第六十四話

 「友達に誘われた飲み会で、そんなつもりで行ったんじゃ」と胸の中で泣きながら友香が言うけれど、まだ濡れている髪の毛を撫でながら、「うん」とだけ呟いて、その身体を抱きしめている。

 

 「そんなんじゃ、弘樹にも会えないと思って」とまた、くぐもった声が胸の中で聞こえ胸が苦しくなる。無理やりされたのだろうか。それとも気持ちがそっちに向いてしまったのだろうか、と思い、それはないなと打ち消した。きっと、意思とは反して何かが起こったに違いない。


――なにかって、決まってるよな。


 今まで感じたことがないような怒りにも似た気持ちが湧いてくる。その感情は嫉妬、ではないはずだ。大事なものを壊されてしまったような、自分の一部を切り取られてしまったような、その相手を許せないと思うも、掘り返してしまうことは友香にとって良くないことだと分かってしまう自分がいる。行き場のない感情。


 「ごめん」とまた小さく声が聞こえて、もっと強く友香の身体を抱きしめた。あの夏の夜よりも、もっと強く、その全てが欲しいと思う自分がいる。それは、父さんが生きていると分かったあの日から、執拗に追いかけて見つけ出し、なんとしても父さんを手に入れたいと思っていた、あの時の気持ちにも似ていた。


――友香が、欲しい。


 そう思いながらも、自分からは動くことができないでいる。それこそ、友香の心に寄り添うべきだと、頭の中で声がする。欲しがる気持ちは、良くない方向へ向かう事もあると、自分を戒め続けていた。薄暗い部屋の中で、囚人のような灰色のスウェットを着た二人が抱き合いながら、それぞれの罪を今、償おうとしているようだと思った。このまま二人、この重たい灰色を脱ぎ捨てて、また新しい色に染まっていくことはできるのだろうか。


「もう一度最初から、やり直したい」


 思わず声が漏れる。その音は耳から脳へと伝わり、そこから生まれた指令は、友香の涙と吐息で温められた胸の中へと届けられていくのがわかる。


「もう一度、最初から」


 もう一度声に出した。それは友香に言っているのか、五稀や、父さん、母さんに言っているのか。そのどれもをもう一度最初からやり直してしまいたい。


――過去は変えることができないんだって。でも、未来は今から作り出せるって、そう思って、ここにきたんじゃなかったのかよ。


 考えてばかりで動けない俺の胸の中で、友香が何かを呟いたような気がした。


 抱きしめているその腕の力を少しずつ緩めると、赤みを帯びた友香の顔が、水面から浮かび上がるように目の前に現れて、小さく、「弘樹に抱いて欲しい」と囁いた。


 俺はゆっくりとその声のするほうへ唇を寄せて、薄暗い部屋の中で、友香の重たい囚人服を脱がせたのだった。



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