伊藤長官の思い

夫人へ


 此の度は光栄ある任務を与えられ、勇躍出撃、必成を期し致死奮戦、皇恩の万分の一に報いる覚悟に御座候。


此の期に臨み 顧みるとわれら二人の過去は幸福に満てるものにて、また私は武人として重大なる覚悟を為さんとする時、親愛なる御前様に後事を托して何等の憂なきは此の上もなき仕合と衷心より感謝致居候。


お前様は私の今の心境をよく御了解なるべく、私は最後まで喜んで居たと思はれなば、お前様の余生の淋しさを幾分にもやはらげる事と存候。


心から御前様の幸福を祈りつつ。


八月五日


いとしき最愛のちとせどの 整一




二人の娘へ


私は今、可愛い貴方たちの事を想って居ります。


そうして貴女達のお父さんは、お国の為に 立派な働きをしたといわれるようになりたいと考えて居ります。


もう手紙も書けないかもしれませんが、大きくなつたらお母さんの様な婦人におなりなさいというのが私の


最後の教訓です。御身大切に。  


八月五日


淑子さん


貞子さん




 伊藤がペンを置いた時、私室の扉が叩かれた。


「どうぞ」

「失礼します」


 入ってきたのは艦長の森下だった。


「出撃準備完了しました。駆逐艦が横付けし退艦予定者は降りました」


「皆降りてくれましたか?」


「はい。説得には苦労しました。皆泣いて連れて行ってくれと頼むので」


「彼らは、この後の日本に必要な人材です。簡単に失って良い人物ではありません」


 偽善だと分かっていても伊藤は言わずにはいられなかった。

 本当なら、艦隊の全ての乗員が日本に必要な人材であり、今後活躍するべき者達だ。

 いや、これまでの戦いで散っていった全ての人間が日本にとって必要だ。

 だが、失われてしまった。

 少しでも残したいと彼らには離れるよう命じた。

 大和だけではない。

 第一機動艦隊全艦でも同様の処置が取られており、多くの者が退艦している。


「少しでも生きて残ってほしいものです。既に失われた目的の為に、彼らを道連れにする事はできません。それに」

「それに?」

「なにがしか残して置きたいですから。後ろに守るものが無ければ戦い甲斐がありません」


 これまで多くの人材を戦場で失わせてきた伊藤の偽らざる思いだ。

 死に場所を求めているが、道連れにしたいとも思わない。

 だが、艦隊を動かすには一万もの将兵が必要だ。

 彼らがいなければ自分一人で沖縄に向かうことなど出来ない。

 しかし、僅か一部でも生き残って欲しくて、伊藤は退艦を命じた。

 偽善と分かっていても。

 森下も理解していた。

 しかし、伊藤ほど悲観的ではなかった。


「なに、佐久田参謀がいるのです。彼の作戦ならば、成功するでしょう」


「そうですね」


 伊藤はようやく笑い顔になった。

 次長時代、戦局が劣勢に陥る中、佐久田の立てた作戦、指導した作戦で幾度窮地を脱したか数え切れない。

 もし、佐久田がいなければ、日本はもっと酷い損害を受け、降伏いや日本は焦土と化していただろう。

 幾分か被害が軽減されたことは間違いない。

 勝利の報告を聞く度に伊藤の心は何度救われたことか。


「そうだな」


 今回も、助けてくれるような気がする。


「駆逐艦はまだ横付けしているな」

「はい、現在は、艦内から不要な物品を下ろしている最中です」

「なら、これも届けて貰えるよう手配してくれ」


 先ほどしたためたばかりの遺書を従兵に伊藤は渡した。

 下ろす荷の中に乗員達の家族への手紙、いや遺書も含まれて居るのだ。


「さて、そろそろ行こうか」


「はい」


 伊藤に森下は続いた。

 長官公室から上甲板へ出て前部艦橋の外タラップを上り、第一艦橋へ。

 既に、艦橋要員は揃っていた。

 敬礼して迎え入れると、伊藤は丁寧に答礼して長官席に座った。


「まるで中国の詩人みたいだな」


 副電測士として乗艦し当直に立っていた吉田満少尉はこの光景を決して忘れなかった。


「長官、全艦出撃準備完了しました」


 横付けしていた駆逐艦が離れ、各艦から準備完了の信号旗が上がったことを確認した有賀参謀長が報告する。


「では行きましょう」


 優しげな声で伊藤が言った直後、全身を貫くような号令で命じた。


「第一機動艦隊出撃!」

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