猪口の興奮
「猪口! 何をしている」
「放送で伝えたように訓練です」
カーメネフの言葉に猪口は静かに禅僧のような声で答えた。
強い海風にもかかわらず、猪口の声は明瞭に聞き取れた。
「戦時中、間もなく戦闘が起きようとしているのに勝手な行動をするな」
「だからこそです。戦闘に備えて訓練しなければ」
「下手に外洋に出ては、敵の良い的だ」
「出撃のさいも敵の的になるでしょう。ならば今から慣れさせるため訓練させておきたいのです」
「よほどこの艦の運用に自信がないようだな」
「ええ、敵は強大ですから。常に備えなければ」
カーメネフの皮肉も猪口は真っ正面から答え、カーメネフを白けさせる。
「この事はゴルシコフ長官も知っているのか」
「いいえ」
「何故許可を取らない」
「必要ありません。この艦は北日本第一艦隊の所属であり、艦隊は私の指揮下です。長官としての権限の中に、近海での訓練は専管事項として認められていますが」
「だが、出撃を前に一言あって然るべきでは」
「そのような命令など受けておりません」
禅問答のように猪口は答える。
「いいからすぐに戻り給え」
言い争いになりそうだったが、見張りの緊迫した声が中断させた。
「南東の方角より接近する飛行編隊、いえ大編隊を確認しました!」
「訓練が入っていないぞ」
訓練中も無関係な船舶や航空機、味方は勿論、中立国所属とのすれ違いがあるため、過早目標と現実の視認物は明確に区分けしている。
この時間、編隊が飛ぶことなどカーメネフは聞いていない。
まして大編隊が飛んでいるなどあり得ない。
訓練の想定だろうと考えていた。
だが、猪口はすぐに双眼鏡を見張りが行った方向へ向ける。
「おい、猪口聞いているのか!」
カーメネフのことは猪口は無視した。
そして、双眼鏡を下げると命じた。
「訓練中止! 敵襲! 回避行動をとれ! 各艦回避自由! 全兵装の仕様を許可! 」
「何を言っているのだ!」
「アレが見えないのですか?」
猪口は自分の双眼鏡をカーメネフに手渡して指を差す。
カーメネフは差された方向を見て唖然とする。
「まさか」
それは雲霞の如き航空機の大編隊だった。
大祖国戦争を、海ではなく陸の河川だがドイツ相手に戦い抜いたカーメネフは戦っている。
航空機の脅威も知っている。
しかし、一度に現れたのは、最大でも数十機。
数百機の編隊など見たことがない。
「何かの間違いでは」
「いいえ、間違いではありません。全員が視認しています」
猪口の言うとおりカーメネフにも見える。
だが、北日本が、祖国が、あれほどの編隊を作り上げる事が出来ない事はカーメネフも知っている。
ならば出現させる事が出来るのは米国、国連軍だけだ。
航空機の恐ろしさは知っている。
とても船では振り切れない速度で迫ってくる死神そのものだ。
数機でも驚異なのに数百機。
幾ら七万トンの巨艦でも沈められて仕舞う。
カーメネフは恐怖に震えた。
対照的に猪口は冷静でいた。
「通信、大泊の在泊全艦艇および部隊に通信」
いつものように落ち着いた声で命じる。
禅修行の結果だけではなく、太平洋戦争で視線をくぐり抜けた結果、身につけた胆力と技量に裏打ちされた自信のなせる技だった。
「敵大編隊、大泊に向けて接近。これは演習にあらず。復唱はいらん、直ちに打電」
「はっ」
通信長は電話で通信室へ命じる。
残念な事に、この報告は誤報として、ソビエツカヤ・イポーンの通信室で留め置かれ、ゴルシコフに届いたのは空襲の後だった。
だが義務は果たした。
あとは自分の仕事をするだけだ。
この時、猪口は戸惑った。
いつもと違う。
何時もの平静さはなく、胸が高鳴り、興奮を抑えられない。
だから少し上ずった調子で、大声で、嬉しそうに命じた。
「機関一杯! 艦最大戦速へ! 操舵! 敵機の方へ針路をとれ!」
「何故、敵機に向かう」
「湾内では回避行動が自由にとれません。動けるように広い海面に向かいます」
「自殺行為だ」
「自由に行動できないことこそ自殺行為です」
動けない軍艦がどれだけ標的になったか、猪口は知っている。
専門は砲術だが、あの戦争のお陰で回避行動の腕は上がっている。
共に戦ったこの艦となら数百の敵機がこようとも回避出来る自信があった。
だから、敵機を正面に見据えても猪口は怖くなかった。
「さて、始めるとしようか」
最早、止められない。
いっそ興奮に身を委ねてみよう、と猪口は思った。
それこそ自然体の様に思えたからだ。
第一、この興奮は修行をした身でも抑えられない。
数年ぶりの戦闘なのだ。
しかも、かつて相手にしたアメリカもいる。
生きて虜囚の辱めを受けながら、鬱屈した数年を過ごした身としてはハレの舞台だ。
自分以外に扱える人間がいないという理由、それだけでも良かったが、この艦の主でありながら、碌に船に慣れることもない陸者が監視してくる状況など、やはり窮屈だ。
戦闘という、人間のエゴの束縛から離れた状況で存分に力を振るえる事を猪口は無意識に喜び、興奮という反応を引き起こしていた。
修行不足だ、帰ったらやり直しだと言いつつ、嬉しがっている自分を猪口は楽しんだ。
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