さよならを忘れて
錦魚葉椿
第1話
「ぼく退職届、提出しました」
蛍光灯の明るいチェーン店の居酒屋。チューハイの種類を指定するような軽さで、3年目の大卒、楢原が言った。
3年目だぞ。4月だからまだ2年ジャストしか働いていない。
しかも、今日は新卒配属の歓迎会じゃないか。
楢原は備え付けのタブレットから目も話さず、誰の意見も聞かずに大根とじゃこのサラダと揚げ出し豆腐とだし巻き卵を注文する。
自分が食べたいものを注文したらタブレットを次に回す。
「出勤今月末までです。あとは有給消化しながら、次の会社行きます」
ああ、次が決まってんのね。
いきなり通夜のような空気になった俺たちを新卒が気を使っておろおろしている。
退職の理由を聞かれた楢原は特に転職ハイという様子もなく、淡々と答えた。
「ここの会社、福利厚生が充実しているのが魅力ですけどね。男性育休も取れそうだし。でも2年で一通り仕事ができるようになって、こっからルーティンじゃないですか。僕自身のこれ以上の成長がみこめないとおもうんですよ」
怒りとかそういう感情はなく、ただ、その帰属意識のなさが羨ましいと思った。
残される俺たちに配慮する共感力のなさも。
「だからもういいなって」
楢原はさらっとそう言ってのけた。
楢原は期待の新人だった。
会社は全国展開していて、ここの営業所は内勤込みで7名体制。
説明は一度で理解するし、ルート営業の多いこの事業所ではすでに戦力だった。
佐久間所長、15年目の俺、7年目の佐寄、3年目の楢原、内勤パートの大村さん。
そしてあと二人。
電卓妖怪西田と脳筋岡山。
二人とも勤続四十年越え。
電卓妖怪は何をしているのか本当によくわからない。大村さんの作った表計算ソフトの結果を上司面して電卓で検算する仕事らしき何かをしている。
昭和から愛用しているらしい茶色の電卓が秒針のように音を刻む。
電話が鳴っても取らない。
耐久試験のように叩かれている電卓には同情するが、それほどまでに壊れない電卓を作った某電算機メーカーを尊敬すると同時に憎む気持ちすら抱く。
脳筋は佐寄にライバル意識を抱いている64歳。
客先にはクレームがあるたびに佐寄のせいのように伝えて余計に話を拗らせたり、要求仕様を正確に伝えなかったり、こまめな嫌がらせを怠らない。
彼の60歳定年を見越して配属された佐寄に一切引継ぎをしない。もちろん教育もしない。佐寄が独り立ちしない間は岡山さんの雇用は安泰だから、全力で仕事がいかないよう妨害する。
そのやり方のおかげで今も「岡山さんに」という指名もあるし、打たれ強くて無神経なところが新規飛込開拓営業で看過できない数字を取ってきたりする。
人員に余裕のある関東の支店で最初の指導をしてもらった俺から見たら、佐寄は七年目としては問題があると思うところがあるが、それの根本的な問題は岡山さんと岡山さんを放置している所長にあると思う。
佐久間所長は実務から離れた無能寄りの管理職。
岡山さんの業務を整理、管理して、佐寄を育てていかないといけないのに、岡山さんの機嫌を取って野放し。
確かに今の佐寄に岡山さんほどの数字をとってこれないかもしれない。
だが、それは管理を放棄した佐久間所長と岡山さんのたゆまぬ嫌がらせの結果でもあった。
電卓妖怪は朝六時半ごろから出勤する。
もちろん何をしているのかよくわからない。
始業時間が始まり、電話が鳴り始める頃に小休憩に入る。
ドリップコーヒーを優雅に落としながら、パリパリ音を立てて新聞をめくる。
電話を取ることは自分の仕事だと思っていない節がある。
自分の手が電話で塞がっているときになる電話の音、パリパリとめくられる新しい新聞のページ。コーヒーの匂い。
ストレスのあまり吐き気を覚える。
売上高と顧客数から営業の数が決められる。
そこから算出された適正な営業人数が所長別で5人と算出されている。
岡山さんと楢原でおおよそ一人半、楢原が一。
妖怪が電卓をたたき続けている間、俺は二人半相当の仕事量をかぶってきた。
65歳以降の更新がない通知を受けて、ただ一人本人だけが驚愕していた。
電卓妖怪は真っ赤に顔を赤くしてどうして更新されないのかその理由を求め、次に真っ青になって自分の存在価値についてしつこく所長に食い下がっていた。
二時間、彼は自分の業績について熱く語り続けた。
佐久間所長は何度も俺に助け船を求める視線を送ってきたが、俺は何も言う気力がなくて目をそらし、そのしつこさにただぐったりしていた。
「私のやってきた管理的業務の価値は、若い君達にはまだわからないのかもしれないけれど、若いのだから仕方ないのかもしれないね。私の後進も育ってきたので、まあ、この辺で勇退することを考えてもいいのかもしれませんね」
奴は「後進」といった。
まさか俺の事じゃなかろうな。
永遠の命はない。永遠に会社にいることはできない。
どうしてそうまで会社に毎日来る生活に執着するのか。よほど家が居づらいのか。
生きたまま地縛霊になったような生活の何がやりがいなのか。彼の会社員という身分への執着は「帰属意識」とは違う、洞ができた巨木に寄生する何かのようだ。
これだけ長い間ただ飯を食っておいて、お世話になりましたといって卒業できない精神構造が不思議でならない。
「君は漢詩なんかしらないだろうが、サヨナラだけが人生だという言葉もあるんだよ」
そんな謎の捨て台詞を吐いて、彼の47年に及ぶ会社員生活はようやく終了を迎えた。
遺された手垢で汚れた茶色い電卓は燃えないゴミに叩き込み、業務マニュアルという紙はシュレッダーするのも手間だったので、段ボールに詰め込んで溶解処理にした。
もうすこし、もうすこし。
首を絞められ続けるような閉塞感の中。
俺と佐寄は耐え続けている。
「岡山さんは本社の方針で延長になった」
言いにくそうに所長が言った。
経済社会の活力を維持するため、働く意欲がある高年齢者がその能力を十分に発揮できるよう、高年齢者が活躍できる職場がなんだかんだで70歳まで雇用の対象になったらしい。
横の佐寄は小刻みに震えている。
「佐寄君、これからもよろしくな」
岡山さんが勝ち誇った顔で笑った。
『これ以上、もう一日も無駄にしたくない。
自分もどうして5年前に辞めておかなかったかと後悔している』
遺書のような走り書きを残して、次の日から佐寄は出勤しなかった。
全然仕事を回してもらえないのに、「働く意欲がない」と人事考課されて、最低の評価をつけれても、岡山さんが定年退職すると思って、佐寄は我慢してきた。
「本社の方針」で延長になって、異動希望も5年通らないなか、あいつがどんなに我慢してきたか知っている。
どうして俺たちはこんなに踏みにじられないといけないのか。
岡山さんは至極上機嫌で元気だ。
先週末はフルマラソンを走ったそうだ。
結局、佐寄は一切引継ぎせずに退職した。
本社はずいぶん怒っていた。
佐寄を7年放置しておいて。
指導不行き届きで所長が責任を取る形で役職定年になり、新しい所長が来た。
所長だった佐久間さんは営業に戻り、一旦、楢原の業務範囲を引き取ったが、想定以上に仕事ができないことがわかり、半分は俺が引き取った。
サスペンションの悪い社有車の窓を全開にして助手席の佐久間さんは風を浴びている。元所長を次の担当者として紹介に回る。
まさか一人で行けないほど仕事ができないと思っていなかった。
「お前、西田さん嫌いだったよなあ」
やっと電卓妖怪が雇止めになって、人員が増えるかと思ったら、またも働かない所長がきて、佐久間さんが残ったから予算的に頭数が埋まってしまった。
新卒はまだ戦力にはならない。俺の仕事量は当面現状のままとなるのだろう。
「あれでも残れるっていうのが俺たちの安心感だったんだよ。別にお前が給料払う訳じゃないだろう。なんでそんなにイライラするのかね」
ふと、このハンドルを反対に切って、そのガードレールを突き破ったら会社に行かなくてもいい、と脳裏をよぎった。
自分の心の底にこびりついている愛社精神をはがしおとしてしまいたい。
それでも多分明日も俺は出勤するのだろう。
頭が痛い。考えがまとまらない。
事務所向かいの公園のベンチに西田さんが座ってこっちを見ている。
それが幻覚なのかどうかよくわからなくなってきた。
さよならを忘れて 錦魚葉椿 @BEL13542
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