伊藤の思い
「ちょっ長官っ!」
どうしてここに長官がいるのか分からず臼淵大尉は一瞬混乱する。
だが、周りを見て気がつく。
広い室内に長いテーブル、床には赤絨毯。
長官公室――艦隊司令部が会議などを行うために作られた部屋だ。しかも扉を隔てて長官私室、伊藤長官の居室にも繋がっている。
分隊長とはいえ一介の大尉が理由無く入ることなど許されない。子供達も同様だ。
「分隊総員! 長官に敬礼っ!」
慌てて臼淵大尉は伊藤長官に敬礼し、分隊にも敬礼を命じた。
号令を受けた子供達もその場で姿勢を正し一斉に乱れることなく全員が動きを合わせて伊藤に敬礼する。
それを見た伊藤は一瞬驚くが、すぐに顔を引き締めるとゆっくり敬礼し答礼する。
伊藤が敬礼を止め直すと、子供達も一斉に敬礼を解き、伊藤はようやく笑みを戻した。
「見事な敬礼だ。気持ちがこもっていて動きもよい。受ける私も気持ちが良い」
まるで慈父のような迎え方に子供達は驚いたが、緊張が解け、褒められたことをうれしがる。
一八九センチの大男であり威圧感もあるが、どこか優しげな雰囲気があり子供達はすぐに気を許した。
何処か気安い雰囲気が子供達の間に流れ、伊藤と対等のような思いを抱き始める。
だが伊藤は気にせず、子供達の動きを見て褒め続ける。
「先ほどの行動も良かった。命じる前に後ろの者を入れるため、先に入った者が率先して部屋の奥の方へ入っていき良かった」
子供達が公室に入ったのはたまたま長官公室にいた伊藤が、降りてくる子供達を誘導したからだ。
お陰で、分隊がバラバラにならずに済んだことに臼淵大尉は安堵する。
「元の居住区画で他の分隊が不安になっているだろう。さあ、戻りなさい」
「はっ! 失礼します! 第三一分隊、第一班より元の居住区画へ戻れ!」
上手く長官が切り上げてくれたお陰で公室を出る切っ掛けが出来た。
臼淵大尉は子供達に命じて配置先に戻るように命じる。
乗艦してすぐに艦内を案内しており、子供達は自分たちの居住区までなら自力で行ける。
第一班から迷うことなく、自分たちの区画へ向かっていった。
「お騒がせしました」
最後の一人が出て行った後、臼淵は伊藤に頭を下げて謝る。
「構わないよ。彼らを怪我一つ無く疎開させるのが我々の任務だ。ここに入れるくらいなら構わないよ」
子供達を慈しむように伊藤は言う。
「それに君がしっかり指導したおかげで誰一人怪我もしていない。余程よく訓練しているのだな。よくやった」
「ありがとうございます!」
海軍に入って数年、大尉に昇進したとはいえ、艦隊司令長官など雲の上の人だ。
目の前で会話し、褒められるなど臼淵大尉にとっては思いがけない嬉しい事だった。
「しかし、子供達を公室に入れて宜しかったのですか?」
「構わないよ。会議も行われていないし」
「ですが、本来はよくありません」
「ああ、あってはならないことだ」
伊藤の顔に初めて陰りが見えた。
開戦前から伊藤は軍令部次長を務めた。
駐米経験があり、アメリカの国力を知っており日本が敵う相手ではないことはわかりきっていた。
だが既に開戦は決定しており、伊藤に開戦を回避出来るような権限もなく、軍人として命令に従い、開戦を迎えた。
最初は奮闘したが、米軍の国力は凄まじく後退に次ぐ後退。
軍令の実務責任者として下がっていく日本軍を断腸の思いで指揮した。
ついにはマリアナが失陥し、責任を取らされるように次長を解任されてしまった。
マリアナ奪回戦も失敗し、遂に米軍が沖縄に迫ってきている。
このような事態を次長として招いて仕舞ったことを悔いていた。
本来、大和に乗るはずのない、いや故郷から少年少女が離れなくてはならない事態を招いて仕舞ったと言われているようで伊藤の表情は昏く自責の念で一杯だった。
だが、受け止めなければならないと伊藤は心で自分に言い聞かせた。
「本当に公室へ入室してしまい申し訳ありません」
伊藤が黙り込んだのを子供達が公室内に入った事を起こっていると勘違いし臼淵大尉は再度謝った。
「いや、そうじゃない。この子達が故郷を離れずに済めば良かったと思っただけだ」
「……はい」
同じ思いを抱いていた臼淵も同意した。
二人とも米軍の侵攻がなければ良いと思っていた。だが、それは無理だ。
直後、通信兵が入ってきて、呉方面で空襲が行われた、という報告が入った事を知らせに来た。
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