長津湖の戦い サミュエル軍曹の受難

1950年12月1日 朝鮮半島長津湖西方


「伏せろ!」


 寒気の中を切り裂いてやってくる迫撃砲弾の音を聞いたサミュエルは部下たちを伏せさせた。

 爆発音が響く中、サミュエルは思った。

 どうしてこんな所に俺はいるんだ。

 硫黄島の地獄を生き残り、沖縄から逃げ帰った後、奇跡的に生還し帰国できた。

 海兵などもうこりごりで、すぐに除隊して平穏な余生を、軍人年金で悠々自適に過ごすはずだった。

 全てが変わったのが、極東戦争だ。

 海兵隊は戦後の軍縮と除隊で欠員が多く出ており、人員が足りず、誰彼構わず召集を掛けた。

 サミュエルもその一人で、逃げ戻った硫黄島から生きて戻った奇跡をかみしめ、戦争が終わると直ぐに除隊して、故郷に帰って家業を継ぎ、平穏に暮らしていた。

 だが、海兵隊は、国家はサミュエルを忘れていなかったし、戦争が始まると必要とした。

 極東戦争が始まった事を告げるラジオが流れた翌日、サミュエルに出頭命令が届いた。

 完全に戦争と海兵隊から逃れたつもりだったサミュエルは自分が予備役であり、召集を受ける義務がある事をその日告げられ、再び海兵隊の制服を着て、基地に出頭。

 その場で装備を与えられ、部下数名を付けられチームを組まされると極東へ向かう船に乗せられた。

 船の中で連携訓練を行わされ、日本の海岸で演習を一回行った後、再び船に乗せられ天塩海岸上陸作戦へ参加。

 召集から実戦参加まで一ヶ月程度というのは酷い物だが、それだけ海兵隊の人員が少なく補充を求められていた証左であり、長く語り継がれる事件であった。

 だが結果として北日本への奇襲となり、作戦は成功。

 非常に少ない損害で成功させた。

 だが稚内への攻撃は失敗して膠着状態となり、サミュエル達は転戦が命じられ、北朝鮮の元山に上陸。

 北上して、興南へ行きそこから満州国境へ向かって進撃を開始した。

 日本軍――正式にはまだ警察予備隊であり軍ではなかったが、諸外国からは軍隊と認識されていた――が勝手に撤退した混乱もあり、進撃が遅れた。

 半島の西側で満州軍の攻撃があり、韓国軍が壊滅したが、小規模な攻撃であり、東側で攻撃が行われることはないと上層部は判断していた。

 この頃、パットンとアメリカ本国の間で齟齬が発生しており、早期に朝鮮半島の戦線を終結させ、中国へ転戦させようという話が持ち上がる。

 サミュエルとしては、戦後の日本軍の武装解除のため、人民解放軍が武装解除しないように第一海兵師団が派遣された事もあり戦後中国にいたこともある。

 だが、その時は人民解放軍の襲撃から民間への物資輸送列車を守る事で手一杯だった。

 散々な目に遭い撤収後に退役を決めた理由の一つだった。

 そして、再び戦う事に不安を感じていた。

 不安は的中し北朝鮮を滅ぼすため、少なくとも弱体化させるために海兵師団の北上を決定した。

 現場のパットンは中国を警戒して反対したが、中国方面の戦況を気にするワシントン、息を吹き返した中国国民党のロビイストの活動もあり、朝鮮半島の戦局を打破するために動いていた。

 なにより、李承晩が武力統一を声高に訴えたため、韓国軍が進撃を続行し半島制圧を既成事実化した。

 見捨てることも出来ず米海兵師団も側面を固めるために進軍する事になってしまった。

 日本に帰っていく日本軍を臆病者と言いたかったが、結果的に彼らが賢かった。

 一一月二七日、朝鮮半島を貫く半島の東側、米海兵師団が進軍した長津湖周辺、ユダムニに駐留していた第五海兵連隊と第七海兵連隊に中国と満州国の連合義勇軍が襲い掛かった。

 大量の迫撃砲の攻撃の後、雲霞のごとき歩兵の突撃。

 更に戦車の突進によりサミュエルたちは酷い目に遭っていた。


「畜生め!」


 だがサミュエルたち古参兵の指導、太平洋戦争で日本軍に酷い目に遭った時の経験、彼らの戦友の血で書かれた戦訓で陣地を維持する事が出来た。


  

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