第三十八話
大学までの道のりを、自転車を漕ぎながら考えていた。もしも事件に五稀が巻き込まれていたとしたら、もうすでに殺されているかもしれない。テレビでやってたニュースはとても残虐で、監禁したのちの殺害だろうと言っていた。でも、そんなわけはないとやっぱり思った。そんな事件に巻き込まれるなんて、交通事故に遭うよりもかなり低いはずだ。例えていうなら、きっと、飛行機が落ちて死ぬくらいの確率くらいか。それはどれくらいの確率なのか、俺にはきちんとした数字がわからないけれど、でも、普通に生活していれば巻き込まれるなんて、あり得ないと思った。ここは治安の良い国、日本だ。街灯に集まる蛾のように、自分から危険なことに吸い寄せられていくならわかるが、普通に生きていたら巻き込まれるようなことはないはずだ。
「五稀は普通に生活してるだろ 」
いざ頭の中の声を表に出すと、普通の定義が何なのかさえ、自分の中では不明確である気がした。普通とは一体なんなのだろう。例えば、父親がずっといない状況で母親に育てられた母子家庭の俺は、普通ではないのだろうか。日本の離婚率は三組に一組と言われているが、それだと三十人クラスで十人は親が離婚した子供ということになるが、そんなわけはない。俺が小学校の時は、親が離婚した子供は俺だけ、もしくはもう一人いたかいなかったか、それくらいだったと思う。自分はそれしか知らないで生きてきたけれど、それはやっぱり、子供同士では珍しいことなのかもしれない。お父さんかお母さん、どちらかがいないということが、だ。
大人は数字を見て、三組に一組は離婚してるんだから、珍しいことじゃないというかもしれないが、子供の心はそんな数字で表せれるものじゃない。父親と母親、どちらもいる子供か、そうじゃない子供か、もっと単純で、もっと心の根が深い問題だ。俺の場合は、母さんが離婚して母子家庭なのではなく、父親と死別して母子家庭だとずっと聞かされてきた。それでも、やっぱり父親がいないことには変わりがなかった。それはきっと五稀も同じはずだ。
「や、違うだろ、それは」
五稀は、母親がいて、幸せな三人家族から離婚しての父子家庭だ。あったものが無くなったのと、初めから無いのとでは全く違うはずだ。俺は父親というものに憧れはしたが、はなから無かった。でも、五稀は、母親がいて当たり前だったのが無くなったんだ。それはやっぱり全然違う。俺はそういうことをちゃんと考えてあいつと接してきただろうか。
――五稀のことを本当の妹だと思い、家族になった気でいたし、同じ、子供の立場として、あいつの事を分かってたつもりになっていたけど、本当のところは何もわかってなかったんじゃないか?
五稀には五稀の思いや考えがあって、子供なりに両親の離婚を乗り越えてきたはずだ。いや、乗り越えていたと思うこと自体が、俺があいつを本当にはわかってないことになりやしないだろうか。親が離婚した後の辛い話を、そんなに親身になって聞いたこともなければ、あいつも話してこなかったはずだ。
「くそっ」
結局俺は、自分にとっての憧れだった「父さんと一緒に暮らせること」で満足して、あいつの気持ちをちゃんと考えてあげれていない、表面上のただの優しいお兄ちゃんだったってことじゃないか。
「くそっ」
――なんてことだ。それだとしたら、俺があいつにRINKしたメッセージは、もっと五稀を追い込んでしまうんじゃないか? お前の気持ちは理解できるって?偉そうに! 俺、何にも五稀のことわかってないじゃんか!
自分に怒りが込み上げてきた。空から小さな冷たい粒が落ちてきて、俺の目の中に入ったせいなのか、じわじわ痛みが滲みてくる。
――何が俺にも連絡なしかよ、だ。俺に連絡したいかどうかなんて、そんなことあいつがどう思ってるのかもわからないのに。俺は自分で五稀に嫌われてないって決めつけて、お兄ちゃんづらして、良き理解者のふりをして? 馬鹿じゃねぇの?
気づけば、大学までは信号を渡ればすぐだった。信号は青、そのまま行ってしまえば今日は普通の一日になる。学校の友達と、いつもの教室で授業を受けて、またいつものようにコンビニで買ってきたご飯を食べて、また授業を受ければいい。自分が学びたいと思ってやってきた大学の、将来自分がやりたいことの為に必要な授業。だから、この信号を渡れば、普通に過ごすいつもの一日にきっとなる。
「違うだろ、そうじゃないだろ?」
自分の声を聞きながら、俺は自宅に戻ることを決めた。それがもし、思春期真っ只中の中学生のただの家出でも、家族にとってこれは一大事なんだ。大事な家族が家に帰ってこないということは、それだけで一大事なんだと何度も頭の中で呟いた。
「呑気に学校行ってる場合じゃねぇだろ、俺!」
重い尻を上げて、白い息を吐きながら自転車で走る俺の頭には、五稀の顔が浮かんでいた。絶対事件に巻き込まれたりなんかしてないはずだ。そう思ってる。でも、だからと言って、ほかっておくわけにはいかない。家族なんだから、母ひとり子ひとりだった俺が、やっと出会えた大事な妹なんだから。
「絶対帰って来い、五稀。俺が今から迎えに行ってやる」
そう口に出して言うことで、自分の無責任なRINKの言葉や、今までの自分の行動が消えれば良いと思った。でも、一度出したメッセージや、過去の行動は消すことなんてできない。で、あれば、今から変えていくしかないんだ。学校に行く学生たちが向こうからどんどんやってくるけれど、俺は車道を反対方向へと向かって走った。田中の姿が見えた。でも、今日はバイトの面接も行けない、いや、もう行かない。それよりも大事なことがあるんだ。
「あれ? おま、今日学校行かないのかー? 」
「田中、悪い! また連絡する!」
「え? ちょ……!」
田中がなんか叫んだけれど、後ろは振り向かなかった。
「絶対見つけ出してやる」
そればかりを口にしながら、鼻先に触る雨粒も気にせず、俺は猛ダッシュでアパートに帰った。
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