第六十五話

「ずっと起きてたの?」


 そう声が聞こえて、パソコン画面から視線をベッドへ向けた。優しい土色の柔らかい布団の中で、ぼさついた髪の毛の友香が、眠そうな顔をしてこちらを向いている。


「うん、だって、探さなきゃ。裏アカ」


「すごいね、そういうところ、弘樹だね」


 「うん」と言って、またパソコン画面に目を戻した。外はもうすっかり明るくなっていて、誰かにとっての普通の日常が動き出している音が聞こえてくる。車の音、バイクの音、ずいぶん前には子供たちが学校に通う声も聞こえた。そんな音を聞きながら、眠ることなくパソコンで五稀のアカウントを探していた。


 「それで? そんな感じの見つかったの?」と、布団に潜りながら言葉をかけてくる友香に、「わからない」とだけ答えて、八万近いアカウントからピックアップして、メモとして保存した画面を眺めている。


――このどっかに五稀はいるんだろうか……。


 Tubuyakkiの中で見つけた、五稀が好きだと言っていたアニメの公式アカウントのフォロワー数は約八万人。その中から、鍵のマークをつけたものはスルーして、「家出」というキーワードを持っていそうな、それらしきアカウントを探しているうちに、いろいろなことが見えてきた。


 顔の見えないネットの社会の中で、知り合いと楽しく交流しているような人、ただ好きなものを紹介しているだけの人、自分の好きなアイドルグループなどのアカウントを見ているだけの人に、自分の意見をどんどん発信しているような人。毒を吐く人と、それに群がるような人々。如何わしいエロ写真を投稿し、家出少女を装うようなものもあった。五稀だったらどんな事を呟いているのだろうか、どんなアカウントを見て、なんの情報を得ているのだろうか。そんな事を思いながら、ネット上に溢れる誰かが呟く心の波を、夜明け前から今の今まで泳いでいた。


 時刻は九時半。いくつかのアカウントの投稿やコメント欄を調べながら、メモをクリックし、今、目の前に出したのが、最も五稀に近いような気がした。サイトに投稿した日にちが、五稀が家出をする前の日、十二月三日の金曜日だったからだ。


「裏垢やみ猫……」


 そのアカウントの投稿している内容を改めて読んで、胸が詰まった。


〈 助けてもう限界! 今すぐ家出したいJKです。誰か私を拾ってください! #神待ち #家出女子 #泊めてくれる人探してます #体の関係は無しで 〉


 という投稿を最後にして、更新はされてないようだったが、その前に投稿している内容は、いかにも生々しい家族に対する愚痴のようなものだった。


〈 学校の奴らもマジでうざい。引っ越す前の家に戻りたい。親の勝手とか、最悪すぎて嫌になる 〉


〈 お父さんがビッチなやつと再婚。サイテー。下の部屋から物音が聞こえるとマジキモい。今すぐどっかに行って欲しい 〉


〈 勝手に家に入り込んできたクソムカツクメスネコが一生懸命話しかけてきて草 〉


〈 良い人ぶるとかマジうざい。はやくキエロ! 〉


〈 本当やだ、マジで死にたい。はやくこの世界から消え去りたい。どこにも居場所がなくて寂しい 〉


 アカウントの写真はない。フォローしているのは五稀が好きだと言っていた小説原作のアニメ「猫伯爵は今日もご機嫌ななめ」の公式アカウントと、その他にも、同じようなテイストの公式アカウントの類だけだった。


「これかも……」


 「えっ?」と声をあげた友香がベットからスルリと抜け出して、俺の隣に座ってくる。泣いていたのがまだわかるような目蓋をしている顔が、愛しく思えた。二人の心の距離は確実に、あの夏の日のように近づいていると思った。


「わかんないけど、多分これかもしれない」


 そう言ってパソコン画面を友香に見せた。その画面を覗き込んで、友香が言った。


「妹ちゃんって、腐女子なの?」


「え? 腐女子?」


「腐女子、わかる?」と言って俺の顔を覗き込む友香に、「いいや」と言って、唇をつい重ねてしまう。


「もう、今それじゃない!」という友香の顔は嬉しそうだった。でも確かに今はそこじゃない。もう一度、「腐女子って何?」と聞くと、友香は私も詳しくはないから説明が上手にできるか分からないけれど、と前置きをしながらこう答えた。


「簡単に言うと、ビーエル。うんと、男性同士の恋愛を扱った小説や漫画とかが好きな女子のこと。多分。だって、フォロってるアカウント、そっち系ばっかぽくない?」


「確かに。五稀はそう言うのが好きだと思う」


 「弘樹君、絶対内緒にしてよ」と言って、前にそんな話をしてくれたのを思い出す。当時付き合っていた彼氏と別れて、「もうリアルで誰かとは付き合いたくなくなった」と言っていた、その時に、今、目の前に出ている猫耳マスクをつけたイケメンのアニメにハマっているとも言っていた。それがきっかけで新しく学校で友達ができたとも。


「そうか、その友達があのインマルに写っていた二人だったんだ」


「ん? インマル?」


「そう。そうか、それであんなコメントが」


 「なんの話?」と聞いてくる友香に五稀のインマルを見せて、説明をした。その猫耳マスクをつけたキャラが出てくるビーエルアニメが好きな友達と、仲が良かったこと。俺と一緒に写った写真を見て、彼氏と誤解するようなコメントが来ていたこと。それと、別のところで、「血の繋がらない兄と一緒に暮らすなんてエロい」と書かれていた事。


「マジで、それはかわいそう。勝手な誤解でそんなの書かれてたって、もし知ったら、心が病みそうだよね」


「やっぱりそう思うか?」


「うん、ちょっとやだな。そういうの。でも、泊まりに行く友達とは仲良かったんでしょ? 前住んでた町に友達はいるけど、今、同じ学校に仲がいい友達がいないって、結構可哀想だったかもね。女子だし」


「女子だし?」


「女子って、そういうなんて言うのかな、誰と誰が付き合ってるとか、もうやってるとか、そういう話好きなんだよね。結構。その血の繋がらないお兄ちゃんと一緒に住んでるとかも、きっと美味しいネタになってたんじゃないかなぁ。そう思うと、なんだかね、居心地が悪い感じがしなくもない。あと、女子って結構平気でハブるから」


「ハブる?」


「仲間外れとか、無視するとか、そういう事。RINKブロックとか、既読無視とかね」


「女子、めんどいね」


「男子だってたまにそういう奴いると思うけど。弘樹は連絡手段としてしかスマホ使わないし、そういうの興味がないからあんまり感じた事ないかもね」


「友香は、あるの?」


「そりゃ、それなりに、あるよ」


「そっか」


 「そだよ」と言って、洗面所へと席を立つ友香の後ろ姿を見ながら、やっぱり俺は、五稀の事を全く考えていない兄だったと思った。考えていないというより、大学生になってからは特に、五稀に興味がなかったのかもしれない。もう何度も思っていた事だけれど、もしも今見ているこのアカウント、「裏垢やみ猫」が五稀のものならば、そこに書かれている生の言葉が突き刺さってくる。痛々しい心の傷を呟いている投稿は、インマルの最後の投稿をした頃から増えていた。もしかしたら、学校の友人関係が悪化した事で、家族の中の不平不満もより浮き彫りになってしまったのかもしれない。学校にも、家にも居場所がなくなってしまったのだろうか。呟いている内容が、現在に近くなればなるほど、心の痛みが増しているような気がした。


 「それでー?」と、洗面所から声が聞こえると同時に、顔をタオルで拭きながら友香が戻ってきた。それで、とは、今日この後どうするかということだと理解する。俺は、パソコンの画面に映るその五稀かもしれないアカウントを見つめながら、どうするべきかを考えていた。


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