第一章 首斬りの泉 4

 イザヤは、フードをかぶって闇に溶けるように洞窟に向かった。

 稀人は、夜目が利く。暗闇においては、猫のように瞳孔が大きく開くのだ。

 幸い、夜警の衛兵の数は少なかった。物陰に身を隠し、衛兵の持つ松明の火が通り過ぎるのを待つ。松明特有のつんとした匂いが、イザヤの緊張を刺激した。

 洞窟の内部は、きれいなものだった。入り口はともかく、奥に進めば蝙蝠や得体の知れない虫と遭遇するのではという恐れは杞憂に終わったようだ。

 入り口から五十歩ほど進んだところで、ごつごつした岩肌が左右に迫る細い隙間に突き当たった。

『入れるのかよ』

「なんとか体は入れられそうです」

 黒マントをかき抱き、横向きに隙間へと侵入する。

『案外度胸があるんだな、おまえ』

 心底感心したようなその響きが、妙に可笑しく感じる。

「仕事ですから」

 足下を探りながら、肩で隙間をかき分けるようにしながら進む。その間にも、イザヤの脳裏には一人の女性の顔が浮かんでいた。

 ――主題は、ユディト。傀儡魔は、ノーラ。

 本当に、そうなのだろうか。私情を抜きにして考えてみても、何かが引っかかる。

 革手袋の右手を、ぎゅっと握る。中指の内側に感じる、魔石の感触。その黄色い石の中に渦が巻いている様子を想像しながら、イザヤはある司祭の言葉を思い出していた。

「稀人は、特別な存在です」

 狭い独房の中、向かい合って座った司祭の顔は近い。年若い彼の鼻に脂が浮いているのをぼんやりと眺めながら、イザヤは言葉の続きを待った。

「あなたがたの魔力は、肉体再生能力、暗闇でも十分に見ることのできる特殊な目……われわれ人間とは違う性質を体に付与するものであり、さらには魔術の使用を可能にする力です。あなたがたの寿命が平均四十年と短いのは、体内の魔力がそれらの特殊な性質のみならず、多大な負荷を生み出しているからだと考えられています。ここまでで、何か質問はありますか」

 イザヤは、ちょっと考えたふりをしてから口を開いた。

「稀人は、僕以外に何人いるのですか」

「それは機密事項なので、答えることができません」

 司祭は即座に答えた。が、イザヤの表情に何か感じるものがあったのか、しばらくもごもごと口を動かした後で、遠慮がちに話し始めた。

「あなたがた稀人は、大変数が少ないのですよ。機構が把握している限りでは、産まれてくる稀人は多くても年に十人と言われています」

「それは、野良稀人も含めてですか」

 その存在を把握できていない稀人のことを、機構はこう呼んでいた。稀人は産まれたらすぐにリベル教会を通じて機構に報告、保護される決まりになっていたのだ。

 が、何らかの事情で報告されず、他の人間と同じように育てられる稀人が、これまでに何人か存在していたことがあると言う。機構にその存在を知られた後の彼らの運命については、教えられていなかった。

「教会の力の届く範囲においては、野良稀人はもはや存在しません。その他の地域においては、おそらくかつての因習が続けられているでしょうから、やはり存在しないのです」

 さりげなく埋められた「因習」という言葉に、イザヤは身震いを覚えた。産まれてくる時代が、場所が違えば、自分はとっくに殺されているのだ。

 あのときの身震いは、自身の運命の可能性に対してだけのものだったのだろうか。

 司祭の放った、「われわれ人間」、「あなたがた稀人」という言葉。当然のように引かれた境界線に、世界における自分の意味に、恐れと怒りを感じた故のものだったのではないのか。

 再び、ノーラの顔が浮かんだ。少しだけ憂いを帯びて見える、藍色の瞳。

 機構を発って以来、自分と目を合わせてくれた数少ないひとりだ。魔力が原因とはいえ、彼女が凶行の犯人であるとは思いたくなかった。

 そのとき、マント越しに体をこすっていた岩がふっと離れる感覚があった。開けた空間に出たようだ。

 が、その奥を見て思わずため息をつく。暗闇に染まった黒い水が、沈黙とともに地面を満たしている。

 不気味だ。だが調べる必要があるだろう。それがノーラの言葉を、彼女の潔白を信じることにも繋がる。

 が、左目は違うものを注視しているようだった。よく見ると、水の手前の地面が妙な形で盛り上がり、歪んでいる。岩肌と同じ鈍色でわかりづらいが、あれは布だ。何かが並んだ上に、布がかけられているのだ。

 そのとき、妙な芳香が鼻をついた。異国を思わせる、甘く神秘的な香り。

 ――いる。

 そう思ったのと、エレミヤが叫びを発したのはほとんど同時だった。

『おい!』

 左目が、眼窩から飛び出さんばかりの激しさで左を向く。その目につられるように、イザヤは顔を傾けた。

 岩の陰から、女が飛び出してきた。暗闇の中でもわかる、ぎらぎらと欲望を迸らせる瞳。その色は、水色だった。

 イザヤは素早く腰を落として飛び退いた。激しい衝撃音とともに、頭のすぐ上で岩が砕ける。

 斧だった。両手で握ったそれを持ち上げながら、ゆっくりと彼女が振り向いた。

「だめじゃないですか、動いちゃ。きちんと、首に狙いを定めていたのに」

 水色の瞳が、闇の中で妖しく揺らめいた。

「ルーナさん。どうして……」

 斧を振りかぶって近づいてくるルーナから後ずさりながら、イザヤは指輪の魔石を握りしめた。あの斧は、やぐらを作る男たちが使っていたのと同じものだ。

 そう、斧だ。剣ではない。

「どうしてって、決まってるじゃない。ご褒美よ」

 ――褒美?

 左目が、びくりと跳ねたように動いた。ルーナは斧を下げ、目を見開いたまま唇を横に広げた。

「あなたも見たでしょう、私の踊り。上手だったでしょう? 私はただ、ご褒美が欲しいだけなのよ」

 瞬間、閃光のような衝撃が全身を貫いた。頭の中で、はあっと驚きとも落胆ともつかない息が漏れる。

『――サロメか!』

 そう。これは、ユディトではない。「サロメ」だ。

 王の催した祝宴で見事な踊りを披露した、王妃へロディアの連れ子サロメ。踊りの褒美に何が欲しいかと問われた彼女は、母へロディアにそそのかされ、洗礼者ヨハネの首を求める。

 イザヤは、悔しさにぎりりと奥歯を噛みしめた。なぜ気づかなかったのだろう。彼女らは、巫女。祭りの「踊り子」ではないか。

 ルーナは、斧を手にしたままくるりと回転してみせた。恍惚に染まった瞳は細められ、唇はうっとりと半開きになっている。

「ちょうだい。あなたの首を、ご褒美にちょうだい。初めて見たときから、欲しくてたまらなかったの。あなたのその、きれいな黒髪……星空みたいな目……子供のような唇……」

 言いながら、ルーナはイザヤをまっすぐに見つめた。その水色の瞳は、獲物を前にした獣のようだった。飢えと興奮の向こうに見え隠れする、狡猾な理性。

 ――おかしい。

「へロディアの娘、サロメよ」

 違和感とともに呼びかけると同時に、ルーナが勢いよく斧を振り下ろした。首を曲げてそれを避けると、斧は再び岩肌に突き刺さった。頭の中で、はっと息をのむ音がする。

 イザヤは静かな声で続けた。

「なぜそのように首を熱望する? おまえ自身が望んだものではないはずだ」

「違う。欲しいのは、私。私が、欲しいの。あなたの首を!」

 熱い吐息とともに叫んだルーナは、軽々と斧を引き抜いた。その隙にイザヤは素早く横に飛びすさり、彼女から距離を取った。ゆらりとこちらに向き直るルーナの手元で、斧が静かに持ち上げられる。

 斧は、「サロメ」のアトリビュートではない。となると、彼女を傀儡魔にしたアトリビュートは、「あれ」しかない。

 イザヤは革手袋の履き口をくわえ、右手を引き抜いた。贈り物を差し出すように伸ばした手を、そっと開く。中指の付け根の上で、黄色い魔石が渦をはらんでいる。

 そのとき、ルーナが高く跳んだ。足を曲げ、腕を伸ばし、着地と同時にひらりと一回転する。宙を舞う羽根のような、軽やかで予測のつかない動き。サロメの「舞」だ。

 その動きに触発されたように、彼女の白い肌がにわかに淡い光を放った。そうして獲物に狙いを定めるように、左手をイザヤのほうへ突き出す。

『危険だ。逃げろ!』

 左目がぐるりと動いた瞬間、指先がびりりと痺れた。肌の光が一層強くなる。その白い輝きは、異国めいた甘い香りとともに洞窟内を満たし、イザヤの体を空気で押し固めるような圧を放った。一歩下がろうとした足が、やたらと重い。

 と、ルーナが一足飛びに距離を詰め、片手で斧を振り上げた。

『イザヤ!』

 その叫びと同時に、イザヤは大きく息を吸った。痺れた体から発せられた息が、手のひらの魔石を撫でる。

 魔石は、柔らかな光を放った。左目が、右目とともにイザヤの手のひらを注視する。

 光が弱くなると、そこに現れたのは小さな革袋だった。

 ――大丈夫ですよ、エレミヤさん。

 イザヤは胸の内でそうつぶやき、痺れた指で革袋の紐をゆるめた。

 口の開いた袋の中から、複数の銀貨が勢い良く飛び出した。

『銀三十シェケル』。イザヤの魔石の持つ「魔術」のひとつだ。

 意志を持つかのように自身の体めがけて襲いかかってくる銀貨に、ルーナは一瞬身をすくめた。彼女の体に触れると、銀貨はそのまま黄色い光となって弾け飛んだ。同時に、体の痺れがするりと解ける。

 ルーナは斧を取り落とし、顔を真っ青にして震え出した。何かに怯えるように目を見開き、白い両腕で自身をかき抱く。

「欲しい……欲しいのに……!」

 呻きとともに発せられるかすれた声。そこにイザヤは、サロメの陰に隠れたルーナ自身を感じた。

「首を手に入れたところで、男の運命も命も、決してあなたのものにはなりませんよ」

「私を拒むからいけないのよ」

 突き刺さるような言葉に、魔石を握り直そうとしたイザヤの手が止まった。

「私の思いを拒んで、去ってしまうから……だから、こうするほかないの!」

 ルーナの髪が、空気をはらんでぶわりと広がる。斧がひとりでに浮き上がり、彼女の手元に吸い寄せられる。イザヤは反射的に息を深く吸いこんだ。――仕上げだ。

 魔石に息を吹きかける。同時に、斧を振りかぶったルーナが泣くように叫んだ。

「あなたを、愛しているの!」

 その言葉に、一瞬息が止まる。が、問題はなかった。

 ――『コキュートスの氷』。

 ルーナの全身が、黒い氷で覆われた。口を開けたまま懇願するようにイザヤを見つめる彼女の顔が、芸術作品のように時をなくして動きを止める。

 手のひらを下に向け、大きく横に空を切る。途端に氷が砕け散った。目を閉じてよろめくルーナの下に腕を伸ばし、なんとか抱き留める。

 途端に洞窟内を満たしていた芳香が消え、鼻をつく異臭へと変わった。その強烈さに、イザヤはマントの袖を鼻に押し当てた。

 すると、黄色い目がぶるりと震えた。

『――わからねえ』

 つぶやきのような声の後で、左目がルーナの体をなぞるようにゆっくりと動いた。

『主題はサロメ、傀儡魔はルーナ。つまり、斧で旅人の首を斬っていたのはルーナ。それはわかった。だが彼女に取り憑いていたのが「サロメ」なら、どうして彼女自身が首を欲した? 洗礼者ヨハネを邪魔に思っていたのは母のへロディアのほうだろう』

 エレミヤの言葉は、イザヤの抱いた違和感の内容そのままだった。

「それは、アトリビュートから回収した魔石を見ればわかるでしょう」

 一瞬の後、左目がぱちりと瞬いた。

『あれか』

 洞窟の奥の「布」に、二つの目が向けられる。

「棚に置かれていたのを見た時点で、すぐに気づくべきでしたよ。サロメのアトリビュートが『皿』であることに」

 疲れた声で答えながら、イザヤはノーラの言葉を思い出していた。

 ――踊りの前に、泉の水をいただくことになっているのです。それを注ぐための入れ物で、物騒なものではありませんよ。

 布を剥がすと、果たしてそこには、土器の皿に載った男たちの生首があった。思いのほか生前の姿を留めていたが、いくつかは相当腐敗が進んでいる。

「サロメ」のアトリビュートは、洗礼者ヨハネの生首。そしてそれを載せた「皿」だ。

 彼女たちが作っていた、土器の祭具。「サロメ」の魔力はそれを介してルーナに取り憑いたのだ。ルーナは生首を得るたびに自分の作った皿を「置き場」にしていたため、何度も作り直す必要があったのだろう。

 イザヤの低い声に、エレミヤは一拍遅れて「そうか」と答えた。

『おれたちは最初から二人の「獲物」だったというわけだな』

「ええ。今夜も私をここに誘導したのは、ノーラさんですから」

 宿屋での言葉、あれは妹のために、イザヤを洞窟に向かわせるための手段だったのだ。

『ああ――鈍ったな。何一つ読めていなかった』

 自嘲ぎみのその声に、イザヤは言葉を返すかどうか迷った。が、すぐに左目がルーナを捉えた。

『目を覚ましたら厄介だ。早いところ、「回収」しちまおう』

 イザヤは、生首の載った皿に指輪の手をかざした。魔石から黄色い閃光が放たれ、目を細める。

 光を受けた皿は、どくんと脈打つように動いた。光が治まると、赤い魔石が生じた。空気の隙間から零れるように現れたそれは、イザヤが差し出した左の手のひらにぽとりと落ちた。

 いつかと同じように、それをつまんで右目へ近づける。

 まず見えたのは、半裸の少女の白い肌だった。

 スカートを履いているが、上半身に身に着けているのは宝石の散りばめられた首飾りと腕輪のみ。首をのけぞらせて腕を上げているのは、踊りの途中なのか、それとも差し出された皿に載った生首を見た歓喜の反応なのか。洗礼者ヨハネの首を見下ろすその表情は、満願の恍惚に満ちている。

 フランツ・フォン・シュトゥックの『サロメ』。それが魔石から読み取れた絵画の情報だった。

「サロメの主題で描かれた絵画の中では、比較的新しいもののように見えます」

『おれにも見せてくれ』

 言われて、イザヤは魔石を左目の前に持っていった。

『これは……なるほど、そうか』

 左目がうなずくように上下に動いた。

『王やへロディアが徐々に排され、サロメとヨハネが主題の中心になっていくにつれて、「愛する男の首を欲する狂女」として描かれるようになった、ということだな』

「おそらく、そういうことかと」

 イザヤが機構から受けた教育では、サロメは「ヘロデ王の饗宴」あるいは「洗礼者ヨハネの斬首」という作品に登場する一人物に過ぎなかった。だが母親の駒を脱して能動的に男を愛する主人公となった彼女は、次第に「魔性」のイメージを獲得していくようになったのだろう。

『無垢な少女に秘められた狂恋と、無邪気な残忍性……芸術家が好みそうなテーマだな』

「ええ。とても美しく、悲しい絵です」

 そうして魔石を再び右目の前に持っていこうとしたとき、背後から明かりが差した。

 ノーラだった。手燭の明かりが、その頬を明々と照らしている。

 ――妹の獲物として、自分を差し出そうとしていた人。

 その事実は、まっすぐにこちらを見つめてくる藍色の瞳の前では、霞のように薄らいでしまう。

「ルーナに、何をしたの」

 唇が震えていた。肩にかけられた黒いケープは、白く汚れている。

「じき目覚めます」

 イザヤは赤い魔石を握り、彼女のほうへ向き直った。

「たった今、アトリビュートから元の魔力を回収しました。首斬り事件が起こることは、もうないでしょう」

「それじゃあ……あの子は、元に戻ったの?」

「そうです」

 自身のその返答に、イザヤはささやかな自尊の響きを感じた。手の中の赤い魔石は、仕事が終わった証しだ。あとはこれを機構に送り届ければ、今回の任務は完了となる。つまりもう、首斬り事件が起こることはない。ノーラ自身も、妹から解放されるのだ。

 しかしノーラの表情は明るくなるどころか、影が落ちたように青みがかった。

「あの子を、どうするつもりです」

 声の中に敵意を感じ取ったイザヤは、一瞬息を止めた。

「どうもしません。私は回収人です。アトリビュートから魔力を回収することだけが仕事で、それ以上の義務を負ってはいません」

「でも、今回のことを報告するのでしょう。そうしたら、ルーナは……」

「魔力の関わった事件はなかったものとして扱われます。逮捕も起訴もされませんし、記録は機構にしか残りません。――ですが」

 顔をこわばらせたままのノーラに、イザヤはできるだけ穏やかな声で続けた。

「あなたがたが行ってきたことは消えませんし、犠牲者の方々が生き返ることもありません。その事実に対してどう向き合うかは、あなたがた次第です。妹さんや宿屋のご主人とともに贖罪の道を模索することもできますし、すべてを胸の内に秘めてこれまでと変わらない暮らしを送っていくこともできます」

「贖罪……」

 その途端、ノーラの表情からふっと緊張が解けた。そうして、藍色の瞳から小さな雫がこぼれ落ちた。

「そう、ですよね。私たちは、罪を犯したんですよね」

「しかし、すべての原因はあくまでも魔力にあります。妹さんは、被害者でもあるのです。彼女が魔力に取り憑かれさえしなければ、罪に手を染めることもなく、平和な日々を……」

「それは違います」

 イザヤの声をはねのけるように言うと、ノーラは大きく顔を歪めた。涙が次から次へとあふれ出て、あごを伝って足元へと落ちる。

「――ごめんなさい。わかっているんです、あなたが正しいと。でも、できれば、そっとしておいてほしかった」

 手で顔を覆って泣き始めた彼女を、イザヤはただ見つめることしかできなかった。混乱していた。ノーラは悲しんでいる。が、その理由がわからない。左目に問おうとしても、ノーラを前にしている今はそれも叶わない。

 せめて何か言ってくれればいいのに、と思うが、脳内は静寂が支配していて、ため息ひとつ聞こえてこなかった。

「――あの子は、恋をしたんです」

 やがて落ち着きを取り戻したノーラが、ゆっくりと語り出した。

「去年の終わり頃のことです。相手は、あなたのような黒髪の、美しい顔立ちの若者でした。どこか異国的で、不思議な雰囲気があって。実際、遠い東の国からやって来た巡礼者でした」

 その若者は、ここに留まってほしいというルーナの願いには答えず、ある日の朝早くに発ってしまった。それを知ったルーナの意気消沈ぶりは、見ていられないほどだったと言う。

「それ以来、彼と似た雰囲気のある若者がやって来ると、妹はすぐに恋に落ちるようになったんです」

 その頃にはもう、「サロメ」の魔力がアトリビュートの皿を介してルーナに取り憑いていたのだろう。彼女の思いを受け取った彼らは、ルーナに一時の思い出を与えた。が、「ずっとここにいてほしい」というルーナの願いには、応えようとしなかった。

「仕方がないことです。彼らにはそれぞれ行くべき場所があり、帰るべき故郷があったのですから」

 そうしてルーナは、夜中に彼らを呼び出して首を斬るようになった。

「最初に首を斬ったときは、踊る子豚亭のご主人に見つかってしまいました。けれども、黙っていてくださっただけでなく、それからもルーナに協力してくださるようになったんです。ご主人には娘さんが一人いたのですが、旅人にひどい目に遭わされたことを苦に、命を絶ってしまったということがあって……それが関係しているんだと思います」

 ノーラはそこで、一つしゃくり上げた。

「首を斬るようになってからのあの子は、とても幸せそうでした」

「幸せ……」

 思わず復唱したイザヤを、ノーラはちらりと一瞬だけ見た。

「私も最初は驚きましたし、なんということをしたんだ、と妹を責めました。けれどもあの子は、とても生き生きとしていたんです。『どうしていけないの? こうすればずっと一緒にいられるのよ』って。妹は去っていく彼らの『一部』を、思い出の品として欲しただけなんです。それがたまたま、首だったんです。あの子は、愛に溢れています。傷ついて悲しんでいただけのときよりも、ずっと輝いていました。私にとっては、あの子が笑顔でいてくれることが『平和』だったんです」

 そう言うと、顔だけをイザヤのほうへと向けて続けた。

「すみません。本来なら感謝しなければならないところを、責めるような真似をしてしまって。ほっとしてはいるんです。もう、妹の犠牲者は出ないんだって。でも、それ以上に妹のことが心配なんです。あなたも、最初に恋した人に去られてからのルーナの様子を知っていれば、私の気持ちがわかるかもしれません。見ているだけで、胸が押し潰されるようでしたから」

 言われて、イザヤの胸は実際に痛みを感じた。それはルーナに対する憐れみではなく、ノーラの優しさと彼女の悲しみに対するものだった。

「もうおわかりでしょうが、洞窟の剣の話はあなたを誘い出すための嘘です。あなたがここに来た目的に気づいて、初めはルーナとあなたを引き離そうとしました。あの子があなたに惹かれていることはわかっていましたから。けれども私は、結局あの子の歓びを選びました。お祭りを終えたら、宿のご主人と話そうと思います。今までしてきたことと、これからすべきことについてを」

 平坦な声でそう言うと、ノーラは洞窟の入り口のほうへと目を向けた。

「もう、お帰りください。できれば、日が昇る前に。お見送りしたいところですが、私はあの子についていなければなりません」

「しかし……」

 イザヤは並んだ生首のほうを振り返った。

「首はルーナと一緒に、墓地に埋めようと思います。体と同じところに」

 一呼吸ほどの間を置いて、ノーラは力なく笑った。

「首が腐りさえしなければ、妹も同じことを繰り返さずに済んだのかもしれませんね」

 そう言った彼女の白い横顔が作り物のように見えて、イザヤは身震いした。と、その藍色の瞳が、彼の覚束ない表情を鋭く捉えた。

「さようなら。二度とお会いすることがないよう、祈っています」

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