戦後の武蔵

 大戦末期、突如侵攻してきたソ連軍の侵攻に対し、日本側は混乱したが直ちに反撃に出ることを決定。

 全戦力を向けさせた。

 しかし、全力で沖縄方面への攻撃を行っている最中であり、本土に残っていた艦の多くは損傷修復中だった。

 武蔵も例外ではなく、修理中を引っ張り出され、最小限の修復、航行可能な状況にしたのみで稚内沖へ出撃した。

 北海道へ上陸したソ連船団へ向け突撃。

 護衛であった戦艦アルハンゲリスク――英国がソ連に貸与したロイヤル・ソブリンを撃破したのち船団へ突入。

 上陸船団を壊滅させ沿岸部の敵艦を撃滅した。

 だが、ソ連海軍の残存駆逐艦が放った一発の魚雷により損傷。

 通常ならば平気だったが、応急修理箇所が再び開き、浸水。

 沈没を防ぐ為、稚内の沿岸に座礁させた。

 そして、弾が尽きるまで陸上のソ連軍を砲撃し続ける。

 だが、最後の段階で自爆用の爆薬さえ用意できなくなり、猪口艦長以下、ソ連軍に降伏し武蔵は鹵獲された。

 当初は、解体予定だったが、海軍を求めるスターリンが、米戦艦を多数葬った武蔵を好み、あるいは大海軍には戦艦が必要だと確信して復旧するように命令。

 応急修理と排水ののち、離礁させ大和型戦艦五番艦――のちに空母へ改造――建造を行っていた北山重工、大連ドックにて修理。

 大和型の建造が行われていたこともあり、北山重工の対応は完璧で武蔵は完全に修理された。

 同時に小火器をソ連軍規格へ変更し、一三〇ミリ連装砲や14.5ミリ機関砲を多数装備している。

 修理と改装が終わった上で武蔵は北日本海軍に編入された。

 流石に、東側に入るのに日本海軍の名前、武蔵であることは憚られるので、共産主義風の<解放>に改名されている。

 しかし、この名称を使うのは、東側海軍の上層部と報道だけで武蔵旧乗組員や南日本を中心に、武蔵と呼んでいる。

 特に、戦果の大半を武蔵の時代にあげていたこともあり、世界の海軍でも武蔵と呼ぶことが定着している。


 編入時点では、ソビエツキー・ソユーズが建造中の事もあり、東側最強戦艦として君臨。

 東アジア巡航などを行い、東側の偉大さを見せつけるための素材として頻繁に年に三分の二ほど海外を訪問しており、残された写真も多い。

 しかし、頻繁に海外へ行くため、整備や訓練――特に実弾射撃は砲身や砲弾の確保が困難――新造のソビエツキー・ソユーズ級用に割かれたため行われる事が殆どなく、船体の稼働に問題を生じていた。

 またソ連海軍のドクトリンも確立して居らず、運用方針が二転三転している上、必要な装備が開発されていなくて、旧海軍の装備が多く残っている。

 そのため、実戦使用に疑問があると西側では見られていた。


 だが、そのような懸念は稚内沖海戦におけるテキサスの撃沈で払拭された。

 猪口の作戦勝ちの見方もあったが、武蔵の能力を十全に発揮させた価値ある勝利とされている。


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https://kakuyomu.jp/works/16816927862106283813/episodes/16817330667343702454

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