第六十三話
掛け布団を俺に渡して、「そこで先に寝てていいから」と言い残し、友香は風呂場へと向かっていった。そこ、というのは桜色のカーペットが引いてある床のことだ。
友香が「明日一緒に保護団体をまわろう」と言ってくれたことは心強かった。でも、そこで見つからなければどこにいるのだろうかと、薄暗い部屋の床に寝っ転がった俺の心には、不安な気持ちが広がり続けている。
――ネットで探すのは無理。でもって、東京の街中で探すなんて言うのは同じくらい、不可能か……。
「不可能」と口に出してみて、出口の見えない洞窟にでも放り込まれた気がした。そんな不可能を可能にできる方法はないだろうか。父さんの時はネットで見つけることができた。でもそれは、名前や出身大学、志望していた会社など多少なり情報があったからだ。でも今回の五稀については情報が少なすぎる。裏アカというもの自体が、自分を見つけ出せないようにしているのだから。でも、何かないか、何か情報の糸口はないのだろうか。
――あれ? なんか頭の中で引っかかる。なんだったっけ、裏アカでもう少し何か聞いていたような……? あれは、どこで聞いたんだった? 今日行った場所だと、ここ以外では?
「焼き鳥屋さんだ……」
そうだ、確かに焼き鳥屋さんで裏アカの話をしていたはずだと思い出した。あの時、女の店員さんが言っていたのはなんだったか。脳内の記憶を少しずつ探りながら見直していく。大将に裏アカの話をしていた時のことだったと、その辺りの記憶を丁寧にめくっていく。
――裏アカは基本的にリアルで繋がってる人には教えなくって、だから酷い愚痴を書いてもいいと言うのもあって結構みんな愚痴ってたりしますよね。あ、あと、好きなアニメとかそういうののアカウントをフォロって見てるだけで使う場合もあるしぃ?――
「好きなアニメって、確か」と思い出し、急いで自分のノートパソコンを広げた。友香が風呂場だからWiFiが繋げないけれど、それはスマホで繋げばいい。
――えっと、確か猫伯爵だったっけ……
友香と同じようにTubuyakkiを立ち上げて、ログインをする。その画面上に出てきた検索マークをクリックして、検索ワードに「#猫伯爵」と打ち込んだ。
――うわ、すごい出てくる。でも、もしかしたら?
画面を上から順番に見ていく。ファンだと思われる人が書いたイラストや、グッズの写真、原作本や、ポスターなどなどが投稿されていた。その中に、「猫伯爵」公式ページを見つけた。フォロワー数は八万人となっている。
「まじで?」
そう言いながら、そのフォロワーという文字をクリックすると、鍵マークがついたアカウントや、自己紹介が書いてあるアカウントがずらっと並んでいた。いつまでスクロールしても終わらなさそうなその画面を見つめながら、もしここに五稀がいたとしたらなんてアカウント名だろうかと考えた。もしも五稀のアカウントにも鍵がついていたら、見つけることはできないだろう。でも、そうでなければ、この八万人の中から探し出せるかもしれない。
「よし」と声に出したところで、友香がお風呂場から出てくるのが見えた。タオルで髪の毛をわしわしっと拭きながら歩いてくる姿は、見慣れている友香の姿だと思った。あんまり女っ気のない、稽古が終わった後の手拭いで顔を拭いているような、そんな記憶の中の友香。そう思って見ていたら、目があった。
「まだ寝てなかったの?」
「あのさ、裏アカ探そうと思って」
「は? 絶対無理だって」
「や、思い出したんだけど、ちょっとこれ見てよ」
パソコン画面を少しずらし、見やすいように友香に向けて、さっき検索した「猫伯爵の公式Tubuyakki」を見せた。
「マジで言ってる? 八万人の中から探すの? しかもここにいないかもしれないよ?」
「でも、ゼロじゃない」
「鍵かけてるかもじゃん?」
「でもかけてないかもだよな?」
「うーん、弘樹だね。もうそこはしょうがないね。やりたいならやるしか選択肢はないもんねぇ」
そう言って隣に座った友香の香りは、きっと俺と同じボディソープだけど、もっと甘く柔らかい香りのような気がした。その香りにつられて友香の方をゆっくりと見ると、友香も俺の方を向いていた。なんだろうか、この胸が苦しいようなむず痒いような感覚は。今はそれどころじゃないけれど、湧き上がる気持ちが意思とは反してどんどん溢れてくる。
「あの……さ?」
「うん?」
「近くない?」
「うん、そだね」
そだねと動いた唇に顔が吸い寄せられていく。俺が近づいているのか、それとも向こうから近づいているのか、その感覚は身体じゃないところに意識があるのか、脳ではないどこかの指令で身体が動いていくようだった。久しく感じたことのない感情の波が二人を飲み込んでいるのがわかる。柔らかい感触が唇に触れて、押し込めていた胸の痛みはさらに大きなうねりとなり、俺をさらに飲み込んでゆく。理性的な状態でそこにいれなくなり、思わず声が漏れた。
「ごめん」
「私も、ごめん」
――何がごめんだ。そうじゃないだろ?
頭の中で声がする。今聞かなかったら、この先もない。もう以前とは違う。突然の「別れよう」を有耶無耶にして、心の痛みに蓋をした自分を知っているのだから。もう、それはやめようと心に決めたはずだ。妹に対しても、友香に対しても。だったら今、聞くしかない。俺は友香を見つめて、そっと小さな声で問いかけた。
「あのさ、なんで別れようって言ったの?」
「それ、今、聞くの?」と俺の目をみつめ、友香も小さな声で返してくる。
「俺の、話せる時が来るまで、待ってるって、それが最後のメールだった」
「でもその後、何にも言ってこなかった」
「ごめん」
「私もごめん」
「なんで?」
一瞬間があって、
「記憶の上書きをしてくれるって、約束できるなら教える」と、友香は言った。
そう言った友香の声は少し涙が混じっていて、その湿り気のある声を聞いた瞬間に、思わず友香を抱きしめていた。何があったかは知らないが、友香が別れを選んだのは、きっと話したくないような、嫌なことが原因だったはずだと思った。じゃなかったら、さっきまでの友香が急に涙声になんかなるはずがない。メールの中にあった、「弘樹は悪くない」って、そういうことだったのかと理解できた。もっと早く会いに来てあげていれば良かったのかもしれない。でも、その時は、俺には会いたくない気持ちも、あったのかもしれない。
「もう教えてくれなくて、いいから」と呟いて、俺は友香を抱きしめた。胸の辺りが熱いのは、俺の心が熱いのか、それとも友香の涙が熱いのか。その熱に今はただ身を委ねてもいいと思っていた。
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