多富洞の戦い
その日、彼は疲れ切っていた。
数日前に発症したマラリアの高熱で苦しんでいたが、部隊の指揮を、部下に命じなければならない。
状況は最悪だ。
味方の主力部隊が後退し、敵である北朝鮮軍が自分達の退路を断とうとしている。
迅速に対処しなければならない。
だから指揮下の将兵を前に口を開いた。
「連日連夜の激闘は誠にご苦労で感謝の言葉もない。良く今まで頑張ってくれた」
お世辞ではない。
これまでの退却で何百キロと歩き、戦闘をこなしてきた。
そのため損害は多く、開戦時からの部下は殆どいない。
現有戦力の殆どは避難民と学生を補充したため、十分な訓練を受けていない。
それでも戦い抜いてくれたことに感謝しかなかった。
しかし、厳しい事を言わなければならない。
「だがここで我々が負ければ、我々は祖国を失うことになるのだ」
誇張でも何でもない。
事実であり、将兵達も分かっていた。
あまりにも重大な事実に誰もが口を閉ざし、見て見ぬ振りをしていた。
それを彼は改めて口にすることで、将兵の奮起を促した。
「我々の守る多富洞を失えば大邱が持てず、大邱を失えば釜山の失陥は目に見えている。そうなればもう我が民族の行くべき所はない」
韓国軍は釜山に押し込められ、北朝鮮軍によって海に追い込まれようとしており、風前の灯火といえた。
北朝鮮は同じ民族だが、共産主義にかぶれており民族の歴史を否定している。
そんな連中に韓半島を任せては韓国が築いてきた歴史が葬られてしまう。
「だから今、祖国の存亡が多富洞の成否に掛かっているのだ。我々にはもう退がる所はないのだ」
実際、彼自身にも下がるところなど無い。
降伏したとしても、貧しさから入隊した満州国軍中尉としての軍歴、間島特設隊の一員として白頭山周辺での抗日ゲリラ掃討、今の北朝鮮上層部となった連中を追い立てていた自分を北朝鮮軍が許すはずがない。
最悪処刑、良くても強制収容所送りだ。
妄想ではない。
太平洋戦争終結後、郷里に近い平壌の人民政治委員会にいた時、金日成らパルチザン派が権力を掌握するにつれて身の危険を感じ、故郷を捨て家族と共に南下したくらいだ。
まだ38度線の警備が南北共に整っておらず、簡単に韓国に入れたがほぼ身一つだった。
教員としての免許も持っていたが、教職の求人はなかった。
仕方なく軍事英語学校――米軍顧問の通訳育成のため韓国政府が創設し学校で、後に韓国軍士官学校となる学校へ入り、韓国政府国防警備隊へ入隊。中尉に任官した。
そこでかつての軍歴と、自身の特質、他に適任者がいないことから直ぐに中佐に昇進し、新たな連隊の創設を命じられ、見事にこなした。
頻発するデモや反乱を鎮圧し、武勲を立てて、大佐へ昇進。
師団長に任命されて開戦を迎えた。
開戦時は、高級士官課程に在学中で部隊から離れていたが開戦と同時に部隊に復帰して指揮をとった。
ソウルの西翼で四日間の防御戦闘を行い、北朝鮮軍を何とか食い止めることに成功した。
暫くは持つと思ったが漢江の橋が爆破され、後方連絡線と退路を喪失。
陸軍本部との通信も失われる中、ここまで困難な後退の指揮を執り、部隊をここまで戦わせた。
「だから死んでもここを守らなければならないのだ」
しかし、もはや撤退できるだけの余地はない。
先も言ったとおり、ここを抜かれたら釜山まで遮るものはなく、海にたたき落とされるだけだ。
「しかも、はるばる地球の裏側から我々を助けに来てくれた米軍が、我々を信じて谷底で戦っているではないか」
完全に米軍を信じ切っているわけではない。
後退中に米軍機の誤射を受けて、更なる損害を出していた。
しかし、米軍の支援がなければ、韓国は持ちこたえる事が出来ない。
リアリストである彼は米軍の協力が必要だからこそ、自分の感情を隠して演説した。
「信頼してくれている友軍を裏切ることが韓国人にできようか」
もとよりプライドの高い韓国人だ。
これほど言われて奮起しない訳がない。
彼等は顔を上げ、重を強く握りしめた。
そして、米軍からの信頼を固くするために、彼は証を立てるために部下達に命じた。
「いまから私が先頭に立って突撃し陣地を奪回する」
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