第一章 首斬りの泉 3
その双子の名は、ノーラとルーナと言った。藍色の瞳のノーラが姉、水色の瞳のルーナが妹ということだった。イザヤは、自身の名――リベル教の教典「リベルの書」から取られた、単なる魔除けの記号――だけを告げ、回収人とは名乗らなかった。
「私たちは、春祭りで『巫女』の役を務めるんです」
「巫女、ですか」
ノーラの言葉に、思わず驚きの声が出る。旧世界文書で目にした言葉ではあったが、実際に耳にしたのは初めてだった。
「やぐらの上に上って、女神に踊りを捧げるんですよ。毎年、町の娘の中から二人が選ばれるんです。私たちは、もう三年目なんですよ」
「ああ、道理で」
イザヤの短い言葉に、ルーナはうれしそうに微笑んだ。
「お祭りの日まで、いらっしゃるんでしょう? 私たちの晴れ舞台、ぜひ見ていってくださいな」
「失礼よ、ルーナ。その方は……」
言いかけてノーラは口をつぐんだ。ルーナは姉に様子にかまわず、無邪気な笑顔をイザヤに向ける。
「泉には行きました?」
「いえ、まだ着いたばかりで」
「そうだったんですか! それじゃあ、私が案内……」
「だめよ」
ルーナののびやかな声を、ノーラが冷たく遮った。
「あなたはまだ作業が残っているでしょう。案内なら私がするわ」
「でも」
「とにかく、だめよ。先に帰っていなさい」
ノーラの強い語調に、ルーナは眉を曇らせながらも「わかったわ」とうなずいた。
「いやな思いをさせてしまっていたら、ごめんなさい。あの子は、いろんな土地からやって来る珍しいお客さんと話すのが好きなんです」
ルーナが去った後で、ノーラがイザヤの胸のあたりを見ながら言った。
それを見て、イザヤは昔教わったことをようやく思い出した。地方によっては、「稀人と目を合わせると災いをもらう」という迷信が根強く残っているのだ。
「作業、とおっしゃっていましたが」
「土器の祭具作りです。巫女役の仕事のひとつなんですよ」
静かに先を歩き出したノーラの後を、イザヤは遠慮がちな距離を保ちながらついていった。
町の最奥部、開けた草地に到着すると、男たちがやぐらを作っている最中だった。斧で切り出した木を組み合わせ、大人の男二人分ほどの高さの舞台をこしらえている。
「ずいぶん、高いですね」
ノーラという案内役がいることで、少し気が楽になったせいだろうか。自然と零れた言葉に、素直な感情が混じる。
「梯子で上るんですよ。実際は、下から見ているよりもずっと高く感じます」
「怖くないのですか」
「踊り始めてしまえば、気にならなくなります」
踊り、と聞いて、イザヤの頭にある考えが浮かんだ。
「先ほど、祭具とおっしゃっていましたね。それは、踊りのときに用いるものなのですか」
「踊りの前に、泉の水をいただくことになっているのです。それを注ぐための入れ物で、物騒なものではありませんよ」
『なんだ、剣舞だとでも思ったのか? 確かにそういう舞踊はあるらしいが、行われている地域は少ないと聞いたぞ』
二人に考えを見透かされていたようで、イザヤはきまり悪さに咳払いをした。
その後ノーラは、泉が湧いているという洞窟の入り口までイザヤを案内した。
「入ってすぐのところに泉の源があります。泉の水は、どんな人でも自由に飲むことができるんですよ。イザヤさんも、ぜひ」
「いえ。必要な方のぶんを奪ってしまうことになりますから」
「そんな心配、無用ですのに。この泉の水は、尽きることがないんですよ」
「私は幸い、どこも悪くありませんので。お気遣い、ありがとうございます」
そう言ったイザヤの顔を、ノーラは一瞬、眩しそうに見つめた。
「――他の旅の方も、イザヤさんと同じならよかったのに」
独り言のようなつぶやきの後に、ノーラは洞窟へと体を向けた。
「この水は、病を癒やしてくれるだけではないんですよ」
ノーラは静かに中に入ると、しばらくして両手に水を湛えた状態で出てきた。
「私たちに足りないものを与えてくれる、女神の慈悲のお心そのものなのです」
そうして顎を上げ、水を口へと流し込んだ。白い喉が、こくりと小さく波打つ。水は指の間から手の甲を伝い、肘の先から滴り落ちた。
滑らかな肌に描かれたその水の筋を、イザヤは静かに見つめた。
町に戻ると、ノーラは主立った店や施設について教えてくれた。鍛冶屋、食料雑貨店、仕立て屋。パン屋、肉屋、浴場。町外れにある革屋と粉屋。そして、踊る子豚亭。
東の空が青みを増してきた今、外の卓には客が溢れていた。厩舎には馬も増えている。どうやら旅人の集団が新たに到着したようだ。
「目的の場所に着くと、気が大きくなるものなのかもしれませんね。旅は危険ですから、気を張っていたぶんだけ羽を伸ばしたくなるのかも」
旅人たちの笑い声を背に、ノーラはぼんやりとした表情で言った。
「この町は……私が産まれた頃と比べて、随分と賑やかになりました。女神の現れた聖地であるはずなのに、その静けさと美しさはすっかり失われてしまいました」
ノーラはそこで言葉を切ると、つややかな唇からほうっと細く息を吐いた。
「けれど、おかげで町は豊かになりました。足りなかったものが与えられた、と考えたほうがいいのかもしれませんね」
そう言って目を細める。その横顔と声の穏やかさに、イザヤは意を決して口を開いた。
「ノーラさん。例の事件のことで、何かご存じのことはありませんか」
言いながら、一歩近づく。ノーラはゆっくりと顔をこちらに向け、はっきりとイザヤの目を見返した。
「私は、この町に平和を取り戻すためにやって来ました。どんなことでもいいのです。どうか教えてくださいませんか」
藍色の瞳に一瞬気後れするも、イザヤはすがるような気持ちで言葉を紡いた。ノーラはしばらくの間イザヤを見つめていたが、やがてゆっくりとまばたきをした。
「そうですね……関係があるのかどうかわかりませんが、ひとつだけ、思い出したことがあります。先ほどの祭具なのですが、古くは剣を持って踊っていたそうです」
「剣を?」
ぐえ、と蛙のつぶれたような声が、脳内に響く。
『まじかよ』
「旧世界の遺物なので、回収された……ということになっているのですが」
エレミヤの声に、ノーラの言葉が重なる。
「今でも、洞窟の奥に安置されていると聞いたことがあります」
「それは、本当ですか」
大災害を乗り越えた旧世界の遺物には魔力が宿っているとされ、遺物そのものが機構の回収対象となっていた。
「はい。イザヤさん、祭具のことを詳しくお知りになりたいようでしたので」
「ありがとうございます。とても有益な情報です」
イザヤの言葉に、ノーラは穏やかな微笑みを見せた。
「もうじき日が落ちます。泊まる場所をお探しでは? どうぞ、うちにいらしてください」
「いや、しかしその、私は……」
「『回収人』なのでしょう?」
こともなげに言うノーラに、イザヤは呆気にとられた。
「私たちは女神に祭りを捧げる『巫女』ですが、同時にリベルの信徒でもあるのです。この町には教会こそありませんが、月に一度は教区司祭の方がお見えになってお話をしてくださるんですよ。回収人の方のお世話も、信徒の務めです。ルーナもそのつもりで食事を用意しているはずですから、どうぞ遠慮なさらないでください」
そうして細められた藍色の瞳は、イザヤの目を正面から捉えていた。左右とも同じ色をしたその美しい瞳を見つめながら、イザヤはその日初めての微笑を浮かべた。
*
『なあ。おまえは、どっちだ?』
根菜のポリッジと蜂蜜酒の食事を終えて納屋に案内された途端、脳内で低い声が響いた。
おやすみなさい、と出ていくルーナを見送ってから、干し草の上に腰を下ろす。壁沿いの棚には、籠や壺、やたらと大きな皿などが所せましと並んでいた。
「何の話です」
『おれは姉のほうだな。冷たい感じがいい。おまえは妹のほうだろ?』
「だから、何の話です」
『体が反応していただろう』
呆れと苛立ちが、瞬時に動揺に変わる。
「変な言い方をしないでください。いきなり触れられて、驚いただけです」
食事の最中、隣に座ったルーナは、フードを下ろしたイザヤの頭をいきなり撫でてきたのだった。イザヤは驚きに飛び上がり、椅子から転げ落ちたのだ。
『触ってきたってことは、気に入られたってことだろう。おまえのほうはどうなんだ?』
「どうも何も、何もないですよ」
『まあ、どれだけ美人とお近づきになったところで、期待できる立場じゃねえもんな』
乾いた笑いの混じったその声に、イザヤは答えなかった。
稀人には、結婚も生殖も許されていない。稀人の子はまた稀人である可能性が高いからだ。
『こんなに艶のある黒髪は珍しい、と言っていたな。見せてくれよ』
「いやです」
エレミヤはまだ、イザヤの風貌を見たことがない。イザヤは最低限の身だしなみ以上のことはしようとしなかったし、自身の容姿に特段思い入れがあるわけでもなかったから、鏡や水辺に顔を映してしげしげと眺めるという習慣は持ち合わせていなかったのだ。
『せっかく褒めてもらったのに、みっともないとこ見せたのを気にしてるのか? あれくらいでひっくり返るこたないだろ』
「相手が誰であれ、いきなり触れられたら驚くものでしょう」
イザヤが言うと、左目がからからと笑うように動いた。
『ま、確かに、好んでおれたちに近づこうとする人間なんていないからな。あの妹は、年の割に純粋すぎて心配になってくる。逆に、姉のほうは――ちょっと知りすぎている感じがするな』
途端に重くなった語調に、イザヤの心臓がどきりと跳ねた。
『おまえ、今回の事件の「主題」は何だと考えているんだ』
イザヤは一瞬の間を置いて、元から低かった声をさらに小さくして答えた。
「まだわかりませんが、頭にあるのは『ユディト』です」
ふん、と満足げな吐息が返ってくる。
『おれも同じ考えだ』
ユディト。旧世界文書内の物語に登場する、寡婦の名である。「斬られた首」をアトリビュートに持つ、数々の主題のうちの一つだ。
異邦人の軍勢がユディトの住む町を襲った際、彼女は着飾って敵の将軍の元に出向いた。美しい彼女を喜んで迎えた将軍は、酒宴で泥酔し眠りに落ちる。ユディトはその隙に、剣で彼の首を斬り落とした。将を失った軍は敗走し、町の平和は守られた。
『アトリビュートは、「剣」か』
「主題がユディトであるなら、おそらく」
ユディトのアトリビュートは、「斬られた首」と「剣」である。首を入れる袋を持った侍女とともに描かれる場合もある。
ノーラの話を信じるならば、剣は洞窟の奥にある。洞窟付近を訪れた人間に取り憑く可能性は、十分にあるだろう。
『どうするつもりだ』
「夜が更けるのを待って、洞窟に行こうと思います」
『傀儡魔の当たりはついてるんだろうな』
問われた瞬間、一人の女性の顔が頭に浮かぶ。が、それを振り払うようにイザヤは目を閉じた。
「まだ、確証はありません」
『嘘だろ。考えてみろ、「ユディト」だぞ。旅人――つまりよそ者から故郷を守ろうとする、美しい女。かつての静かで美しい町を取り戻そうとしている彼女と、精神が符合する』
エレミヤの言う「彼女」がノーラを指しているのは明らかだった。イザヤはすかさず言葉を返す。
「ですが、もし彼女が傀儡魔であるなら、なぜわざわざアトリビュートである剣の居場所を私に伝えたのでしょうか」
『それこそ罠だ。おまえがそう考えるだろうことを見越して、疑惑の目を自分から外そうとしたんだろう。もしくは単に、おまえを誘い出そうとしていただけかもしれない。その場合、次の獲物はおまえというわけだな』
「まさか」
思わず声が大きくなる。泉でのノーラの言葉に、イザヤに対する敵意はなかった。
『じゃあ聞くが、彼女じゃなければ誰なんだ? 宿屋の主人か? だとしたら、動機は? 奴からしたら、旅人をありがたがりはしても、殺そうなんて考えは持たないはずだぜ。そもそも、ユディトは女だろ』
「主題の人物が女性でも、アトリビュートの作用する相手が女性であるとは限りません」
『だがこれまでのほとんどの事例で、主題の人物と傀儡魔の性別は一致しているんだぞ』
「わかっています。しかしそもそも、女性の力だけで首を斬るなど――」
イザヤはそこで言葉を止めた。魔力の力をもってすれば、「不自然」も「不可能」もない。
なぜだろう。ノーラは違う。そう思えてならなかった。あるいは、そう思いたいだけなのだろうか。
『おまえ、余計なことを考えてないか?』
「余計なこと?」
突然の言葉に、困惑の声を返す。
『魔力回収機構は治安維持機関だが、自警団とは別の秩序で動いている。魔力の関わった事件はなかったものとして扱われるから、犯人――傀儡魔は逮捕されることがない。そもそもおれたちは逮捕権を持たないし、人を裁く権利だってない』
エレミヤは淡々とした口調で続けた。
『おれたちの仕事は、アトリビュートから魔力を回収することだ。回収によって生じる影響についてまで考える必要はねえ。姉の正体を知った妹のその後については、管轄外だ』
「わかっています」
『どうだか。とにかく、思い出してみろ。酒場の男どもを見る彼女の、あの顔を。あの旅人の中に純粋な巡礼者なんかいない。巡礼を口実にして遊び歩いている放蕩者ばかりだ。奴らにとって女神の泉はオモチャでしかねえんだよ。だいぶ言葉を選んではいたが、姉が旅人たちを「侵略者」として見ているのは明らかだろう』
「しかし、首斬りの主題は、ユディトだけではありません。決めつけるのは早計かと」
『まだ言うのかよ。ユディトでなけりゃ、何だってんだ』
左目の苛立ちを感じつつ、イザヤは黙考した。「首斬り」、つまり「斬られた首」というモチーフの主題は、そう多くない。ユディトとダビデの他には、使徒パウロ、サロメと洗礼者ヨハネ、ペルセウスとメデューサ、トミュリスとキュロスくらいだろう。
その中で「剣」をアトリビュートに持つものは、ユディトとダビデ、パウロ、ペルセウスだ。
ペルセウスは、見た者を石にしてしまう怪物メドゥサの首を斬って退治した英雄だ。首の他には剣と盾、鎧、翼の生えたサンダルなどがアトリビュートである。今回の事件と無理矢理結び付けようとすれば、被害者たちが「見た者を石にする」、つまり言葉を失わせるほどの美貌を持っていた、などと解釈してみることもできるが、彼らの容貌についての情報がない状態ではこれ以上考えようがない。
剣による斬首刑で殉教した使徒パウロの場合はどうだろう。パウロは、救世主の復活を前に回心し、迫害に屈することなく精力的に伝道を続けた十二使徒の一人だ。リベル教徒である被害者たちと女神信仰の残る町の関係を、救世主の教えとそれを弾圧した帝国の関係に置き換えるのはしかし、やや無理があるように思える。
黙りこんだイザヤをせき立てるように、左目が数度まばたきをした。
『とにかく、主題はユディトで、アトリビュートは剣。傀儡魔は双子の姉だと考えるのが自然だ。早いうちに「回収」しないと、おまえも危ないぞ』
イザヤはその声に答える代わりに、ルーナの残していった手燭の火を吹き消した。
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