伊藤の激怒と佐久田の妙案
「何を言うか!」
神参謀の言葉に伊藤は激昂し立ち上がって叱りつけた。
「我らは一度たりとも臆病な行動をした覚えはない!」
身長一八九センチの長身から繰り出される怒気は、殺気にも似たもので、神は勿論、周囲は固まった。
草鹿参謀長も何も言えず、座ったままだ。
伊藤と草鹿はは兵学校で先輩後輩の間柄であり、当時分隊の伍長補だった伊藤の温和な性格は当時から変わっていない。
鉄拳制裁も伊藤は殆ど行わず、むしろ伊藤が草鹿を庇うことが多かった。
草鹿が殆ど鉄拳制裁を受けず、最初に殴ったのが今は亡き西村中将だったことからも伊藤の性格が分かるというものだ。
その伊藤が本気で怒りを向けてくるのをはじめて受けて草鹿は怯んだ。
一刀正傳無刀流宗家を継いだ剣術家でもある草鹿龍之介だが、伊藤の怒気の前には荒稽古で鍛えた精神も太刀打ち出来なかった。
神に至っては、失神寸前だ。
それでも伊藤の怒りは収まらない。
「開戦以来、私は軍令部次長として作戦に関わってきた。その報告は逐一受けている。現在、ここにいる指揮官、艦長は全て激戦を生き残り、戦い抜いた精鋭だ。決して誰も臆病者のそしりを受けるような人間ではない。私も実戦は先のマリアナが初めてだが、決して卑怯な振る舞いも臆病風に吹かれたこともない。ただ勇敢にして精強な部隊をイタズラに失い、無駄死にする事を恐れるのみだ」
ミッドウェーの敗北とソロモンでの激闘で多くの損失を出し、徐々に交代したことは伊藤にとって身を切るような思いだった。
比較的マシと言える状態で撤退出来たことが慰めだが、軍令部次長、作戦の実質上の責任者としての悔いがある。
それだけに苦闘の中で戦い抜いた部下達の存在は伊藤にとって唯一の慰めに等しい。
にも拘わらず貶されて伊藤は本気で怒った。
「無駄死させる気はありませんよ」
ただ一人、隣にいた佐久田が怖じ気づかず。
「何かあるのか」
「この突入で、この戦争を終わらせるのです。文字通り、最後の戦いにします」
「出来るのですか?」
「はい」
佐久田は珍しく前のめりになって作戦の詳細を話した。
伊藤の険しい表情も徐々に収まり、最後には笑みが浮かんだ。
「宜しい、ならば承ります」
伊藤は即座に納得し承諾した。
「特攻でないと知ってよかったですよ。英雄として特攻させようと考えていると思っていましたから。戦場で死ぬのは覚悟しています。しかし死を強要するのは違います。自分はともかく、部下達を英雄として死なせ、彼らの家族から失わせることは気が引けましたから。私もあまり言いたくありませんが、父がいなくてさみしい思いをしたもので」
のちに会議に出席した長門艦長杉野修一大佐は、このように語った。
日露戦争で広瀬少佐と共に閉塞船に乗り込み行方不明になった杉野兵曹長の長男として海軍に入っただけに、英雄の息子としての世間と現実の違いを知るだけに特攻でないと知った時は嬉しかった。
前任者が呉空襲時に敵機の襲撃を受け、防空指揮所で指揮を執っている時戦死したため急遽後任として着任したため乗艦してからの日が浅かったが、乗員への思いは強かった。
「だが、沖縄へ到達出来る見込みはあるのか?」
疑問に思った有賀参謀長が尋ねた時、丁度伝令が訪れた。
「大丈夫です。有力な味方がやって来ます」
雲一つ無い青空を美しい飛行機が飛んでいた。
キャノピーと機体に段差のない丸い流線型の機体は、台湾の新竹から出た百式司令部偵察機だ
乗員である二人は緊張していた。
敵空母を見つけるのではない。彼らは他にするべき事があった。
「機長! 前方右側に海面が見えます」
「突入する。十分大きいが揺れに注意しろ」
機長は機体を慎重に旋回させつつ降下させる。
晴れ渡りよく見えるが分厚い雲の壁が目の前に迫る。
あの中に突入したら、幾ら百式偵察機でも、いや百式だからこそ耐えられない。
高速を出すために限界まで軽量化を行った機体は脆く、乱気流の中でバラバラになって仕舞う。
十分に距離を取りつつ高度を下げて行く。
後席も忙しかった。
気圧計を見ると共に現在位置を記録し、移動方向を見定める。
そして司令部に報告する観測記録を纏めて気がついた。
「これは沖縄へむかうぞ」
最大級の台風が沖縄に向かっている。
作戦発動に必要な重要情報を司令部へ打電する。
その情報は各所を通じて佐久田に知らされ、第一機動艦隊出撃の根拠となった。
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