めて聞くエレミヤの冷たい声に、イザヤは静かに深呼吸をした。
『――おまえが優秀なのは、両親がともに稀人であることも影響してるんだろう?』
話していない出自だった。イザヤの脳裏に、機構職員の顔が浮かぶ。見た目に反して、彼は結構なおしゃべりらしい。
『おまえは、いわば稀人のエリートだ。おれたち普通の稀人にできないことができても不思議じゃない。それを悟られないようにひた隠しにできただろうことも、ここ数日の観察から十分に推測できる。さぞかし聡い子供だったんだろうしな。そんなおまえに共鳴した魔石の主題は、「裏切り」だ。警戒するなと言うほうがおかしい』
革手袋の中に、じんわりと汗がにじむ。「裏切り」という言葉に反応して、指輪の魔石がにわかに熱を持つのを感じた。
『ほら、今もだ。熱を持って震えている。何か言えよ。おれは、おまえが機構に対する背信行為を行っているんじゃないかって、疑っているんだぜ』
「――エレミヤさん。あなたは彼を、『世紀の嫌われ者』と言いましたよね」
返事はなかった。イザヤの唇が、かすかに震える。
「けれど、私はそうは思わないのです」
渦を巻く、黄色い魔石。その主題を知ったとき、イザヤの魂は大いに揺さぶられた。
この魔石の主題は、救世主たる師を裏切った報酬に銀貨を得、縄で首をくくって果てた男――「イスカリオテのユダ」だ。氷地獄コキュートスで責め苦を受け続けていると言われている。裏切り者の代名詞であり、確かにエレミヤの言った通り、長きに渡り人々から厭悪されてきた。
――だが。
「彼は破滅的な運命に身をゆだねた、人類の代表者。痛みと苦しみを引き受け、肉体を犠牲にして使命を果たした勇者です。彼のアトリビュートである銀貨の入った布袋は、後悔と悲しみの象徴。地獄の氷は、彼の苦痛そのものです」
『後悔……悲しみ……苦痛……』
エレミヤはイザヤの言葉を確かめるように復唱した。
『そんなものが、強い欲望に敵うとは思えない。しかも愛という、この上ない欲望に』
「彼女の行為の本質に、愛などありません。始まりは愛だったかもしれませんが、それを拒否されたことで執着に取り憑かれたのです。私の魔石の彼が引き受けた悲しみや苦痛の大きさを考えれば、彼女の身勝手な願いなど小さなものです」
後悔も悲しみも苦痛も、すべて彼女の今後の運命に対する冷たい予言に他ならない。時が経てばみずからの内から沸いてくるだろうそれらを突きつけられてしまえば、どれだけ欲望と執着のただ中にいたとしても、恐れに押し潰されてしまうのは自明なことだ。
『なるほどな。だが、それは魔石が震える理由にはならない。おまえの魔石には秘密がある。痛いほどに右手を握りながら、おまえは一体何をしているんだ』
――なんで、
エレミヤに言われた言葉が、今になって急に色づき出す。
さながら、ではなかった。イザヤにとってこの「ユダ」の魔石は、自身の願いを託したよるべであり、運命を支えてくれる護符そのものだった。
「知りたいですか」
『それがおれの役目だからな』
「知ったら、機構に報告しますか」
『必要だと判断すればそうする』
「その判断は、機構の『決まり』に基づくものですか。それとも――」
『おれ自身の判断だ』
なるほど、とイザヤは内心の高揚を感じながら息をついた。
――賭けてみても、いいかもしれない。
どのみち、「静止」を解いてもらわないことには何もできないのだ。イザヤの運命は今、確かにエレミヤが握っている。ごまかしたところで彼は引き下がりはしないだろう。短い日数ではあるが、一緒に過ごした今、彼の取るだろう行動が容易に予測できてしまう。
「――私は、魔石に魔力を溜めることができるのです」
『溜める?』
うなずこうとして体が動かないことに気づき、イザヤは続けた。
「稀人の体の中には、常に魔力が流れています。それを外に出す媒体となるのが魔石です。魔力は魔石を通して魔術となることで体内から消費され、魔石に残ることはありません。ですが、私の場合は違います。魔石を体温で温めることで、体内の魔力をその中に溜めていくことができるのです」
体が動けば、ここで革手袋を外して指輪の魔石を見せていたところだ。温められた魔石の中は、激しい白い渦で満ちていることだろう。
「信じられませんか」
言葉を返してこないエレミヤに、イザヤは自嘲気味に続けた。
「ただでさえ化け物である稀人の中でも、さらなる化け物というわけです」
初めてこの事実を知ったとき、イザヤは自身を呪った。この先の人生が二重の孤独で塗りつぶされるだろうことを悟ったためだ。
稀人というだけでも、罪深く危険な存在として多くの人間から疎まれる。しかし、イザヤは稀人の中でもさらに特異な存在として生きていかなければならないのだ。
魔石への魔力の貯蔵。見聞の範囲内では、前例を知らなかった。
誰にも知られてはならない。イザヤは必要以上に魔石に触れることを避けるようになった。もし知られたら、どうなるだろう。実験対象になるだろうか。それとも、なかったものとして処分されるのだろうか。
どちらにせよ、機構の外に出ることは叶わなかっただろう。
『なるほど』
エレミヤが静かにつぶやく。
『おまえの秘密はわかった。それで、目的は一体何なんだ』
イザヤは、ひとつ深呼吸をした。息を吐き出しきると、思いつきにすがるように唇を開く。
「エレミヤさん。魔力の源とは、何だと思いますか」
『何だ、いきなり』
一瞬の間を置いて、戸惑い気味の声が返ってくる。
「私は、『美』だと思っています」
琥珀色の絵画と、双子の舞。脳裏に浮かんだそれらに思いを馳せながら、イザヤは続けた。
「美は、魔力と同じように人を惑わせます。何より、魔力に宿っているのは美術品の主題なのですよ。美術品の本質は、第一に美しいこと。違いますか」
『おれは、芸術のことはわからない』
イザヤの言葉尻にかぶせるように、低い声が放たれる。
『話をそらして時間を稼ぐつもりなら逆効果だぞ。おれはそう気が長くない』
「ええ。それは、十分にわかっているつもりです」
凍りついた骨の内側で、心の臓が激しく血を送り出す鼓動を感じた。
長年、一人で抱え込んできた秘密。それを初めて開示することに、恐怖以上に期待を感じているのかもしれない。
再びゆっくりと息を吐き出してから、イザヤは静かに告げた。
「私の目的は、魔力の本質を知り、人々の心とこの世界を作り替えることです」
『作り、替える?』
「はい。稀人を、解放するのです。そうして、魔力を持とうが持つまいが、人間すべてが平等に生きていける世界に作り替えるのです」
高揚に後押しされるように、言葉が溢れ出して止まらなかった。頭の隅に、困惑の混じった吐息が生まれる。
『何を言っている? この世界は、魔力で壊されたんだぞ』
「だからといって、魔力を悪しきものと決めつけてしまっていいのでしょうか。もし魔力が単なる悪なら、なぜ魔石を通して見える絵があれほどまでに美しいのでしょう? なぜ私たちのように、魔力を持つ人間が生まれてくるのでしょうか」
『おれたちはこの世界を蝕む病みたいなものなんだよ。世界を破壊して、人を惑わせる。どう考えても、魔力は排除すべき悪だろう』
そうかもしれない。魔力はあの老司祭を惑わせ、結果的に彼を潰してしまった。
――けれども。
「魔力があったおかげで、私は美術品を通して崩壊前の世界を覗くことができました。機構の中で育つだけでは見ることのできなかっただろう、たくさんの美しい色を見ました。そして、そこに込められた人間の思いも。魔力の中には、美術品が禁じられた今の世界にはないものがあります。私はそこに、可能性を感じているのです」
イザヤのはっきりとした言葉に、左目が戸惑うような瞬きをした。
「私は魔力を、世界を壊すのではなく、作るために使おうと考えています。私は稀人の両親を持つ特別な稀人です。そんな私が魔石に魔力を溜め続けたら、一体何が起こるのか……見てみたくはありませんか」
返答はない。イザヤは自身の饒舌を楽しむように続けた。
「私は、回収人になる日を心待ちにしていました。魔石を支給してもらえるからです。貸与されているだけとはいえ、今は私のものです。目という監視もありますが、機構の中にいたときよりもずっと自由に動けます。外にいる間は、存分に魔力を溜めることができるのです」
『機構に知られたらどうする』
「そのときはそのときです。が、魔石内の魔力の状態など、稀人でなければ感知することはできないでしょう? 私は、魔力とは何であるかを知りたいのです。その研究をするためには、機構との交渉が必要です。その際、私の能力は切り札になり得ます。そのためにはまず、実際に魔力を溜め続けたらどうなるかを知る必要があるのです。秘密裏に行っていることではありますが、機構に対する背信行為であるとは私は考えていません」
しばし、沈黙が続いた。やがて、静かな声が脳内に響く。
『おまえはまだ、知らないだろうがな。おまえひとりの信念でひっくり返せるほど、この世界は小さくも弱くもない』
「それは、わかっているつもりです。船旅の長さには懲りました」
やや間を置いて、ふっと笑い声がした。
『そうだな。その点については、おれも同意だ。だが……』
「エレミヤさん。私たちの運命を握っているのは、世界ではありません。人の心です」
保身とは関係のない純粋な思いが、イザヤの口を動かし続ける。
「世界が破壊されても、人は人です。美しいものを美しいと感じることのできる心は、残っているはずです。私はその心に、賭けたいんです」
『……随分と、分が悪い賭けだな』
「もちろん、簡単なことではないと思います。ただ、可能性はあります」
小さな風がイザヤの唇を撫でた。渇いた口にじんわりと沸いてきた唾を、静かに飲み込む。
『言いたいことは、それで全部か』
「はい。すべて、お話しました。あとはエレミヤさんがご判断ください」
気づけば、真新しい陽光が闇を溶かし始めていた。イザヤは屋外で迎える初めての朝を、全身で受け止めた。新しい一日の始まりが生み出す無言の清気に、激しく波打っていた胸も次第に静やかさを取り戻していく。
たとえ賭けに負けたとしても、また新たな望みに賭け直すことはできる。賭けるということは、望むということと同義だ。望み続ける限り、首を縄にかけるような真似はできるまい。
動かぬ手の中で、黄色い魔石が震えるのをイザヤは感じた。そうして、
『判断する前に、ひとつ頼みがある』
エレミヤの硬い声に、心臓が跳ねる。
「何でしょう」
『静止を解く。だから、あそこの小川の近くまで行ってくれねえか』
「小川、ですか?」
言うと同時に、全身の麻痺が解けた。重心が前に寄っていたらしく、棒のようになった足で二、三歩よろける。
左目が動くほうへと顔を向けると、木立の向こうに開けた空間が見える。フォンスの町を囲むように流れている小川の一端だ。
不思議に思いながらも、イザヤは言われた通りに小川に向かった。近づくごとに、再び心臓の鼓動がうるさくなる。
川辺に到着するなり、エレミヤは『流れを覗き込んでくれ』と言ってきた。思わず「なぜです」と言い返す。
『いいから、言った通りにしてくれ』
イザヤは素直にその言葉に従った。拒んでも意味がなかったし、何よりエレミヤの意図に対する好奇心があった。
穏やかな水面に、怪訝な面持ちのイザヤがゆらりと映し出される。イザヤがこうして自分の顔を見たのは、随分と久しぶりのことだった。細い鼻筋に、小さな顎。濃い睫毛に覆われたアーモンド形の大きな目は、右が青くて左が黄色い。
黄色い左目は、まっすぐに鏡像を捉えたまま、石のように動かなかった。かがんだ姿勢が、だんだんとつらくなってくる。イザヤは、一体いつまでこうしていればいいのかと尋ねかけた。そのとき、
『なるほどな。美は、人を惑わせる……か。確かに、そうかもしれないな』
小さなつぶやきだった。
「あの、エレミヤさん。そろそろ、体を起こして……」
『おまえは美しいな』
「は?」
膝に手をついたままの姿勢で、ぴしりと固まる。
『この美しさも、魔力によるものなのか?』
「……何の、ことです?」
『この呆れるほどきれいな顔のことだよ。おまえ、魔力の源は美だって言ったじゃねえか』
「言いましたが……」
それが何の関係が、と続けようとした途端、ふーっと息が吐き出される音が聞こえた。
『理解したぜ。おまえは確かに、特別だ。十分、賭ける価値がある』
一人で納得したようなその力強い物言いに、イザヤはあわてて姿勢を戻した。
「あの、すみません。さっきから、理解が追いつかないのですが。一体、何の話です? 賭けるって、何を……」
『従順』
言葉を切るように、エレミヤが言い放つ。
『それが、おまえの第一印象だ。機構が優秀だとみなす稀人の条件は、第一に従順であることだからな。だが機構の判断は、おまえのその美に惑わされたものらしい』
くくっ、とくぐもった笑いが頭蓋骨を叩く。
『助かったぜ。おれはおまえを見たことがなかったおかげで、先入観なくおまえを見ることができた。おまえの腹の底にあるものを隠すのに、その美はおおいに役に立つ。おまけにその裏切者の魔石は、魔力といっしょにおまえの信念をも随分と増幅させたらしいな』
「裏切者ではありません。人類の代表者であり――」
『わかってるよ、勇者だろ。まったく、ユダにこんな信奉者がいたとはな』
そのとき、どこかで鳥が鳴いた。初めて聞く鳴き声に、指先が冷たくなっていることに気づく。
「それで……これから、どうするんですか」
緊張を隠すように低い声で問う。今頃になって、話し過ぎたことを後悔し始めていた。冷めた興奮が、きまり悪さに染まっていく。
すると、左目がぐるりと円を描いた。
『もうすっかり夜明けだな。飯がまだじゃないか? そのへんで朝食にしようぜ』
そのこともなげな口調に、しばし呆気に取られる。
「あの。どういうことですか? 判断は、どうなったんです? 私のこと、機構に報告を……」
『そんなこたしねえよ。ここで報告したら、おまえとのペアは解散だからな。おまえの信念か、世界か。どっちが勝つのか、最後まで見届けさせてもらうぜ』
突然のエレミヤの変容に、イザヤは言葉を失った。「静止」がかけられたわけでもないのに、まばたきひとつすることができない。
「つまり……報告は必要ないと判断した、ということですか?」
『ああ、そうだ。言っただろう、おまえはおれだって。運命をともにする以上、ある程度の見定めは必要だし、秘密は共有するべきだ。そう思うだろ?』
その軽い口調に、はっと目を丸くした。くすくす、という笑い声とともに、顔が一気に熱を帯びる。
「もしかして――私を、試したんですか?」
答える代わりに、エレミヤはからからと笑った。その向こうに、まだ顔も知らない相棒の快活な笑顔が見えるようだった。
『声だけの演技なら、おれのほうが上だな。心臓の鼓動が観客の拍手みたいに思えたぜ』
「拍手って……」
恥ずかしさをごまかすように、肩をすくめてみせる。どうやら、相手の方が一枚も二枚も上手だったようだ。イザヤはいつの間にか開いていた右手を、そっと閉じた。
小川の先で水を飲んでいた馬を見つけると、イザヤは革袋に水を満たした。ブナの木陰に腰を下ろして、司祭が持たせてくれたパンとチーズを取り出す。
水を一口飲んだとき、あの泉の水を飲んでみてもよかったかもしれない、という思いが湧いた。足りないものを与えてくれるという水は、今のイザヤに何をもたらしてくれるだろうか。
『あー。あの双子の踊り、見たかったな』
チーズをかじると、エレミヤののびやかな声が塩気に重なった。
「もう見させていただいたじゃないですか。私には、あれで十分です」
『本番の祭りでの踊りが見たかったんだよ。しかたない、おまえが世界を作り替えたときにでもまた来るか。そのときは、一人じゃなく二人でな』
イザヤの咀嚼が一瞬止まる。その言葉の意味を理解するまで、しばし時間がかかった。
「そうですね。いつか、そうしましょう」
イザヤは静かに口元を綻ばせた。
その瞬間、柔らかな風が起こった。風はイザヤの髪を撫でながら、木立の間を吹き抜けていった。
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