第七十二話

 三回目のコールがなる頃、「はい、海鮮ゆきちゃんです」と若い女性の声が聞こえ、俺の緊張は高まった。確認したいと思う気持ちと、もしも五稀が差出人だったらと考えると、想像以上に恐ろしい気持ちに支配され、言葉が出てこない。


 「もしもし? あれ、いたずらかなぁ」という言葉が耳の中に入ってきて、俺は急いで、「あの、」と言葉を発することができた。


「あの、インマルで見たんですけど」


「インマル? あ、雪さんのインマルですかぁ? 」


 「あ、はい。それで」それでと言った時には、電話に出ているその女性は受話器の向こうで、その雪さんと呼ばれる人を大きな声で呼んでいるのが聞こえてきた。その何とも平和な声を聞いて、緊張していた分、力が抜けてくる。


――なんか、緊張して電話かけて馬鹿みたいなのか、俺?


 でも事態は何も変わっていない。あの猫伯爵のマークを書いた手紙の差出人が五稀じゃないことを確認するまでは気が気ではなかった。受話器の向こうで「はいはーい」と先ほどとは違う女性の声が聞こえ、「もしもし?」と、その雪さんと言う女性が電話に出た。


「はいはい、インマル見てご注文ですか?」


「あ、いや、そうじゃなくって」と、つい口篭ってしまう。


「え? 何? よく聞こえないんですけど?」


「あの、インマルで見た、猫の手紙について聞きたくて……」と続きを話し出そうとしたら、雪さんという人は急ぐように俺に話をかぶせてきた。


「あぁ、きなこちゃんの手紙ねぇ。あの手紙ねぇ、今ちょっと訳があってお話できないのよねぇ。ごめんなさいねぇ」


 なんだか勿体ぶっているような感じがするのは気のせいだろうか。でも食い下がれない。もしかしてあの猫伯爵のマークを書いたのが五稀であれば、大変なことになってしまう。俺はさっきよりもきつい口調で問いかけた。


「わけって何ですか? あの、僕の妹が実は家出してて、それであの手紙の差出人が妹じゃないかって心配になってかけてるんです」


 一瞬、変な間があって、受話器の向こうで何か話をしているようだった。話せないわけを相談でもしているのだろうかと思って耳をすましていると、電話に戻ってきたのか、「ごめんなさいねぇ、途中で。ちょっと今日のお弁当の個数確認してたもんで」と言われ、思わずスマホを落としそうになった。


――なんなんだこのおばさん?


「それで、その手紙のことねぇ、話せないのよ。ちょっと機密情報になっちゃうから」と、おばさんがいうけれど、さっきの俺の話をきっと聞いていなかったと思い、もう一度同じことを繰り返した。


「あの、実は俺の妹が家出してて、それでインマルで見た写真に、妹が好きなアニメのマークが書いてあったんですよ」


 電話の向こうのおばさんは、「え!? それは大変! それで?」と急に興味が湧いたような口調に変わり、俺に話の続きを促してくれた。


「それで、差出人のところに線が引いてあったから、その、差出人の名前が妹じゃないかどうかだけでも教えて欲しいんです」


 「ちょっとまってね」とおばさんは急いで言って、電話の向こうでスマホを探しているような会話が聞こえ始めた。誰かを呼んで自分のスマホを持ってきてもらうような会話だと思った。程なくして、おばさんが電話口に戻ってきた。


「あのねぇ、写真でしょ? あら、やだ私。それっていつの写真だったかしら?」


「多分、最近のです。ガーデニングと一緒に出てました。あと、その猫と」と記憶の中を探りながら伝える。インマルを投稿した日にちまでは覚えていなかった。


「そうだわ。消しちゃったのよ。警察に言われて。あら、やだ、警察ってところ内緒にしてね。内緒ってことになってるんだから」


「大丈夫です。僕、誰にも言いません。それで、元の写真は残ってますよね?それ、差出人は誰ってなってるんですか?」


「ちょっとまってね、今探してみるから。えっとね、ええっと、って、あら、その写真あるんだけど、赤い線を引いてそのまま上書き保存しちゃたみたい。どうしようかしら、そうだ、ちょっとまっててくれる? そうね、あと十分後くらいに電話してくれる? 妹ちゃんだったらと思うと心配だものね、すぐにさっちゃんに元の写真もらって確認するわ」


 そう言ってこちらの都合も聞かずにそのおばさんは電話を切った。


――なんなんだ? このおばさん。こういうノリの人なのか?


 そうは思ったけれど、悪い人ではないと思った。妹が家出をしてと言ったら、急いで探してくれようとしている。そのキナコ色の猫の飼い主にきっとすぐ聞いてくれるつもりなのだと思った。あと十分待てば、五稀が書いたものかどうかが分かるはずだ。


 「違っててくれよ」そう呟いて、場所を移動することにした。警察署の軒下でそんな話をしていて誰かに聞かれてはまずい。春日井先生に迷惑をかけることになるかもしれないとも思った。先程の電話口でおばさんも内緒だと言っていたからだ。


――どこかって、バス停くらいしかないか。


 どちらにせよ、バスに乗り移動しなくてはいけない。実家に戻るにしても、その「海鮮ゆきちゃん」に行くことになるにしても。無駄な時間は極力避けたかった。湿った雪はぐちゃりぐちゃりと靴に纏わり付きながら寒さを指先に伝えてくる。こんな寒い雪の日に、五稀は一体どこにいるのだろうか。もしも暖房のない場所に監禁でもされていたら凍死してしまうのではないか。そんなことはないと思っているけれど、でも、可能性はゼロじゃないことが頭の中にはいつもあった。はやく十分が立って欲しい。まだ残り五分は待たねばならなかった。


――猫が持ってきた紙に、被害者の指紋って気持ち悪いよな、その飼い主さん。


 さっきの春日井先生の話していた指紋とは、誰の指紋だったのだろうか。被害者は三人出ているはずだ。九月の被害者、十月の被害者、十一月の被害者、どの被害者の指紋だったのだろうか。


――十二月の被害者?


 そんな報道はまだ出ていないはずだ。それならもしかしてこれから被害者が出るのだろうか。


「やめろ。そんな想像」


 それがもしも五稀だったらと思うと恐ろしい。スマホの時間を見ると、十分待っての十分まで残り一分になっていた。


――もういいか。


 スマホの履歴の一番上に出ている数字をタップすると、待っていてくれたかのようにワンコールで先程のおばさんが電話に出た。


「はい、海鮮ゆきちゃんです」


「もしもし、僕、さ」さっきのという前に、「はいはいさっきのお兄ちゃんね、えっと」とおばさんは話し始めた。


「あのね、今見たらね、小さい字で書いてあるんだけどね、多分、いっちゃんって書いてあると思うのよねぇ。最近の若い子がよく使ってるほそーいペンだから見にくいんだけどねぇ。でも、そうね、いっちゃん、だわこれは」


「いっちゃん……ですか?」


「そうそう、いっちゃんって書いてあると思うの。どう? 妹ちゃんじゃないでしょ?」


「いや、あの。あ、それって、それって! 現物はどこにあるんですか!?」


「現物ねぇ。全部警察が持っていっちゃったのよぉ」


「警察が……」


「写真ならあるけれどねぇ。名前のところ見たら筆跡でわかるとかあるならいいけども」


 「筆跡で……」と言っている自分の体はもう自分の体ではないようだった。


――「いっちゃん」って、五稀じゃないよな? なあ、 違うよな。五稀……


 「もしもし?」とおばさんの声がスマホから聞こえてくる。でもその先の言葉が見つからない。もしかして五稀だったらどうしようばかりが頭に浮かんでくる。父さんにも母さんにもこの事はまだ言わない方がいい。それなら今すぐ警察に、と思い付いたけれど、春日井先生に言われた「聞かなかったことにしろ」も思い出す。


――警察に問い合わせても、また取り合ってもらえないんじゃ意味ないし。また、俺の思い込みかもしれないけれど。でも。


 「あの、今からお店行ってもいいですか?」絞り出すように声を出し、俺はその「海鮮ゆきちゃん」に向かうことにした。その前に自宅に寄って五稀の指紋がわかるようなものだけを持ってこようと思いながら。万が一の時に必要になるかもしれない。


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