第一章 首斬りの泉 2

『ああ。右手がじんじんするな。おまえ、手綱を強く握り過ぎだぞ』

 エレミヤの声には答えず、イザヤは静かに馬を歩ませた。

 ブナの森を縫うように、細い道が延びている。やがて、清流をまたぐ橋が姿を現した。

 フォンスの町には、リベル教会がない。イザヤは馬を降り、町の中で一番大きな石造りの館を目指した。

『執政官の家だな』

 通りに並ぶ家々の窓は、色とりどりの花で飾りつけられている。その華やかな雰囲気の中、イザヤの黒マントは一層不気味さを増しそうなものであったが、道行く人々はどうしてかイザヤのほうを見ようとしない。絶えず微笑みを浮かべ、花の香りや春の陽気を露ほども逃すまいと言わんばかりにつやつやと顔を輝かせている。

『これは、あれだ。祭りの空気だ』

「というと、聖ベルナデッタの祝日でしょうか」

 イザヤは数日後に迫っている聖名祝日を口にした。

『病人の守護聖人だな。が、ここの泉の名を思い出せ。「女神」の泉だぞ。リベル教の聖人の祝日に合わせて行うことで黙認されている、おそらく土着信仰から来た祭りだろう』

 確かに、一神教であるリベル教において「女神」はおかしい。神に性別があるとは考えられていないからだ。

『あるいは、あえて旅人と関わらないようにしているのかもな。おれらも「旅人」ではあるんだ、用心しろよ』

 わかっています、とイザヤは心の中で答えた。エレミヤと積極的に会話をするつもりなどなかったのに、自然と言葉を返してしまったことが妙に悔しかった。

 フォンスの執政官は、四十年配の痩せた男性だった。リベル教の祭服のように丈の長いチュニックを床に引きずるようにして、イザヤから「回収人」の名刺をゆっくりと受け取る。

「春祭りが迫っておりましてな、忙しいのです」

 すぐに名刺を机に置いた執政官を前に、ふんと鼻を鳴らすような音が頭の中に響いた。町人と同じくなかなか目を合わせようとしない執政官に対し、イザヤは事務的な物言いで続けた。

「旅人の首が斬られる事件が、既に四件起きたと聞きました。魔力に侵された傀儡魔によるものである可能性があります。どうか、調査にご協力を」

「そりゃ、協力はいたします。巡礼者が来なくなるのは、私どもとしても困りますからね。しかしご存じのように、この町にはリベル教会はないのですよ」

 執政官の言葉の意図を図りかね、イザヤは唇を開けたまま固まった。

「つまりその、そちら様のお世話をする施設が用意できないというわけです」

「ああ」と、イザヤはすぐさまうなずいた。

「問題ありません。許可をいただければ、木の下ででも休ませていただきます」

「いやしかし、それじゃ外聞がよくないじゃありませんか。いえね、私どももお世話をしたくないってわけじゃないんですよ。そうではなくてその、この町にもいろいろな人間がいますから、まあ小さい町ではありますが、そのぶんその、難しい部分もありましてね」

 奥歯にものが挟まったような物言いに、嘆息したくなるのをぐっとこらえる。

「ひとまず、調査をさせていただきたいのです。用が済めば、すぐに立ち去らせていただきます。ご迷惑をかけるつもりはありません」

「そうですか、それは助かります」

 執政官はそう言うと、初めてイザヤの首のあたりを見てにこりと笑った。

「つきましては、事件についての情報をいただけないでしょうか」

「ええ、ええ、それはもう、何なりと。隣の部屋に書記がおりますから、詳しくは彼からお聞きください。詳細な記録を取っておりますので、お役に立てると思いますよ」

「わかりました。それと、馬のことなのですが」

「ご心配には及びません。滞在中は、うちの厩舎でしっかりとお世話をさせていただきますよ。そうでないと、お帰りの際に困るでしょうからね」

「ありがとうございます」

 一礼をすると、イザヤは執政官から顔を背けるようにくるりと扉に体を向けた。

『おまえは表情ひとつ変えないんだな。胸のあたりにふつふつとしたものを感じたんだが』

 そんなことまでわかるのか、とイザヤは思わず顔をしかめた。左目が可笑しそうにくるりと回転する。

『まあ、そのほうが賢い。おれたちに心があるかどうかなんて、連中の知ったこっちゃないんだからな』

 ノックをして、隣の部屋に入る。帳簿らしき紙束の詰まった本棚の隣で、羽付きの帽子をかぶった男がこちらに背を向けて机に向かっていた。

「失礼します。首斬り事件についてお伺いしたいのですが」

「……ああ。機構の、回収人……の方ですか」

 振り返った書記は、やはりイザヤと目を合わせようとはしなかった。机の端に置かれていた記録簿を手に取ると、立ち上がって窓際の書見台へとそれを乗せた。

「初めて発生したのは……今年の一月、第三週です。被害者は、病気の母親とともに滞在していた二十歳そこそこの若者。遺体の発見場所は、踊る子豚亭の納屋」

「子豚?」

「酒場を営む宿屋です。この町で一番大きな酒場ですから、すぐにわかるかと。二件目は、二月の第二週。被害者は、遍歴の途中立ち寄った修道士付きの騎士。場所は同じく、踊る子豚亭。四件すべて、この踊る子豚亭付近で起きています」

 書記はそう言うと、記録簿を閉じてイザヤに差し出した。

「あとは、ご自分で見てください。三件目は二月の四週、四件目はつい先週のことなのですぐにわかると思います。字は読めるんでしょう」

「はい。では、お借りします」

 イザヤは書見台の前に立ち、記録をたどった。

 三件目の被害者は巡礼者の青年。四件目は仕事を求めて移動中の石工家族の息子だった。遺体の発見場所はすべて踊る子豚亭となっており、二件目以降は「踊る子豚亭近くの柳の木の根元」「裏の川べり」「厠の脇」とすべて屋外だった。

 状況から、全員夜中のうちに殺されたものらしい。遺体は朝になってから発見されている。いずれも凶器は見つかっていない。

 被害者に共通しているのは、全員十代から二十代くらいの若い男性であり、リベル教の信徒であるということ、この町の住人ではないということだった。

「すみません、被害者の容姿について詳しく知りたいのですが」

 イザヤの問いに、書記は視線を手元に落としたまま答えた。

「踊る子豚亭の主人にでも聞いてみてください。すべての現場を見ているはずです。まあ、客のことなどたいして覚えていないかもしれませんがね。何せ、顔がないんですから」

「顔がない?」

 けげんそうに眉を寄せたイザヤに、書記は静かな声で言った。

「発見された遺体は、首から下しかなかったんです。斬られた首は、いまだに見つかっていないんですよ」

「なるほど。では、そのご遺体はどこに?」

「町のはずれの無縁墓地に埋葬しました」

「凶器を特定するために、首の切り口を確認したいのですが」

「墓を掘り起こすことは許されませんよ」

 書記ははっきりと顔をしかめて続けた。

「あいにくですが、その記録以上の情報は何も提供できません。あとは、発見者から話を聞いてください」


「踊る子豚亭」に向かうと、まだ明るい時間にも関わらず、外に置かれた卓では飲酒やダイスに興じる客たちが賑やかな声を上げていた。彼らは、黒いマントをなびかせてイザヤが横を通り過ぎても、見えていないかのように全く問題にしなかった。

「悪いけど、うちでは泊められないよ」

 扉の脇に立つ主人に近づいた途端、イザヤは刺すような声をぶつけられた。彼は眉間に皺を寄せ、ダイス遊びの卓に視線を向けていた。機嫌がよいとは言えない様子に気が重くなるが、イザヤは努めて穏やかな声で話しかけた。

「ご迷惑をおかけするつもりはありません。ここで起こった首斬り事件について、お話を伺いたいだけです」

「話すことなどない。帰ってくれ」

「ですが」

 主人の眉間の皺が深くなる。

「もうすぐ祭りなんだ。あんたみたいな辛気くさいのにうろつかれるだけで、こっちは大迷惑なんだよ」

「調査をさせてください」

 イザヤは自分を見ようとしない主人に詰め寄った。

「また同じような事件が起きるとも限りません。そんなことが続けば、ご商売に差し障りが生じます」

「余計なお世話だよ。女神が旅人の無作法にご機嫌を損ねていらっしゃるだけだ。祭りが終わればすべて元通りになる。さあ、出てってくれ」

 主人はにべもなかった。イザヤは扉の中を覗こうとしたが、それも立ちはだかった彼の体のおかげで叶わなかった。

 振り返ると、客たちがイザヤから素早く目をそらした。そうして何事もなかったかのように酒を飲み、会話に興じ始める。

 ダイスで勝ったとおぼしき客の歓声と笑い声を背に、イザヤは静かに宿屋から離れ、裏手を流れる川のほうへと向かった。記録で知った事件現場を確認するためだ。しばらくの間、町の人間から話を聞く気にはなれなかった。

『やはりこの町は、リベル教会の力が十分に及んでいないようだな。魔力の回収に協力するのは、信徒の務めの一つでもあるんだが。初めての仕事にしては、つらいんじゃないか?』

 イザヤは答えずに歩き続けた。肯定も否定もしたくなかった。

『どうした。もうくじけたのか』

 エレミヤの声で、イザヤは自身の心痛に気づいた。

「まさか」

『じゃあなんで、護符タリスマンさながらに魔石を握りこんでるんだ? さっきから、痛いほどだぞ』

 石のように硬くなっていた右の拳が、びくりと震えた。

 右手の中指に嵌めた指輪は、魔石が手のひら側に来るようにしてある。汗で濡れ、体温で温められた黄色い魔石。それを包み込む手が、エレミヤの言葉で一瞬だけ緩んだ。

「どうも、知らず知らずのうちに気負ってしまっているようですね」

『ふうん。意外だな』

 エレミヤはそこで言葉を止めた。

 イザヤは彼の目に意識を向けた。その途端、左目はとぼけたようにぴたりと動きを止める。

 イザヤはできるだけ静かな呼吸を続けた。少しだけ速さを増した胸の鼓動は、あるいは伝わってしまったかもしれない。が、五感を共有しているとはいえ、思考や感情について感知することは不可能なはずだ。

 裏へ回ると、柳の木と厠はすぐに見つかった。どちらも宿屋を囲む板塀を見上げる土手にある。川べり、というのも、ヨシの生い茂ったこの土手のことなのだろう。

『宿屋にいる人間を呼び出して密会するのに、うってつけの場所だな』

 密会、という語に力を入れたエレミヤの声に、イザヤは小さな息で応えた。

『なあ。そろそろ、「主題」に当たりがついただろ。調べれば調べるほど、確信が深まっていくんだが』

「そうですね。主題が何であるかはともかく、魔力による事件でまず間違いはないかと」

『それじゃあ、あとはアトリビュートを探すだけだな』

 イザヤは板塀ごしに宿屋を見た。傀儡魔を発生させているアトリビュートは、おそらく室内にある。だがあの主人の様子では、中に入ることは難しいだろう。

『夜中に忍び込むしかなさそうだな。あの塀、乗り越えられそうか? それか、どっかに隙間が……』

 エレミヤの声が止まると同時に、辺りを見回していたイザヤの動きも止まった。

 柳の木の奥にある岸辺。そこに、踊る二つの陰があった。

 初め、イザヤはそれを川のニンフだと思った。かつて魔石を通して見た、美少年ヒュラスに群がるニンフたち。その妖しい美しさを彷彿とさせる、白く輝くような肌に、腰まで伸びる美しい茶色の髪。

 軽やかに回転し、跳ねるたびに、白い薄衣のドレスがふわりと空気をはらむ。まるで鏡合わせのような、左右対称の動き。まるで、動く絵画――いや、動く「美」だ。

 彼女たちに目を奪われながら、イザヤは初めて絵を見たときのことを思い出していた。

 それは、老司祭の七回目の訪問日のことだった。イザヤは、彼の持ってきた魔石のひとつをおそるおそる摘まみ上げて目に近づけた。

 最初に見えたのは、琥珀色だった。琥珀色の太陽が、腕を伸ばすようにその光で空を照らしている。太陽からは、地上で眠る男のほうへと巨大な螺旋階段が延びていた。そこを行き交うのは、何人もの優美な人々の姿だ。

 ウィリアム・ブレイクの『ヤコブの夢』。それが、イザヤの初めて見た絵の名前だった。

 ――その所持も制作も禁じられている今、旧世界の遺物である絵は、魔石の中だけで静かに息づいているのですよ。

 髭を動かして言った司祭の横で、イザヤはまばたきすることも忘れ、初めて見る「絵」に見入った。初めての色。見たことのない色。現実とは異なる、自由な形を作り出す線。

「ヤコブの夢」は、アブラハムの孫ヤコブが旅の道中で見る夢の話だ。彼は夢の中で天使の姿を見るだけでなく、彼を祝福する神の声をも耳にする。

 老司祭からこの物語を習ったとき、イザヤの頭の中に浮かんだのは、独房のようにぼんやりとした白い光景だった。ヤコブという男や天使というものの姿を、うまく思い描くことができなかった。だが、目の前の小さな石の中に見えるものは、想像をはるかに超えた別物だった。失われた旧世界で生み出された、技術と想像の塊。

 あのときの心の震えが、今再びイザヤの胸を支配していた。圧倒された後で、静かに沸き起こる高揚感。法悦、畏怖、嫉妬、切望……そんな言葉を並べるだけでは到底言い表せないような感情に、イザヤは陶然とした。

『美しいな。双子か?』

 左目のつぶやきで我に返る。見れば、二人の女性は確かに同じ顔をしていた。

 そのとき、右側にいた女性がはっとこちらを見た。イザヤはびくりと肩を震わせ、そのまま固まった。罪悪感ときまり悪さで、足が動かない。

 踊りを止めた右側の女性に、左側の女性もイザヤの存在に気づいた。こちらを見て、藍色の瞳を陰らせる。すると右側の女性が、静かに土手を上ってきた。イザヤはあわてて後ずさる。

 女性はイザヤまであと数歩のところまでやって来ると、水色の目を細め、じっと彼の顔に見入った。刃面に映った、左右で色の違う目を思い出す。この明るさ、近さなら、目の中の星屑もはっきりと見えていることだろう。

「あの、すみません。覗いていたわけでは」

 そう言って、顔を背ける。すると女性は、驚くことにイザヤの革手袋の手を静かに掴んだ。

「どうぞ。見ていってください」

「ルーナ」

 もう一人の女性が、戸惑いの混じった声を上げた。

「いいじゃない、ノーラ。旅のお方には親切にしなくちゃ」

「でもその方、お困りのようよ。顔が青ざめているわ」

 頭の中で、くつくつと笑い声が響く。

『おまえ、動揺しすぎだろ。気持ちはわからないでもないが』

「あら、赤くなった」

 手を取った女性が言うと、もう一人の女性からくすりと笑いが漏れた。

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