その唇にカトラリー

宇土為 名

その唇にカトラリー



 両手を広げて立夏が駆け寄って来る。

 俊臣。

『としおみ…っ』

 俺の名を呼んで。

 くしゃくしゃの泣き出しそうな顔、大きな目が真っ赤になっていて、近くまで来たときにはもう、その目からは涙が溢れていた。

 りつ、と呼んだ瞬間、力いっぱい抱きしめられた。

『なんでえ、なんでっ、なんにも言わないで行くんだよお…っ』

 ごめんね、ごめんね立夏。

 泣かないで。

 泣かないで、大丈夫だから。

 どこにも行ったりしない。

 立夏が俺を嫌がっても、それは出来ないよ。



 それは夏の終わりだった。

 窓からは生温かい風が吹いていた。

 学校の教室、人気のない放課後。

『立夏にはもう近づくな』

 彼女は青ざめていた。

 突然態度を変えた俊臣を彼女は怖いと感じたのか、胸の前でぎゅっと両手を握り合わせていた。

『なんで、そこまで──』

 されなければならないの、と声にならない声が聞こえた気がする。

 でも実際には彼女は何か言おうと口を開いたまま、唇を震わせながらそこに立ち尽くしているだけだった。

『どうして…』

 どうして?

 そんなことは決まっている。

 俊臣はゆっくりと言った。

『今度、立夏に近づいたら──』

 ざあ、と強い風が吹いた。

 耳元で煽られた髪がなびく。

 木々のざわめきに声がかき消されていく。

『──』


***


「うーん…」

 手に取った缶詰を矯めつ眇めつしては、また棚に戻す。その隣の似たような缶詰を手に取り、立夏は小さく首を傾げた。

 どっちにするべきか。

「いやわかんねーし…」

 どっちが美味いんだか、よく分からない。

 大体見たこともない食材だ。ここは無難にいつものやつにしておいたほうが絶対いいに決まってる。

 立夏は持っていた缶詰を棚に戻し、見慣れたパッケージの缶詰を手に取った。

 うん、これ。やっぱこっちだよな。

 外国のものなんておれにはまだ早すぎる。

 見ている分には全然飽きないんだけど、と立夏はその棚からふらりと離れ、別の場所に向かう。手にしたメモ書きに目を落とした。あと買うものは…

「あ」

 何気なく顔を上げた視線の先に目が留まった。またふらふらと吸い寄せられるように足が向かう。

「えー…、これ何に使うの…?」

 奇抜な色の魚模様の袋を手に取って、物珍し気に眺める。

 午後の買い物時の大型スーパーマーケットの中、そんな立夏を通り過ぎる主婦たちが興味深そうに振り返って見ていることに、本人はまるで気がついていなかった。



「…──」

 ふっと目が覚めた。

 何だ…?

 ひどく嫌な気分だった。

 何か夢を見ていた…?

 徐々に覚醒してきた意識の外から、だんだんと音が聞こえて来る。

 携帯が鳴っていた。

 今、何時だ?

 俊臣はベッドから起き上がると、離れたところに置いてあった携帯を手に取った。

 携帯はしつこく鳴り続けていた。画面も見ずに、俊臣は通話ボタンを気怠げな仕草で押した。一体どこの誰だ。

「……はい?」

 耳にあてると、聞き慣れた声がした。

『お、やっと出た。塩谷くーん?』

 俊臣は深く息を吐いて髪を掻き上げた。

「何だよ…」

『なに、寝起き?』

 ひどく掠れていた声に、本庄が笑った。

「そうだけど」

 そう言って俊臣はベッドに座る。身体がひどく怠いのは、昨日から変わっていない。

 頭が重いな。

『具合悪いの?』

 様子を窺うような本庄の声に、どうだろう、と俊臣は一瞬考えた。

「いや、そうでも」

『ふうん、まあいいけど。おまえが欲しがってたの手に入ったから、渡そうと思ったんだけど、どうする?』

「ああ…、そうだな…」

 俊臣はちらりと窓の外を見た。受け取りたいのはやまやまだが、体が言うことを聞きそうになかった。立ち上がるのすら少し億劫だ。

『月曜で間に合うならそうするか?』

 今日は土曜で、その日は今度の水曜だった。充分に間に合う。そうしてもらえると助かると俊臣が言うと、本庄は思いついたように、あっと声を上げた。

『なんなら僕家まで持って行こうか!』

「…やめろ」

『久しぶりにりっちゃんに会いたいし──』

「じゃあな」

 嬉しそうに弾んだ本庄の声を遮るようにして俊臣は通話を切った。はあ、とため息が漏れる。冗談じゃない。本庄が家に来たらきっとしばらく居たがる。立夏は喜ぶだろうが──それはちょっと嫌だ。

 せっかくの休みなのに誰も家に入れたくない。

「…りつ?」

 廊下に出ると家の中はしんとしていた。まだ越してきたばかりであまり荷物がないからか、どこもがらんとして寂しい印象だ。

 向かいのりつの部屋の前で呼び掛けてみる。返事はない。ドアを開けてみたが、姿はなかった。

 どこだろう。

「りつ?」

 呼び掛けながら俊臣はリビングに入った。立夏はおらず、テーブルの上にメモが残されていた。

『買い物に行く』

 買い物か。

 きっと、近くのショッピングモールの中だ。

 立夏は最近よくあの中にある外資系のスーパーで買い物をしてくる。

 目新しいものがあって楽しいようだ。

 起こして──、くれればよかったのに。

「……」

 ソファに座る。

 背もたれに沈めた体は怠く、酷く重かった。眠気が取れない。

 こんな時間まで、ずっと眠っていたのに。

 眠りが緞帳のように落ちて来る。抗えずに俊臣はゆっくりと瞼を閉じた。



 ぱんぱんに膨らんだ買い物袋を両手に提げて、立夏は店を出た。

 こんなに買うつもりじゃなかったのに、見ているとあれこれ欲しくなってしまって自分の購買欲にちょっと呆れてしまう。普段あまり物を欲しがらないでいると、こういうところで爆発するんだろうか。

「あー…、買い過ぎたなあ」

 まだ親に頼る身だ。もう少し節約しないと駄目なんだけど。

 マンションに帰ろうと、立夏は建物の外側の駐輪場に向かった。

 新しく住み始めた家は、ここからほど近い。駅には距離があるがバスターミナルがあるので交通の便には不自由しなかった。

 大学からも、俊臣の通う高校からも、程よい距離だ。よくこんなところを見つけられたものだと、英里には感心する。マンションだって利便性の点からいえばかなり家賃はしそうなものだが、築年数が古いので、内装をリノベーションしていても相場よりかなり安かったのだ。立夏が就職するまで──うまく順当にいったとしてあと三年程はどうしても世話になる。早く大人になって少しでもあのふたりの負担を減らしてやりたいと立夏は思っていた。

 自分のことは自分で、自分たちで出来るように。

 駐輪場に設置された機械に番号を打ち込んで解錠し、立夏は自転車を引き出した。

 もう夕方だ。

 早く帰ろう。

 俊臣は起きただろうか。

 たくさんの買い物客が笑い合う中を縫うようにして、立夏は自転車を押してショッピングモールを出た。

 家に続く道は交差点を右にまっすぐだ。道が狭く人が多いので、交差点を渡ってから自転車に乗るようにしていた。信号は赤で、立夏は立ち止まった。

「あの」

 ふいに後ろから声が掛かった。

「え?」

 立夏は振り返った。

 知らない人だった。

 女の人が立っている。自分よりも年上に見えた。

 夕暮れの空の橙色が、白い頬を照らしている。

「ちょっといい?」

 にこりと彼女は笑った。立夏は怪訝に眉を顰めた。

「…なんですか?」

 彼女は半歩前に出た。

「ね、あなた──」

「──あーッ!」

 ぎょっと立夏は辺りを見回した。

 交差点の向こうから、誰かが声を上げた。

 その場にいた誰もがそちらを振り返った。

 どこかで見覚えのある高校生らしき男の子が、立夏に大きく手を振っている。

 立夏は目を見開いた。

「…奏汰そうた?」


***


『ただいま』

 しんとした家の奥に向かって俊臣は声を掛けた。

 返事はない。それはそうだ。いつも一番先に帰宅するのは俊臣だった。

 これは夢だ。

 俊臣がまだ、小学生だったころの夢。

 立夏と頼博と母親と、四人で同居を始めたころの…

 そのときの家の中の、静寂を覚えている。

 生活の匂いまで。

『…りつ?』

 中学生になり部活動を始めた立夏の帰りは遅かった。俊臣より早く帰ってくることは滅多になかったけれども、それでも俊臣は声を掛けて家に上がった。

 誰もまだ帰ってない。

 俊臣は手に握り締めた手紙を開いた。

 ああまただ。

 目を落としたそこには、立夏への感情を殴り書きした文面が便箋三枚にびっしりと書き連ねられていた。

『……』

 俊臣はそれをぐしゃっと丸めて二階に上がった。自分の部屋に入り別の紙でそれを包んで、ゴミ箱の奥に押し込んで隠した。

 誰がやっているのか大体見当は付いていた。

 だから…

『ただいまーあ』

 階下から立夏の声がした。

『俊臣、あれ?』

 とんとん、と階段を上ってくる足音がして、部屋のドアが開いた。

『よかった、いた』

 ただいま、とふわりと立夏が笑った。


***


 それにしても、と立夏は自転車を押しながら、隣を見た。

「奏汰もこっちいるなんて知らなかったなあ」

「うん、去年のはじめにこっちに来たんだよ」

「高校は?」

「西台。あそこオンライン授業推奨校だから、嫌になったらすぐ引き籠れるんだよね」

「ああ…そっか、それいいな」

「でしょ」

 立夏の言葉に頷いて、奏汰──本庄奏汰が屈託なく笑った。彼は俊臣の小学校からの友人だ。俊臣が五年生のとき、同居を始めるにあたって校区ギリギリの場所に引っ越したのだが、彼はふたつ隣の町の新しい家にもよく遊びに来ていた。立夏を自分の兄のように慕うのは、ひとりっ子の気質だ。

 中学は本庄の父親の転勤のため別々になったが、高校に上がるときには戻って来て立夏と俊臣の通う高校を受けた。しかし入学後間もなく、本庄は担任教師と合わず、話し合いを経ても折り合いがつかなかったため、今在籍している高校に移ったのだという。

 本庄が話すのを聞きながら、立夏は内心で苦笑していた。

 どこかで聞いたような話だ。

 …あいつ。

「無理して我慢してもつまんないから、我慢するのをやめたんだ」

「うん」

「今はお祖母ちゃんの家にいるんだよ。りっちゃん、今度遊びに来てよ」

「うん、行くよ」

 本庄の祖母には昔一度だけ会った記憶がある。とても優しい人だった。

 立夏には祖父母がいないから、本庄の祖母と話をしたときひどくくすぐったい思いをした覚えがある。

「塩谷と暮らすのどう? 新しいとこ、マンションなんでしょ」

 興味津々で訊いてくる本庄に立夏は笑顔を向けた。

「よく知ってんね。そう、マンションなんだよ。2LDKで…ちょっと古いけど中は新しくてさ。俊臣が話した?」

「そう。りっちゃんと住むって」

「へえ」

 それはいつぐらいの話なのか。

 少し訊いてみたい気もしたが、立夏は訊かずにおいた。

「あ──あそこ、あのちょっと見えてるマンション」

 道の先、建物と建物の間に見えているクリーム色のマンションを立夏は指差した。歩いて行くとマンションの一方の側面に掠れた虹の絵描かれていて、それが結構な目印になっている。

 本庄がくすっと笑った。

「なにあれ、あんなの今どき見ないよ」

 言っちゃ悪いけどちょっとダサい、と続けられて立夏も笑った。

「あーやっぱり? はは、おれもそう思うけどさ」

「なんであんなとこに描いちゃったんだろ…」

 だよな、と立夏は頷いた。

「でも結構、見慣れたらかわいいよ?」

 笑いながらそう言うと、本庄はほんの少し目を見開いてから、眩しそうに目を細めた。

 どうしてそんな顔をするのだろうと立夏は不思議に思った。

 本庄は昔から時々、そんなふうに立夏を見ていることがある。

 並んだ窓を見上げながら、立夏は言った。

「俊臣起きてるかな。あいつここんところ帰り遅くって、なんか昨日帰ってから具合も悪いみたいでさ…」

「りっちゃん」

 マンションの入り口で本庄は足を止めた。

 立夏が振り返ると、白い封筒が目の前に差し出された。

「これ、塩谷に渡しといてくれる?」

「え──なに?」

 驚いて立夏は封筒と本庄を交互に見た。

「バイト代」

「バイト?」

「あいつの帰りが遅かったの、バイトしてたからだよ」

「えっ」

 知らなかった。

 ていうか聞いてない。

「それ、その報酬ね」

 じゃあ、と本庄は言った。

「僕ここで帰るから」

「え、なんで? 上がってかねえの?」

「うん」

 ここまで来ておいて?

 もうそこなんだけど。

 そのつもりだった立夏は、手渡された封筒をまじまじと見つめた。バイトの報酬。

 なんでバイト?

「じゃあまたねー」

「あっ、ちょっ、奏汰…!」

「渡せば分かるからー」

 本庄は立夏に手を振った。今来た道を引き返していく後ろ姿が見えくなるまで、立夏はそこに立って見送った。


***


 生温かい風が吹いている。

 ああまただ。

 また──これは夢の続きだ。

 突き付けた手紙を、彼女は両手に握りしめていた。絞り上げるような仕草が、まるで雑巾のようだとどうでもいいことを俊臣は思った。

『これ、全部そうだよね』

『……』

『答えてよ』

 引き結んだ唇がかすかに震えている。

 どうして分かったのかと問う視線が俊臣に注がれている。

『答えてよ、先生』

『っ、私は──』

 言い訳を滔々と述べ始めた彼女に俊臣は心底うんざりした。

 知らない。

 分からない。

 そんなつもりじゃなかった。

 そんな子供のような言い訳が通じるほど、世の中はそう甘くはない。

 しかも彼女は教師だ。

 俊臣の担任の教師だった。

 まだ若い、新任の先生。

 新学期の家庭訪問で家を訪れた際、その日たまたま帰りが早かった立夏と玄関先で出くわしたのだ。

『あ、先生?』

 見送りに出ていた英里が頷くと、立夏はにこりと頭を下げた。

『俊臣がお世話になってます、義兄です』

 体面上はそう言ったほうが話が早いので、立夏は事あるごとにそう言っていた。

『お兄さん…? 塩谷くんの』

『はい。二個上なんです』

 それじゃ、と家の奥に行ってしまった立夏の姿を、教師は見惚れたように見つめていた。

 それからすぐだ。

 立夏に手紙が届くようになったのは。

『手紙は俺が全部捨てた。立夏は一度も目にしてないよ』

『──』

『残念だったね、先生』

 わざとうっすらと笑みを浮かべると、教師は引き攣ったような声を上げた。喉の奥で唸るような、変な声だった。

『証拠ならちゃんとあるよ。これ』

 俊臣は後ろ手に隠していた透明なケースを見せた。それはカメラなどに入っているSDカードだった。

 ケースの中のカードを、かたかたと俊臣は振って見せた。

『家にあったビデオカメラ、こっそり仕掛けてたんだ。先生が昨日手紙をうちのポストに入れたところ、ちゃんと撮れてるよ』

 彼女の顔は蒼白になった。

『立夏にはもう近づくな』

『なんで、そこまで──』

 ざあ、と風が強く吹き込んできた。

 これは夢だ。

 夢なのに、あのときの気持ちが今でもありありと蘇ってくる。

 誰にも立夏を渡したくない。

 守りたい。

 ただそればかりで。

『…今度立夏に近づいたら』

 ふたりだけの教室。

 壁に貼られた絵や時間割が風に煽られて揺れる。

 耳元でなびく髪が頬を打った。

『──』

 低く口調を変えて告げると、教師は弾かれたように教室を飛び出していった。勢いのあまりか、手に持っていた手紙を落として。

 手紙は風に舞い、誰もいない廊下に飛んでいく。

 何気なく目を向けると、知っている顔がそこにあった。

『おまえいつも、こんなことしてるの?』

 そうだよ、と俊臣は答えた。

 そうだよ。

 だって。

 こんなふうにしてしか立夏を守れない。

 まだ子供で、どうやっても大人には勝てないから。

 だからこんなことしか出来ない。

『好きだから』

『歪んでるね』

 そう言って肩を竦める同級生の大人びた仕草に、俊臣はふっと笑った。

『…そうかも』

 きっとこんなことは間違っている。

 いつか立夏が自分がしたことを知って軽蔑したとしても、それでも。

 それでも傍にいて欲しい。

 腕を拡げて抱き締めてくれた立夏を抱き返したあの日よりもずっと前から、俊臣には立夏だけだった。

『馬鹿だね』

 誰かがそっと、額に手を置いている。触れそうで触れない。髪を掻きわける指先が驚くほど優しかった。

 重い瞼を開くと、立夏が見下ろしていた。



「あ、起きた」

 眩しそうに目を細めている俊臣を見下ろして、立夏はほっと息を吐いた。

「帰って来たらこんなとこで寝てるからさあ、心配したんだけど」

 リビングのソファに横になったまま、俊臣はぱちぱちと瞬きを繰り返していた。状況がよく飲み込めないのか、ぼんやりとした表情はひどくあどけなかった。

「熱ちょっとあるな」

 さっき額に手を当てたらいつもよりずっと熱かった。体温計がないのはこういうとき不便だ。今度買っておかないと。

 起き上がろうとする俊臣の肩を苦笑しながら立夏は押した。

「寝てろよ。飯出来たから、こっち持って来る」

「…今、何時…?」

「十九時。作ってても全然起きねえんだもん」

 十九時、と驚いたように俊臣が呟いた。そんなに眠っていたのかという顔だ。

「よっぽど疲れてたんだろ、慣れないことするから」

「え…」

 コンロにかけてある鍋の火を止めて、蓋を取りながら立夏は笑った。

「さっきさあ、奏汰が来たんだよ」

「え──」

 がばっと俊臣がブランケットをはねのけて起き上がった。

「ここに?」

「うん。いや、上がんなかったけど」

 会った経緯を簡単に話して聞かせる。

「奏汰元気そうでよかったよ」

 鍋の中のものをお椀に注ぎ、前に英里が買って来てくれていたトレイに載せた。

「ほらこれ、バイトの報酬だって」

「……」

 差し出すと、俊臣は渋い顔をして封筒を受け取った。テーブルにトレイを置いてラグの上に座ると、立夏は訊いた。

「なあ、なんでバイト?」

 俊臣は小遣いはもらっていると聞いていた。立夏もそうだが俊臣は立夏以上に物を欲しがらない。そんな俊臣が勉強する時間を削ってまでバイトをすることが、立夏は不思議だった。

「なんか欲しいもんでもあんの? おれバイト代貯めてるからさ…」

 いるならやるけど、と続けると、ソファに座った俊臣は首を振った。

「そうじゃないよ」

「? 違うの?」

「うん」

 頷いた俊臣を見上げて立夏は首を傾げた。

「じゃあ、なんで…」

「今度の水曜日、空いてる?」

「空いてる…けど」

 水曜日?

 ちょうどバイトは休みだ。

 でもなんでその日?

「夜出掛けよう、立夏」

「え? 夜?」

「そう、夜」

「? いいけど。次の日休みだし…」

 ちょうど翌日は今年から祝日になっている。

 そこまで言って立夏は、あ、と声を上げた。

 そうか…

「一緒にまた行きたいと思って」

 そう言って俊臣は封筒に目を落とし、中のものを取り出した。

 チケットが二枚。

 青い色の入場券。

 一緒に行った水族館のナイトチケット。

 夜の水族館。

 また行きたいと言ったそのひと言を覚えていたんだろうか。

「馬鹿だな」

 一九歳の誕生日。

 去年はその次の日に離れる決意をした。あれから一年が過ぎて、またこうしてふたりでいる。

「じゃあ、ほら、食べて元気になれよ」

 ふいに込み上げてきた涙を隠すように、立夏はトレイの上のお椀を手に取り、スプーンで掬った。少し冷めてしまったそれを俊臣の口元に運ぶ。

「口開けろ」

 この前のお礼だと言うと俊臣は素直に唇を開いた。その開いた隙間にスプーンを差し込んで、柔らかな卵粥を食べさせる。

「おまえこれ好きだもんな」

 最近では滅多に体調を崩さない俊臣だったが、それでも子供のころは立夏が風邪をこじらせたそのあとに、後を追うようにして同じように風邪を引いていた。その度に立夏は俊臣の為に卵粥を作って看病したのだ。

『大丈夫? 俊臣』

 りつ、と熱で潤んだ目で俊臣は立夏を見上げていた。

『…いかないで』

『行かないよ、どこにも』

『ここにいて…』

『いるよ』

 布団の中からはみ出た小さな手が、ぎゅっ、と立夏の服を掴んでいた。

『大丈夫だから、ね? もうちょっと寝ようよ』

 ふたりきりの家の中。

 ふたりきりの世界だった。

 気がつけば好きになっていた。

 どんどんどんどん好きになって、もう自分では引き返せないところまで来たと思った。

 どうしたらいいのか分からなかった。

 どんなに俊臣が好きか、言葉では表せない。

 ずっと、ずっと好きだったのだ。

 手に入るなんて思ってなかった。

 こんな毎日が。

 あのころと変わらない日々が続くなんて思いもしなかったのだ。

 こんな…

 こんなふうに、ふたりでいられるなんて。

「…りつ?」

「え?」

 顎をそっと指先で撫でられて気がついた。

 いつの間にか零れ落ちた涙が頬を伝っていた。

 俊臣が立夏の目を覗き込み、頬を両手で包みこんだ。

 熱のせいで熱い手のひらに、胸がいっぱいになる。

 また涙が落ちた。

「どうしたの?」

「何でもないよ」

 心配そうに眉を顰めた俊臣に立夏は笑った。

「おまえが好きだって思っただけ」

 そう言ってスプーンで掬った粥を、俊臣の唇に押し当てた。





















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