第三十五話
泣き疲れて、そのままソファで眠ってしまったみたいだった。頭が重くて痛い。鼻は詰まっているし、最悪の気分だった。
――涙を流したら、心が晴れるんじゃなかったのかな、でも、そんなわけないか……。頭が痛くなっちゃった。目も腫れぼったいし。んと、今、何時だろう……?
このシェアハウスに来てから、時間をやけに気にするようになってしまった。やることがあんまりないから、早く一日がすぎて欲しいって思うのだ。一応、次の日曜日まではここにいて、それから帰ろうと思ってはいるんだけど、今日は確か水曜日、家出して、五日目だ。五日も家に帰らなかったら、ものすごく心配してくれているだろうか。
――そういえば、神街さんが来たときに、弘樹君にRINK送ったんだった。心配しないでって。
スマホを急いで探したら、包まっていた羽毛布団の中に紛れていた。ほんのり生暖かい。今日は結構寒いから、エアコンを付けたけど、それでもやっぱり羽毛布団に包まれていたいと思った。その柔らかさになぜか、安心できる気がした。
スマホの画面を指で触ると、時間が表示された。二十三時二十四分と表示されている。今日という日は、後少しで終わって、木曜日になる。家に帰る予定の日曜日までは、後四日。弘樹君にRINKしたことは、果たして良かったのだろうか。日曜日には帰ると、お父さんやママ達に弘樹君が伝えれば、「なんだそうか」と、安心してしまって、心配する気持ちが減ってしまわないだろうか。
――やっぱり、弘樹君にRINKしない方が良かったんじゃないかなぁ、警察に通報って、それも嫌だけど。
神街さんがそうした方がいいと言ったなら、間違いないはずだけど、できれば、これ以上ないくらい、心配して欲しかった。自分のせいで、自分たちのせいで、私がこんな行動を起こしたことを、地獄に落ちるくらい悲しんで、反省してほしいと思った。
――喉が渇いちゃった。あと、トイレ……。
泣いた事で、身体中の水分が、雑巾の水のように絞り出されてしまったかと思うくらい喉がカラカラだった。確かに、絞り出すくらいの勢いで泣いていたとは思うけれど。冷蔵庫に向かって、扉を開けると、いつものミネラルウォーターが冷えていた。それと、神街さんが新しく置いていってくれた野菜ジュースも冷えていた。
――野菜ジュースもいいけど、まずは水が飲みたいよね。
ペットボトルの水を取り出したら、蓋がすでに開いていて、不思議に思ったけれど、一人でずっと閉じこもっているわけだし、いつかの自分が飲みかけをしまったんだと思った。そういう事ってよくあると思う。
――弘樹君が家にいる時は結構気にしてたけど。だって、間接キスになっちゃうもん。
弘樹君が大学生になって家を出るまで暮らしてた時間は、一年ちょっとと、そんなに長くないけれど、それでも高校生のお兄さんが一緒の家にいるのは、やっぱり気になってしまう。しかも、いい人なのだ。顔だって悪くないと思った。
中学校に入ってから、小学校の時に一緒だった美樹に、高校生のお兄ちゃんができたことを話した時、少女漫画みたいな展開だと興味津々だったのを思い出した。中学の入学式が終わってしばらく経った、ゴールデンウィーク前の事だ。せっかくならどっかで一日くらい映画にでも行かないかと、自分の部屋でベッドに寝っ転がり、RINKトークで話していたときに、なんとなく弘樹君のことを言ってみたら、こう言われた。
「えー! マジで? 写真撮った? かっこいい? かっこいい? 」
興味があるんだと、思った。もっと聞きたいとぐいぐい質問してくる美樹の声は好奇心に満ちていて、その情報を出し惜しみながら提供するのが心地良かった。まるで、自分に注目が集まっているようで。
「写真とか、撮ってないよぉ? えー、だってなんて言って撮るのぉ?」
「それはさ、お兄ちゃーん、一緒に写真とろ? って、可愛く言ってみるとか? そんなんなんでもやり方あるじゃん! だって、N高なんでしょ? 頭も超いいじゃん! それで顔が良くて優しいなんて言ったら、最高じゃん!」
「それは、確かにだけど、でも、血は繋がってなくても、お兄ちゃんになってるわけだし、あんま私に関係なくない?」
確かに弘樹君はそこそこかっこいい。というか、目立つタイプではないけれど、というのは、チャラチャラしているタイプではないけれどという事で、なんというか、落ち着きがあって、顔も整っている方だった。二重の目は妙に大きすぎる事なく、程よく横に流れていて、鼻もスッとしてて、モテなくはないタイプだと思った。頭も県内一番の進学校に通ってた。さらには、性格も良くて、いつも気にかけてくれて、と、いい人すぎた。
「でもさ、ほら、漫画とかだと、そこから発展するパターンもあるじゃん! 義理のお兄ちゃんって、なんかエロいじゃん?」
「えー、もうやめてぇ、エロいって、そんな風に思った事ないってぇ」
「えー! もったいないよぉ、 隣の部屋にいつもかっこいい高校生男子がいるのにぃ? 絶対今度写真見せてね! 私が気に入ったら、紹介もしてねぇ!」
美樹とは一度小学校の時に仲が少し悪くなったけど、中学が別々になった事で、また仲良くなれた友達だ。美樹が愚痴りたい友達の話は、大抵は同じ小学校だった私も知ってる子だから、一緒に愚痴りやすい。愚痴ったところで、私は会うことがないから私も毒舌全開でも良かった。反対に、美樹は私の中学の友達をほとんど知らないから、私が愚痴っても、私以上に腹を立てて怒ってくれた。それは、秘密の愚痴大会で、私たち二人外に漏れることはないはずだった。
――誰がどこで聞いてて、伝わるか、わかんないものなんだよね……。
なんだか、変なものが胸の中に生まれた気がした。冷蔵庫のドアを閉めて、その場でボトルの蓋を開けて、水をがぶ飲みした。思いを巡らせているうちにも、喉はどんどん枯れて行っていたのだ。
――ぷはぁ! 生き返った。ふぅ、もうすぐ木曜日、また寝て、起きて、時間つぶしてをあと少しいればいいだけ。スマホが電波入ったら、一番に連絡するのは、やっぱり美樹かな。
そう思って、ペットボトルをソファの前に置いてある白いローテーブルに置き、トイレに行く事にした。なんだか、今日の昼のことがあるので、リビングから廊下に出てトイレに行くのが怖かった。あの真っ赤な二階の部屋を、また思い出してきてしまったのだ。
――あれはきっと、なんか意味があってあんな色の電気にしてるんだって。変なことじゃないって、神街さんだよ? ないない。大丈夫大丈夫。
でも、やっぱり少し怖い気がしたから、スマホのライトをつけて、廊下を照らし、廊下の電気をつけた。もう、このままずっと電気はつけっぱなしにしてもいいような気がした。それなら明るい時も、暗い時も関係なく、同じ明るさの廊下になる。自分の安心できるエリアが少しだけ増えた気がした。問題はお風呂だけれど。お風呂に一人で入るのは、少し怖い。でも、汗をかくわけではないし、臭くなったら入ればいいと思った。どうせ誰にも会わないんだし。
――あ、でも神街さんがいつくるかわかんないから、やっぱり臭いのはだめか……。
来て欲しいと思うけれど、来るとなると、しかもいつ来るかわからないとなると、毎日お風呂は入らなきゃいけない。それが少しめんどくさかった。でも、来てくれないよりは来てくれた方が嬉しい。神街さんのお話は楽しいのだ。
カチッ
トイレの電気をつけて、便座の蓋を開けようとしたら、トイレにも窓がついていることが分かった。人が出れるほどのサイズではないけれど、開けることはできるかもしれない。
――臭いとき開けるのは大事だもんね、ここは他と違うタイプだし、開くかも?
そう思って、手で銀色のひんやりとした取手を掴み、くいっと上に捻って、そのまま外側に力を入れて押した。
「あ、開いた」
トイレの窓は思ったよりも簡単に、両サイドについている銀色の曲がった棒のようなものの限界まで開いた。大体、三十センチくらいだろうか。外の風が少し入ってきた気がして、私の周りについていた何かわからない靄のようなものを洗い流してくれる気がした。
「あ……。ここならスマホ、電波入るかも?」
急いで握りしめていたスマホを取り出したけれど、やっぱりまだ圏外だった。だから、手を窓からうんと伸ばして、スマホの画面を確認したけれど、それでもまだ圏外だった。
「ダメかぁ。なんかよっぽど電波の届かない場所なのかなぁ? 隣に工場があるからとか? あーあ」
そう言って、一旦手を引っ込めようとした、その時、トイレの窓枠に手が引っかかって、スマホが落っこちそうになった。
「あっぶなー! マジでびびった。落としたら大変じゃん!」
そう言いながら、スマホを窓から遠ざけ、その窓の下はどうなっているのかを覗いてみる事にした。便座の蓋に膝をついて、窓枠に手をかけ、顔が入るだけ押し付けて、覗いてみる。
――あぁ、こっち、草むら側じゃなくて、工場側なんだ。すぐ工場の汚い壁がある。でも、塀みたいなのがすぐ手の届く位置にある?
さっきよりも慎重に、スマホを窓から離せるギリギリまで離して、ライトで照らしてみる事にした。思った通り、工場の汚い錆びた壁が窓を開けたすぐ近くまで迫っていて、その壁と、今いる家の線引きをするように、ブロックでできたみたいな塀がすぐ真下にあった。開けた窓ギリギリより少し下にあるその塀の上の部分にスマホが落ちても、取れるような気がした。さっきは真っ暗でそんな事考えてなかったけど。少しほっとした。これでスマホを失うことはないはずだ。
――ここから外には出れないか、あ、出る気はないんだけど。でも、空気が少しでも入ってくるから、気持ちいい! このままずっと開けておこうっと。
ひんやりすぎる空気だけど、それも火照った顔を冷やしてくれて、気持ちいいと思った。トイレにいる時は寒いだろうけど、それはしょうがない事だ。少しだけ靄が晴れた冷たいトイレでおしっこをしようと思った。その時、トイレの窓の外を何かが横切った。野良猫だった。
――なるほど、ここは猫の通り道なのか。
その日はなんだかとても眠たくて、トイレから戻った私はすぐに布団にくるまって、また昼頃まで眠った。きっといっぱい泣いたから、脳味噌が疲れているんだろうと思った。だって、頭がなんだか重たすぎる気がしたから。
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