第三十七話
アラームが鳴って、枕元に置いてあるスマホに手を伸ばし、なかなか開かないまぶたに力を入れて画面を睨むと、七時七分だった。大学までは自転車で十分もあればつく。まだ時間に余裕はあるなとほっとしたが、画面にあると思っていたものが表示されていなかった。妹から返信がきているはずの緑の通知だ。
「あいつ、俺にも連絡なしかよ」
そう呟きながら、スマホを充電器から抜き取り、ムクっと起き上がる。電気代を節約するためにエアコンはタイマーにして寝るから、部屋は凍えるように寒かった。吐く息がほんのり白っぽく見えるのはきっと気のせいだと思うけれど、こんな寒い日に、いったいどこであいつは泊まっているのかと、思った。寒いところで野宿はないだろうけれど、一体どこに行ったんだ?
そう思ったら、なんだか不安な気持ちが部屋の中よりも冷たい風となって胸の中に吹いてきたような気がした。
「さぶっ」
身震いをしながら、狭いワンルームのベットマットに腰をかけて、ご飯を食べるだけにあるような小さな、低いテーブルの上からエアコンのリモコンを取った。すぐさま、リモコンのスイッチを押すと、元々この部屋に備え付けてあったエアコンからは、埃臭い匂いを纏ったまだ暖かくもない風が、部屋に流れ込んできた。いつもは気にならないエアコンの稼働音が、今日はなんだか部屋中に響いて聞こえる。嫌な感じだ。
エアコンだけではすぐに身体は温まらないと感じ、急いでベットマットの横にある小さなタンスの一番下から靴下を出して履いた。
靴下を履いて寝るのは、どうも好きじゃない。足が窮屈になるようで、寒くても、裸足で眠りたい。そんな性格を知っている母さんが持たせてくれたプラスチックの湯たんぽが、ほんのり布団の中で生温い世界をまだ作っていた。俺は、自分の身体に布団を肩からかけて、その母さんが持たせてくれた人肌くらいにあったかい湯たんぽを足の下に置いた。しばらくこうしてしていれば、そのうち、部屋も身体も少しは暖まると思った。
それよりも、妹のことだ。なぜ連絡をくれないのだろう。家出をしたのが土曜日だとするならば、もう月曜日の朝だから、三日間も帰っていないことになる。
――あ、帰ってきてるかもしれない?
俺に連絡がないだけで、もう家に帰ってきているかもしれないと思い、母さんに電話することにした。でも、やっぱりそれはない気がした。もし帰ってきたならすぐに俺にも連絡くれるはずだから。それでも、電話をした方がいいだろう。きっと母さんも父さんも、ものすごく心配しているだろうし、父さんは会社に行かなきゃいけないだろうから。そう思って、母さんの名前をタップした。
案の定、ワンコールで電話に出た。
「連絡きた?!」
「来てない。あ、おはよ」
「あ、おはよう……そっか……、ヒロ君のところにも、連絡、ないのか……。もう、どうしたらいんだろう、私がこの家にいるからきっと嫌になっちゃったんだよね…。わかってるつもりではいたんだけど、もう、も…う……、申し訳なくて、申し訳なくて、私、わたし……うぅっ…うううぇ……ぅ……」
どうやら一睡もしてない様子だ。声に張りがないし、精神的に追い込まれた時の母さんだと思った。一人親でずっと俺を育ててくれている時、何度か見たことがある母さんだと思った。気丈にしているけれど、何かでポキッと心が折れたら、堰を切ったように不安と悲しみに襲われてしまうような、そんな母さん。
「父さんは?」
「うっ……くっ。ずずっ……」
まだ少し時間がかかるのかもしれない。今、自分の中の感情を落ち着かせようとしてるんだと、俺にはわかった。そういう時は、向こうから話すまで待っててあげた方がいい。そうやって二人で今までも生活してきたんだから、俺にはわかる。電話の向こうでは、すすり泣いている母さんの声が、その後ろの空間に響いていた。もしかしたら、父さんとは一緒におらず、一人でいるのかと思った。
「うん、ごめん……。もうね、もうずっと泣くのを押さえてきたから……。ごめんね、いっぱいこんな泣いちゃって。なんかね、賢治さんがいる時に私が泣くと、あの人、自分のことをもっともっと責めてしまう気がして…、大体、泣いて済む問題じゃない……。あぁ、ごめん、ちょっと待って、鼻かんでくるから……」
そうか、そういうことかと思った。確かに今みたいに母さんが泣いたら、父さんは自分のことも責めてしまうだろう。なんであの時気づいて追いかけなかったのかと。問題の根っこは、目の前の出来事だけでは見えない。そこにはこの家族の歴史がきっとあるのだ。そう思ったら、家族とはいったい何かを考えてしまった。血がつながっているから家族なのか、血が繋がっていなくても一緒に暮らしていれば家族なのか、では今の俺は? 一緒に暮らしていないけれど、家族であることは間違いない。あいつだって、そうなはずだ。でも、きっと俺と妹は少し違うのも事実。でも、それをあいつは知らない。もし知ったら、本当に家出をしたくなる気持ちはわかる。
そこまで思考を進め、はっとした。
「事実に気づいたから、家出したのか……?」
「事実って?」
――しまった、つながってるんだった。
「いや、別に」
「そう」
もしかしたら母さんも思うことはあるかもしれない、でも、短い言葉の返答だった。俺はもう一度、話題を切り替えるためにも母さんに聞いた。
「で、今、父さんは? 一緒じゃないの?」
一呼吸間があって、母さんは力が抜けた声で、「今、警察に行ってる」と言った。
――警察?
俺の脳裏にあのテレビでやっていたニュースがフラッシュバックしてきた。家出した女子中学生を、殺害し、山中に遺棄した猟奇殺人事件のニュースだ。
「まさか、大袈裟だよ」
「大袈裟なんかじゃない! いっちゃんにもしものことがあったらどうするの! ううう……うううう……」
母さんは電話の向こうでさっきよりも激しく泣き出した。絶対そんなことあるわけない。だって、中高生の女の子が家出なんて、よくある話だ。テレビのワイドショーでその事件を取り上げてやってた時にも言っていたはずだ。年間の家出を含め、行方不明になる子供たちの人数はって、確か1万人以上と言っていた気がする。その1万人以上いる行方不明者の中で、凶悪な事件に巻き込まれて死んでしまう人数はそんなに多くはないはずだ。そんな、まさか俺の妹があるわけない。
――あるわけないと、どうして言い切れる?その根拠は? 根拠なんてないじゃないか。現に、RINKの返信は俺のところにもきていないじゃないか?妹は、
母さんが泣いている声をスマホで聴きながら、俺は真っ黒な波に飲まれていくような不安を覚えていた。
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