文化大革命

 失脚した毛沢東に代わり、実務能力に優れる党幹部、実務派と呼ばれる新進気鋭の若手官僚が台頭。

 現実的な政策を行い始めた。

 だが、この現実的な政策、一部資本主義の導入を行った事が共産主義を絶対とする共産党の方針に反していた。

 また、独裁的な制度のため、官僚に権限が集中しており、官僚の許可を得るのに賄賂が横行し腐敗が広がり、波に乗れなかった人民に不満が募った。

 この不満を毛沢東は察知し、すぐに党幹部を批判。


「修正主義であり、資本主義の走狗と成り果てている。今の党に反抗せよ。理は我らにあり」


 造反有理、造反には理由がある、正義があるという掛け声と共に文化大革命が始まった。

 毛沢東は毛沢東語録を執筆し出版。

 自説を展開し、現指導部を痛烈に批判。

 毛沢東語録に感化された若者は紅衛兵となり、資本主義的と見なした現指導部や人々にリンチを加え始めた。

 左遷された毛沢東の側近達や幹部達も集まり、中国共産党、そして中華人民共和国の内部闘争に発展。

 暴力的な闘争が始まった。

 リンチは当たり前で時に公開処刑まで行われ、実務派とその一派に見られた人々はつるし上げにされ、追放あるいは処刑された。

 毛沢東は再び国家主席の座に戻ったが、ここで誤算が起きた。

 熱狂した紅衛兵を毛沢東自身制御できなくなった。

 今更止めようとしても、止めたところで収まらないし、その熱狂が、いや熱凶が毛沢東自身に降り注ぎかねない。


「若者達は農村で学ぶ必要がある」


 といって紅衛兵を農村へ、下放と呼ばれる政策を行い、分散させることにした。

 彼らは貧しい農村で極貧生活を送り、多くは過酷な生活に適応できず死んでいった。

 多くの悲劇が生まれたが、一度走り出した政策は止まらない。

 止めれば毛沢東のカリスマ性が無くなり、身の危険に繋がる。

 毛沢東はひたすら自分の正当性を声高に演説し決して過ちを認めなかった。

 国内外の情報を統制し流れる情報は毛沢東にとって都合の良いことしか流れなかった。

 そして、この状況は中国の外にも影響を与えた。

 中国いや毛沢東の宣伝を真に受ける若者が世界各地に発生した。

 日本も例外でなかった。

 大半は資本主義による経済的な恩恵を受けていた。

 だが千人に一人が毛沢東主義に熱狂したとしても、人口が一億人もいれば十万人も出てくる。

 特に、文化大革命が始まった65年はベトナム戦争が拡大した時期であり、資本主義の侵略行為だと毛沢東が激しく非難し、世界各地で毛沢東主義者による反戦運動が展開していた。

 その炎は日本と香港にも飛び火した。


「羽田闘争などは酷いものでした」


 十月に発生した佐藤総理東南アジア歴訪を阻止するべく羽田に集まったデモ隊と機動隊が衝突。

 警視庁は六〇〇名以上の負傷者を出した。


「その時香港警察のスレビン公安部長に警視庁は何人いるんだ、と聞かれて三万三千人です、と答えたら、そんなに負傷者を一日に出して警視庁は何日保つんだ、とね」


 デモを解散させたが大量の死者を出した特機隊が武装蜂起の上、解体され、国防軍の特別憲兵隊と公安調査庁の特殊警備隊に分割されて以降、治安は警視庁警備部が担っていた。

 もし、デモを鎮圧できなければ再び特機隊が再編され悲劇が繰り返される。

 なんとしても防ごうとした。


「だが、警察は武装の使用に奥手でね。警棒だけで止めようとするからだめだ。香港警察のように、暴動には催涙ガスを使わないとな。何度も本庁に報告しているけど、きいてくれるかどうか」


「佐々さんは外務省の人間では?」


「警察庁です。今は出向で領事を務めています」


「ああ、なるほど」


 違和感に合点がいった。

 制服が似合いそうだが自分たちとは違う。

 警察官なら辻褄が合う。


「しかし、赴任先で暴動とはひどい目に遭いましたね」


「ええ、香港暴動は酷いものでした」

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