黒い真珠
湖嶋いてら
黒い真珠
青い空がどこまでも続いている。太陽はいつまでも降り注いでいる。椰子の木はどこまでも連なっている。ぽっかりとインド洋に浮かぶこの島には春夏秋冬なんてない。あるのは乾季と雨季くらいで、かと言って乾季から雨季になって何が変わるという訳でもない。天がしょっちゅうバケツをひっくり返したところで太陽はまた空を割って降り注ぐのだし、椰子の木々は変わらず連なり葉を耀かせている。気温だって一年通して概ね28度の辺りを浮遊している。
だからかーー。
この南国の人々は生き急がない。歩いても歩いても景色が変わらないんじゃ、歩くのをやめたってなんら問題はないだろとでもいうように。ただそこに漂って居るだけの方がむしろ効率的じゃないかとでもいうように。
この島の時間がゆったりと流れ、一日36時間くらいあるのではないかと錯覚してしまうのは、どこまでも続く代わり映えのない空気に、島ごと漂っているだけだからなのかもしれない。
時計の針は、朝昼晩と目まぐるしく回り続けるが、彼らにとって朝昼晩はひと続きで、なんならそのノリで次の朝までのっぺりと繋がっている。だから『ティダ・アパアパ』なんて言葉が島じゅうに充満しているのだ。ティダ・アパアパーーどうってことない、心配ないさ。そういえば沖縄にも似たような言い回しがあった。『なんくるないさー』だったか。
財布とミネラルウォーター、ペン、ノート。そのくらいしか入っていないリュックを背負って、当てもなく路地裏を進む。顔に感じる空気は独特な匂いをしている。
湿度高く生温いこの地で確実に発酵しゆく食べ物と、その歩みを留めようとする香辛料と、島全体を包む潮風と。それらすべてが長年かけて構築された黄金比率で混じり合い一つになったそんな匂い。その中を漂うように歩いていると、徐々に脳細胞が酔っていくような気がしてくる。
毛の剥げた犬が寝そべっている。死んでいるのかもしれない。立ち止まって暫く見つめてみる。淡色の腹がゆっくりと上下している。起こさないように静かに歩き出す。軒先を箒で履いている人がいる。虫も埃も一気に掻き出している。艷やかなセラミックの床はひんやりとしているようだ。どこまでいってもただそれだけ。どこまでいっても、この島はこの島のままただ息をしているだけ。
延々と伸びていくのだろう土の路を眺めながら、ふと横の路地に入ってみようと思いついた。曲がり角が近づいてくる。催眠に掛かったような足取り。それでも僕の脳は誤作動を起こすことなく筋肉や関節をそれなりに動かす。控えめな弧を描き路地裏に入った先に真っ黒な粒が二つあった。惰性で動いていたような脳のシステムが瞬時にフリーズした。光を中心の一点に集めるその粒は、いつかの叔父の葬儀を思い起こさせた。涙の湿気で靄がかった薄暗い斎場の奥で、絶えず光り続けていた叔母の首元。
黒い、真珠――。
脳からの伝達が断ち切られてしまった腕や足は今度、細かな誤作動を起こしながら止まった。
少女だった。その浅黒い肌に埋め込まれた黒い真珠が、この世の光という光を集め発光していることに、彼女自身気づいてすらいないようだった。日に焼け絡まった髪の毛、元はピンク色だったのかもしれないワンピースは擦り切れ、元は幾何学模様だったのかもれしない模様は曖昧に畝っている。その裾からは、皮を巻き付けた骨が伸びていた。裸足だった。足の先は土で黒くこびり付き、甲や爪や指などが丸ごと一塊にくっついているようだった。そして何より――、華奢な肩に食い込んだ茶色い布は重たい何かをくるんで歪にたわんでいた。
先日訪れた朝市場を思い出した。店番をする女たちが同じような布を肩からぶら下げていた。覗き込むとそこには薄い巻き毛の小さな頭が入っていた。別の女の布の中には小振りな瞼に濃いまつ毛が、また別の女の布の中にはぷっくりと膨れたほっぺたが入っていた。少女の布は腹の方までぶら下がっている。僕は思わず再び彼女の顔を見た。この細く崩れかけた体にくっついてひたすらに輝き、滑らかで艷やかな二つの粒は、見れば見るほど異様だった。
彼女の黒い足がぴくりと前に出た。それに誘発されたように右手が微かに持ち上がる。そしてその手はそのまま徐々に上へと移動した。薄汚れた手の平と黒く干からびた指先が僕の前方で露わになった。日本人旅行客の青年と、赤子を抱えた物乞いの少女が向かい合う図が出来上がった。人生で初めての状況だった。日本にもホームレスはいるが、公園の中や駅の傍らで通り過ぎることはあっても、手の平を差し出されたことは無かった。同情より拒絶より、戸惑いが僕の体を駆け巡った。
「引っ込め!邪魔だ」
突然、図体のでかい白人の男たちが僕と彼女の間に流れ込んで来た。
「家に帰ってシャワー浴びろよ!きったねぇ」
手に持っていたビール瓶を彼女の足元に投げ捨てて立ち止まることなく去っていった。
僕は急にここから立ち去らなくては行けない気がして、彼女から見えないところまで逃げなくてはいけない気が強くして、足早に歩き始めた。彼女は微かな声すら上げなかった。土埃を巻き上げながら遠のく背に食い込む黒い瞳の光が痛かった。
いくつ角を曲がっただろう。俯きながらひたすら歩き続けた。もうだいぶ離れて、もうあの娘の視線の届かぬ果てまで来たというのに、まだ背中が痛かった。その痛みを紛らわせようと更に歩いて、とうとう海岸に着いた。
青い空、白い太陽、緑の椰子、潮風に混じる香辛料の匂い。それは完璧な一枚の絵画のようだった。もしかしたらそれは完璧な一枚の絵画なのかもしれなかった。
数ヶ月前、ネット検索で弾き出された画面に、この世の楽園かと一人呟き、そのままカード決済をした。まさにその画面そのものの景色を目の当たりにしている今、薄っぺらい一枚の絵画を眺めている気分だった。青と白と緑の絵の具を精巧に塗りつけた一枚の絵画。僕は浜に座り込み、波を見つめた。波と空の遠く交わるところを見つめた。なんとか楽園を見出そうとしたのだが、やはりそれはどこにも存在しないのだった。
しばらくそうしていたが、僕は諦めて立ち上がり、ハーフパンツの尻部分を払った。立ち上がるとはっきり分かった。背中の痛みは腹の方まで侵食してきていて、肝臓の裏面や胃の中の粘膜がきしきしと鳴くのが聞こえた。
あの娘はまだあそこに居るだろうか、と思った。その疑問の上に、まだあそこに居てくれているだろうか、という疑問が被さった。振り返り、海をあとにする。ビーチサンダルが乾いた砂浜にめり込む。それでも構わず前に進もうと足を振り上げる。あともう少しで浜から上がる、というところでサンダルの緒がばちんと外れた。まるで絵画が僕を足止めしているかのようだった。振り返ると空は桃色と蜜柑色に淡み始めていた。さらに甘美な楽園をこれでもかと演出しているようだった。ただの絵のくせに、と言い捨てながら、サンダルを手に取り鼻緒をぐぐっと穴に押し込んだ。
随分と滅茶苦茶に進み続けたのだと思う。どの角を曲がり、どう戻っても、彼女の居た場所には辿り着きそうになかった。リュックの中から小さなハンドブックを取り出し、折り畳みの地図を開いてみるが、現在位置が分からない僕にとって、滞在先の★マークとクタビーチの青色は何ら意味を成さなかった。
僕は地図を畳みハンドブックをリュックの中へ戻すと、思い切り走り始めた。間もなく夕焼けがこの島を呑み込むだろう。その前に。
角を曲がると路が広がる。新しい路、さっき通った路。崩れかけた塀や似たような店。どこをどう進んでもたどり着かない。
その時、男の声がした。振り向くと、彼はこっちを見ていた。何かを喋り続けている。きっと、迷ったのか坊主、とかそんなところだろう。僕は構わず前を向く。説明したところで、僕の行き先など誰も答えられないだろう。地図にも載っていない、あの路端の崩れかけた塀沿いの、彼女のいる場所なんて。
角をまた曲がると、目の前に巨大な太陽が現れた。熱が滴り落ちるほどのオレンジ色の玉に目が眩む。瞼を閉じ俯くと、思わずよろけそうになった。危ない、と思い、咄嗟に路の端に身を寄せる。左肩の骨がガツンとなにかにぶつかり、そこからずるずると下に沈んでいった。
ーーー
揺れを感じると、ぼんやりと視界が開いた。徐々に鮮明になっていく景色に、甲高い音が混じる。もう一度激しい揺れが来て、はっと起き上がった。頭の奥がずくぅんと縮んだ。目の前には、あの真っ黒な真珠が光っていた。
辺りを見回す。崩れかけた塀。左肩を押さえる。
辿り着いた。彼女はまだ居てくれた。
「あの、」
僕が声を発すると、彼女は片手を持ち上げて手の平を見せた。そしてそのままそれを僅かに丸め、すぼめた唇に寄せた。上顎を舌で弾き、クックックッと小さな音を立てている。水を飲めということかと気づく。汗でTシャツが濡れていた。脱水症状を起こしたのかもしれなかった。
同じ目線まで屈んだ彼女の提げた布の中が見えた。やはり黒い真珠がふたつ、そこにも光っていた。この赤ん坊は、最後いつミルクを飲んだのだろう。お金、お金を渡さなくてはとリュックをおろしファスナーを開ける。中からまず、ミネラルウォーターのボトルが転がり出た。少女は、あっと短く声を上げ、また手を口元に寄せ、あのジェスチャーをした。
取り敢えず水を飲み、続けて財布を取り出した。宿に帰ればもっとある。スリがいるから、日本人は狙われるからと全財産は持たずに出歩くようにしていたのだ、僕は手持ちが僅かなことを後悔した。中身を確認すると、十万ルピアが五枚しか入っていなかった。日本円に換算して五千円弱。それでもこの島で一日ぶらつくには持ちすぎているほどだった。しかしこの二人に渡すには少なすぎる。取り敢えず五枚全てを薄い手の平に押し込むと僕は立ち上がった。
「すぐに戻るから。ここにいて。もっと持ってくるから。ここにいて。ここに。わかった?」
彼女は黙ったまま僕の右手を取って持ち上げた。そして膝を少し折り、僕の指先を彼女の額に付けた。黒い光はそっと瞼に仕舞われていた。その瞼に夕日の黄金色が乗っていた。
僕は走った。ここにいて、と最後にもう一度念押しして。首を立てにも横にも振らない彼女が僕の拙い英語を理解した可能性は低かったが、それでも必死の身振り手振りを加えて何度も伝えた。もしかしたら伝わったかもしれない。安宿に戻ると、僕はロッカーの鍵をがたがたと開け、旅行資金の入っているポーチのファスナーをぐっと下げた。ファスナーは二度噛んで、それをどうにか外そうとする指の背に汗が落ちた。土産などどうでもいい。成田空港から家までの交通費だけをロッカーに押し込み、残りのルピアと両替すらしていなかった日本円も全て持ち出した。この街には、両替所がいくらでもあるので大丈夫だろう、と前を向く。部屋の鍵を締めて僕はまた走り出した。夕日が間もなく沈みそうだった。遠くに欠片だけ、名残惜しそうに滲んでいた。
全力で走ると彼女の場所まではさほど遠くはなさそうだった。走りながら、吹き出る汗に、水を飲む真似をした彼女の顔を思い出した。
やっと辿り着くと、彼女の姿はそこになかった。僕は辺りを見回し、通りの向こうまで行って戻ってみたり、角を曲がって遠くまで見渡してみたりした。やはり伝わってなかったのだろうか。どうするのが良かったのだろう。手を引いて安宿まで連れて行けばよかったのだろうか。後悔しても遅かった。
その後、闇に埋もれるまで待ってみたが、彼女は戻ってこなかった。
ーーー
夜が明けると、バリ島を発つ日になっていた。昼過ぎには、空港へ向けてこの街を出る。僕は朝早くに荷物をまとめると、リュックにミネラルウォーターと財布だけ入れて宿を出た。
塀沿いにはやはり誰も居なかった。僕は時間が許すまでそこに座っていようと思った。雑に置かれたブロックの上に腰掛けた。そして行き交う人達のサンダルを見続けていた。たまに水を飲んだ。そしてまたサンダルの流れを見ていた。
甲高い声がした。顔を上げると、斜め向かいの小屋の入り口に老婆が腰を曲げて立っていた。
上がらない腕を上げて僕を呼んでいる。不審に思いつつも、少女と赤ん坊のことをなにか知っているのではと思い近づいた。
老婆は僕があと数メートルというところで勢いよく流れ出すように喋り始めた。インドネシア語は全く分からない。僕は途切れ途切れの英語で少女のことを訊いた。一度はしかめっ面で英語に拒絶反応を示した老婆だったが、僕が彼女の立っていた塀の場所を指差し、彼女の背丈を手で示すと、何度も頷いた。老婆は、皺に沿って幾重にも黒光りしている両腕を持ち上げて、腹の前で赤子を抱くような姿勢をした。
「そう!その子!」
僕は破裂したように叫んだ。
老婆はやっぱりそうか、とでも言うように口を開け、緩やかに天を仰いだ。
老婆は喋り続け、僕は質問し続けた。数回、皺皺の手が横に振れた。それと連動して、老婆の頭も揺れた。もう当分来ないだろうということかも知れなかった。太陽が白さを増していく。僕は辺りを見回した。そして、彼女の立っていた塀沿いを見つめた。
「じゃああなたに渡します。お願いします。これはお金です。これはルピア。これは日本のお金」
あぁ、ルピア、と老婆は言った。ルピアだけは通じたようだ。
「あの子が来たら、また来たら、渡してあげて。まだ彼女は小さいから。弟は小さいから」
赤ん坊、と分かるように腹の前で両手を繋げて輪っかを作ったら、無性に悔しくなって泣けてきた。
老婆は心配そうに僕をじっと見て、僕の手を取った。手の甲と手の平と紙幣と硬貨がぐちゃぐちゃと混ざり合ってこぼれた。老婆はずっと僕の手の甲を、皮膚の固くなった親指でさすっていた。その上に僕の悔し涙が降り落ちてさらに混ざり合い、訳が分からなくなっていった。
ーーー
昼間の旅行代理店はがらんとしている。ランチ帰り、スーツから伸びる手が、カラフルなラックから一枚のチラシを掴んだ。もう15年も前の記憶が急に始まり、最後まで行き着いてしまったのは、この一枚を目にしたからだろう。青と緑と白、そして黄にピンク。『この世の楽園へ!女子旅』と今にも踊り出しそうなフォントが並んでいる。
あの街をあとにした僕は空港で、「フィスカルタックス」を支払うように言われた。2万円くらいだったと思う。フィスカル…、なんですかそれ、と訊ねたら、最近始まった出国税だと言われた。そんなこと、聞いたような気もするし、全く聞き覚えがないような気もした。それを支払えないと出国出来ないと言われ、手持ちのお金では足りず、沈黙のなか冷や汗が背を伝った。
窓口の職員は僕のパスポートを溜息混じりに開いたり閉じたりした。そして再度開いた時だった。
「コーチ?」
職員が間抜けな声を出して僕の目を見た。
「コーチ…?」
僕は繰り返した。
彼がパスポートの見開きページを指差す。見ると、僕の居住地が書かれている部分だった。
「あぁ、高知。僕の日本の家です」
「そう。そうか。末の弟が高知に居るんだ。技能実習生。漁業な」
「ええっ、そうなんですか」
「もしかしたらお前たち道ですれ違ってるかもな」
職員は僕の目から視線を外すと、手元のパスポートを見た。流れるように通常作業をして僕にそれを返した。
「弟だと思って俺が払っておくよ。ちょうどお前くらいの歳だ」
「え…」
「いいから早く行け。もう搭乗ぎりぎりだぞ」
「は…、あ、ありがとうございます…!」
そんなことがあった。手元のパンフレットの色彩が目にしみてくる。
命は、運は、縁は確かに繋がっている。あの少女とその弟と、老婆と、空港職員と、高知の外国人技能実習生と、そして僕と。
ぐるぐると血液のように巡って繋がっている。
あの子はもう三十近いだろうか。足の傷は治っただろうか。弟はもう十六位だろうか。初恋を知っただろうか。南の島はまだ絵画のふりをしているのだろうか。
パンフレットがひらりと風を切って、僕はカウンターへと歩みを進める。
黒い真珠 湖嶋いてら @iterakojima
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