第五十七話

 けんちん汁の大きなお椀を両手で持ち、口に運ぶ。カツオと醤油の香りに野菜の旨味が溶け出した、滋味深い味わいだった。懐かしい味。でも母さんのけんちん汁のように、野菜が煮崩れているわけではなく、人参も里芋も大根も大きさと反比例して柔らかく、その形を留めていた。


「美味しい」


 つい口から感想が漏れる。


「美味しいかい? そりゃよかった。今日は寒いもんねぇ。外はもう降ってた?」


 カウンターの向こうで焼き鳥にタレをつけながら大将が聞いてきた。


「あ、みぞれでした」


「まだみぞれか。今日はなんか大雪が降るかもって天気予報でやってたから、こりゃお客さん少ないかなって思ってたんだけど、まだみぞれなら、少しは客足伸びるかな。今日の一番乗りは兄ちゃんだけどね。ははは」


 少し黄ばんだ歯を見せて、大将が豪快に笑うのを見て、心が少し和んだ。外は寒く冷たい海の底のようだったけれど、暖かな灯りの灯る「居酒屋 鳥よし」の中では、自分が存在していてもいいと言ってもらえているような、受け入れられているような、そんな安心感を感じた。


「はいよっ」


 カウンターの焼き台の向こうから大将が、香ばしくタレを付けて焼かれた焼き鳥が、二本並んで乗っている深緑色の四角い皿を、こちらに手渡してくる。


「え? あの、一本って……」


「癖で二本焼いちまったから、食べてみてよ。こんな寒い日にみぞれに濡れてやって来てくれたからさ。おまけおまけ!」


「あ、ありがとうございます」


 そういうと大将は他の用事があるのか、カウンターの奥へと消えていった。手に取った深緑の皿を少しずらして左に置く。焦げ目が程よくついた焼き鳥は強烈な食欲を刺激してきた。思わず一本取って口に運ぶ。カリッと音を立てて肉汁を溢れさせてくる焼き鳥の旨味が、舌の味覚細胞を刺激した。甘だれは醤油だけではなく、信州味噌でも使っているかのような濃厚さが、加わっている。そういえば、こんな店でちゃんと焼いてもらった焼き鳥は食べたことがなかった。焼き鳥といえば、コンビニか、スーパーか、それくらいの記憶しかない。


――美味しい。すごく、すごく美味しい。


 口の中に広がる地鶏の旨みやタレの旨みが、口の中にある唾液腺全てを呼び起こし、唾液が溢れ出てくるのがわかった。ゴクリとそれを飲み込み、またもうもうひと口焼き鳥にかぶりつく。今、自分の脳内では完全に焼き鳥のイメージが変化し、このいま食べている本物の味わいを、消して忘れまいと記録しているような気がした。


――起きた事実は変わらない。でも、その事実をどう捉えるかは塗り替えられる。コンビニの焼き鳥くらいしか食べたことのない俺の焼き鳥のイメージが、今こうやって変わっているのと同じだ。


 そうであって欲しいという願いと共に、いつまでも口の中で味わっていたかった焼き鳥を飲み下した。


――大将に聞かなくちゃいけない。そして五稀たどり着いて、関係を修復して、本当に幸せな家族にならなけいけない。幸せの天秤は、家族になれて良かったの方に傾かなきゃいけないんだ。


 温かい梅おにぎりを食べ、けんちん汁を味わい、焼き鳥を名残惜しく食べ終わった俺は、「ごちそうさまでした」と暇を持て余しているような若い女性店員に声をかけた。大将の姿は焼き台のところには無い。自宅の場所を聞き、大将の娘に会いに行かなくてはいけない。その女性店員に大将を呼んでもらおうかなと思っていると、奥から声が聞こえて来た。どうやら大将が電話で誰かと話しているようだった。思わず勿体ぶってカウンターで身支度を整えるフリをし、その声に耳を澄ます。


「で、まだ五稀ちゃんは家に帰ってないって? うん、そうか、うんうん」


――五稀ちゃん?


 思わずもう一度カウンター席に座り直し、急いで女性店員に、「もういっぱいだけホット烏龍をください」と声をかけた。そんな時間ももどかしい。全神経を集中して、カウンターの奥から聞こえてくる大将の声に耳を澄ます。恰幅のいい大将の声は思ってる以上に聞き取りやすかった。


「それで、美樹はやっぱり知らないんだろ? うん、おお、そうだよな。そりゃ五稀ちゃんのお母さんもそうなるわな。心配だろうそれは。だって、旦那さんもう新しい奥さんいるんだろ?」


 背筋が凍りついた。五稀のお母さんと言っていたその人は、多分前の奥さんのことだ。新しい奥さんと言うのは、父さんが再婚した俺の母親の話をしているのだと、直感でわかった。


「そりゃそんなことはないと思うけど、うん、まぁ同じ娘を持つ親としては心配だよな。あれじゃねぇのか、ほら、うちの姉ちゃんとこの公美ちゃんみたいに、東京へ一人でバスに乗って行って、どっかの保護団体に助けてもらったとか。うん、その話もしたって? うん、それで? 美樹はその話を五稀ちゃんにしたことがあるって言ってんのか?」


 「保護団体」と聞こえて、朝から何度か見たインターネットのNPO団体のことを思い出した。週刊誌の記事に載っていた弁護士事務所の話もだ。


「わかった。もう今日は雪になるし、こっちには来ないで、お前も五稀ちゃんのお母さんの助けになってやれよ。大丈夫、まだ店には若い客が一人しか来てないって。それよりも美樹に言っておけ! 軽々しく従兄弟の恥ずかしい話を人にするなって」


 そこで電話は終わったようだった。新しく運ばれて来たホット烏龍を手に取り、ゆっくり飲むフリをして大将が戻ってくるのを待った。何か話が聞けるかもしれない。それであればと、女性定員に声をかけ、追加で焼き鳥盛り合わせを注文した。


「大将、焼き鳥盛り合わせ入りましたー」


 女性店員が声をかけると、厨房の奥から大将がはいはいと言いながら戻って来て、焼き台の前に置いてあるネタケースから、何本か手にとって、焼き始めた。


――今の話をもっと聞きたい。どうしたら聞き出せる? 考えろ。


 そう思っていると、大将が焼き台で焼き鳥を焼きながら俺に話しかけて来た。


「美味しかったでしょう? うちの焼き鳥。秘伝のタレでね、焼いてるんですよ」


「はい、あの、ものすごく美味しくって。俺、あ、僕、コンビニとかの焼き鳥しか食べたことないから、初めてちゃんとした焼き鳥食べました」


「そんなの食って焼き鳥食った気になってたら、人生損するね。これこそが焼き鳥ってもんだい。盛り合わせのつくねも自慢のツクネだから、楽しみにしててよ」


 そう言いながら焼き鳥を焼く大将に、どうやって切り出せばいいのか、そう思案しながらホット烏龍に口をつけ、焼き鳥が焼き上がるのを待っていた。店内に置いてあるテレビでは、夕方のニュースがやっている。あの猟奇的殺人事件について未だ進展がないのようなことを女性キャスターが話しているのが聞こえた。それでは続いてのニュースです、とも。そんなニュースをカウンターから見上げて見ていたら、暇を持て余している若い女性店員が大将に話をふった。


「美樹ちゃんのお友達、結局家出だったんですかぁ?」


「おいおい、盗み聞きかよ。聞こえてたのか?」


 盗み聞きというフレーズは俺にも刺さった。


「大将、声、無茶苦茶でかいですよ。聞きたくなくても聞こえて来ますもん」


「ははは。確かに俺は声がでっかいかもな。あ、もしかして兄ちゃんにも聞こえてた?」


 笑顔でこっちを向く大将に、俺は無意識に言葉を返していた。


「あ、ちょっとだけ。それは心配ですよね」


「そうなんだよ」と言いながら、手で串を回し、焼き台に焼かれている焼き鳥盛り合わせを見ながら大将が続ける。


「なんかね、うちの娘の小さい時からの友達がね、うちに泊まりに来るって親に嘘ついて、家出しちゃったぽいんですよね」


「へぇ」などと言いながらも、その続きが知りたい。


「まぁ、その子のとこもいろいろ複雑みたいでねぇ。なんか親が離婚して、それでお父さんに引き取られたんだけど、そのお父さんが再婚して血の繋がらない家族が増えたみたいでね」


 「血の繋がらない家族が増えた」という部分を聞いて、体が強張った。それは俺のことだ。それは母さんのことだ。五稀はそんな話を友達にしていたのかと、当然だろうと思いながらも、心が沈んでいく。やはりそれが家出の原因なのか。しかし、血が繋がらないと言っていたということは、俺とは血が繋がっていると言うことはまだ知らないのかもしれない。そうも思った。


――おい、俺、しっかりしろよ、聞きたいことは他にもあるだろ?


「その、保護団体ってなんですか?」


 できるだけ普通に聞こえるように聞いてみた。先程の電話で大将が言っていた、一人でバスに乗って東京へ行ったということと、家出少女を保護する団体についてもっと知りたい。大将はその問いかけにあっさりと言葉を返してきた。


「いやね、あんまり自分の身内の恥を言いたくないってのがあるけど、兄ちゃんまだ若いし、ちょこっと話しちゃうとね、うちの姉ちゃんの娘が家出したことあるんですよ」


「へぇ」と頷く。


「で、東京まで夜行バスに乗って一人で行ってね、なんか、ネットで知り合った人のとこに行ったらしいんだよね。でもこんな田舎から東京にいきなり行っても、右も左もわかんなかったらしくって、結局繁華街でうろうろしているところを保護団体の人に声かけられて、保護されたって言うね、まぁ恥ずかしい話ですわ」


 「ほいよっ」と言って、焼き鳥の盛り合わせが乗った皿がやって来た。すぐに手を出してそれを取り、話の続きを促す。


「そんな団体あるんですね。僕知りませんでした」


「らしいねぇ、俺も全然知らなかったけど、ほら、さっきテレビでやってた殺人事件あるでしょ? あんなんに巻き込まれなくって、本当良かったなって。あの事件の報道があってから家族の中ではそう話してるんですけどね。なのに、家出って、心配だよねぇ。親は」


 全くもって胸がつまる。本当にそんな事件に巻き込まれていると想像もしたくはない。


――けれど……、可能性はゼロじゃない。


「なんかね、女性ばかりの団体で、そうやって繁華街みまわって声かけてるらしいですよ。全く今の若い子は、すぐにネットで、出会い系? なんて言うの、アプリって言うの? そういうのとかで、家出したい、泊めてって書くらしいですよ。で、それを助ける輩がいるって、そう聞きましたけどね。そんなのに群がる輩、悪いやつばっかりだろうに。うちも娘がいるからね、人事じゃないですよ」


 大将の話を聞きながら、俺は急いで焼き鳥の盛り合わせを食べた。本当ならば味わいたかったけれど、そんな時間はない。頭の中では東京行きのバスの時間でいっぱいだった。片手でスマホ画面の上の指を動かしながら、バスの時間を検索する。「いつかこの美味しい焼き鳥を家族四人でまた食べにこればいい。そんな未来を作るんだ」そう思いながら、東京へ行き、その団体の保護施設で五稀を探すことばかりを考えていた。

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