第五十六話

 「居酒屋 鳥よし」に着いたのは、五時半少し手前だった。小山駅南口を出て、タクシー乗り場を横切った先の信号を渡ると、赤い看板に「居酒屋 鳥よし」の看板らしきものが見えた。朝から降っていた雨は、電車を降りる頃にはどうやらみぞれになっていたらしく、足先から感覚が薄れていくような寒さを感じた。


――そういえば、朝から何も食べていない。


 でも何かを食べるような気分じゃなかった。気持ちはいつでも沈没できる状態にある。深い寒い海の底だ。海面には氷が張り、一度沈んでしまうともう浮上できないような、そんな冷たい海の底。この今の状況を作り出し、難航する船出を決めたのは全部自分のせいだ。だから、俺の心は沈没するわけにはいかなかった。


 「居酒屋 鳥よし」は、そんなに大きな店じゃなさそうだった。そのあたりは飲食店がいくつかあるが、繁華街というわけではない場所で、仕事の帰りにふらっと、立ち寄れるような、でもそれでいて地元の人が家族で来ても利用できるような、そんな店だった。こじんまりとした平家の建物の隣には駐車場も完備してある。駐車場についている大きな赤い看板には、「地鶏料理」や、「郷土料理」などの文字も並んでいた。十台程が停められる駐車場には、まだ時間が早いからなのか、車は一台も停まっていない。しかし、何か料理をしているのだろうか、香ばしい甘醤油のような香りが辺りに漂っている。駐車場に面した壁のダクトから白い湯気のように揺らめきながらあがっているのが見えた。


――少しくらいはお腹に何か入れとかないと、頭も働かない、か。


 何かを食べたい気分ではなくとも、脳から身体へ送られた微弱な電流が、お腹を締め上げて、低い低音が響いた。どうせ居酒屋に入るのであれば、おにぎりくらいは食べてもいいかもしれない。その方が、店にも入りやすいはずだ。そう思い、年紀の入った赤い木綿ののれんをくぐって、店のドアを開けた。


 ガラガラっと、ドアが鳴り、店内に入ると焼き鳥の甘だれが香ばしく焦げた匂いや、鶏の皮がこんがりと焦げていくような芳しい香りが鼻腔を刺激した。


「いらっしゃいませ。お一人ですか?」


 と、若いバイトの女性に聞かれ、「はい」と答えた。


「では、こちらのカウンター席でもいいですか? それともテーブル席の方がいいですか?」


「あ、カウンター席で、大丈夫です」


 そう答え、焼き台が見えるカウンター席に座った。焼き台ではまだ何も焼かれてはいなかったが、その奥の厨房で黒いTシャツを来て、頭に手拭を捻ったものを巻き、作業している五十代くらいの男性が見えた。きっとこの人が店長で、五稀が泊めてもらった友達のお父さんなのだろうと思った。


「コート、お預かりしますね」


 と声をかけられ、表面が濡れた紺色のコートを店員の女性へ渡した。そんなに長居をするつもりはないけれど、濡れたコートを羽織りながら食事をする方がおかしいと思った。程なく女性店員が戻って来て、注文を聞く。幅の狭いカウンター席に置いてあるメニューを眺めながら、とりあえずホット烏龍と、梅おにぎりを二つ、けんちん汁を注文した。焼き鳥は頼まなかった。匂いに釣られて食べたくなる自分の他に、串に刺さって肉が焼けた光景は見たくないと思う自分もどこかでいた。あの、猟奇殺人事件の記事がいつまで経っても頭の中からデリートされないからだ。


 首のない、内臓をきれいに掃除された少女の遺体。まるでこれから売り飛ばされるかのような、識別番号入りの黄色いタグがつけられている家畜の姿も、同時再生で浮かび上がってくる。


――五稀の事、聞かなくちゃいけない。


 女性店員が持って来た湯気の上がる白いおしぼりとホット烏龍で、寒さで悴んだ自分の手を温めてから、焼き台の奥にいる男性に声をかけようとするも、かける言葉が思い浮かばない。


――どうやって切り出す? 五稀の名前を言って、それで娘さんに会って話が聞きたいんですっていうのか? 大学生の男が中学生の娘さんに会いたいですって、それってちょっとおかしいと思われやしないか?


 すぐそばに五稀につながる情報があるかもしれないのに、思ったよりも自分に意気地がない事を知ってしまう。しかし、どうやって切り出せばいいのか。そう思っていたら、焼き台の奥で作業をしていた男性がこちらの方を向き、話しかけて来た。


「お兄ちゃん、一人でどっかの帰り?」


「あ、まぁ、……あ、はい」


「うちにきて焼き鳥食べなかったら、もったいないよ。これでも地元の地鶏の焼き鳥コンテストでは優秀賞を取ったくらい、うちの焼き鳥はうまいんだから」


「あの、頼みたかったんですけど、ちょっと時間があんまりないから」


「そうなの? そりゃ仕方ないね。これから急いでどっかに行くの」


 人の良さそうなふっくらとした顔で、そう聞いてくるおじさんには、「大将」という呼び方がふさわしいと思っていたら、先程の女性店員が、大将と呼んでいるのが聞こえた。大将は俺に話しかけながらも何やらカウンターの向こうで作業を続けている。


 コンテストで優秀賞と聞けば、確かに、食べないのはもったいないだろう。でも、脳内で再生される食肉は、自分の中では思い出したくない食肉になっている気がする。残虐な殺人を記憶した脳は優秀で、脳が感じ取った香ばしい香りが運んでくる焼き鳥味の記憶でも、なかなか塗り替えることはできない気がした。


――でも……。


「あ、すいません、じゃあ焼き鳥のたれ一本だけ追加してください」


 はいよっと嬉しそうな大将の声が店内に飛んで、早速炭火が入っている使い込んだ焼き台で大将が地鶏の串を焼き始めた。


「息子と一緒に酒が飲める日が来るとは、とかなんとかいうCMあるだろ? まさかそんな日は自分にはないと思っていたけれど、弘樹に会えたことで、楽しみが一つできたよ」


 父さんと再会して随分経ったころ、そんな話を車の運転をしながら、助手席の俺に言う父さんを思い出した。家族になることで手に入れた幸せもある。家族になったことで壊れた幸せもある。そのどちらもが天秤にかけられ、手に入れた幸せの方が多かったら、家族になって良かったと言うことになるだろうか。それなら少しは救いもある。これから幸せを増やしていく努力はできるはずだ。


――幸せになる努力、何から? どうやって?


 理数系の頭の中はいつも現実的に可能かどうかを精査している。もうそういう癖がついているからだ。なのに朝から今までの自分は少々どころじゃなく大多数の脳味噌が感傷的になっていた気がした。


「お待たせしました。梅おにぎりとけんちん汁です」


「お兄ちゃん、焼き鳥、もうちょっと時間頂戴ね」


 そう思ってカウンターの机に視線を落としていたら、海苔の香りを纏った白く柔らかい湯気と、オレンジ色の人参が入ったけんちん汁が目の前に運ばれて来た。あたたかな家庭の温もりがそこにあるような景色。居酒屋の幅の狭い少し粘つくカウンター席で、しばらく触れていなかった家族の光景を見た気がした。


 

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