第三十三話
一気に四階まで上がり、分水嶺をイメージした苔生した岩肌を流れる水のオブジェをスタート地点として、水の旅は始まる。
私たちの住んでいるN県は分水嶺がある県だ。分水嶺というのは、天から降った雨水が異なる方向へ流れる場所のことを指すらしい。簡単にいうと、運命の分かれ道である。分水嶺から流れる一筋は、日本海へ、また反対のもう一筋は太平洋へと流れていくのだ。その遥かなる水の旅路の中で、支流からの水が流れ込み、大きな河川となってそれぞれの大海へと旅立ってゆく。
同じ雨雲から雨粒になった仲間達は、また出会う日がいつか来るのだろうか、とここに来るといつも思う。水の旅、それを想像すると、悠久の時の流れのなかに存在している自分があやふやな形に思えてしまうけれど、でも私には、家族という場所がある。それだけでも、私の形はしっかりとここにあるような気がして安心できた。
――大丈夫、同じ方向へ私たち家族はちゃんと流れていっている。
「同じ場所に降った雨が全く別のところへ行くなんて、浪漫があるだろう?」というのが、山並水族館へ来たときの貴志君の常套句だ。もちろん、さっきも言っていた。今は、そこを過ぎて、まるで山の中のように木々が生えている場所を歩いている。ガラス張りの建物は、最上部から日光を取り入れることができるからか、本物の木々や植物が成長しているのだ。
朴木や、紅葉、ススキに、よく見るけれど名前がわからない雑草のようなものまで、まるでそこにあるのが普通な景色のように、それぞれの居場所におさまっている。人工的に作られた岩や景色でも、それはそれで、ありなのかもしれない。だって、ちゃんと紅葉は紅葉しはじめているから。
そこからは、坂道をくだり、渓流や清流の魚を眺め、また坂を下りを繰り返して、河口付近まで進む。河口付近まで来ると、子供達にも身近なザリガニやタニシといった、近所の田んぼにもいそうな水槽が多くなってくる。正直私はその辺はあまり興味がないけれど、貴志君が熱心に子供達にウンチクを話しているので、みんなは楽しそうだった。
そうこうしているうちに、今度は世界中の有名な大河の紹介エリアに変わっていく。メコン川の水槽では、私よりも大きなメコンオオナマズが迫力満点で泳ぎ、コンゴ川では、現地の人々が漁をしている罠に魚達が群がっている水槽がある。もちろん、展示だから捕まえて食べてしまうようなことはしないし、罠の外にも出られるようになっているけれど、その竹で編んだ罠に群がる小さな魚達を水槽越しに見ていると、つい、「罠には気をつけてよ」と言ってあげたくなってしまう。「本物は一回入ったら、出てこれないんだよ」とも。でも、故郷に帰ることは一生ないだろうし、大体、日本で繁殖した熱帯魚だと、それくらい私も知ってはいるんだけれども、ただ、なんとなく、いつもそう思ってしまう。
そんなこんなでアマゾン川までやってくると、大きな口を開けたワニが出迎えてくれる。でも、いうほど迫力が無い。小さいサイズのワニだからなのか、展示するにはそのサイズしか飼えないのかは知らないが、「あ、ワニがいる」くらいのワニだと思う。その水槽には亀もいるけれど、そういうアマゾンの生態系を表現しているのだと思っている。
別の水槽にはピラニアや、アマゾンが熱帯雨林にあるだけに、黄緑色が派手な蛇が、白い霧の中でトグロを巻いていたり、絶対毒があるってわかるよねというとような、赤と黒色の模様が入ったカエルなどの水槽もある。個人的には爬虫類や両生類はちょっとなので、通り過ぎるだけだけど、子供達には大人気のようで、下から覗き込んで、食い入る様に見ている子供は何人もいた。もちろんうちの息子君もその一人。
「あ! わかったよお父さん!あそこだよ、ほらあそこ、あの陰にいるよ二匹も!」
葉っぱの影でなかなか見つけることができない小さな毒ガエルを見つけて喜ぶ夢輝、と、それと同じくらい喜ぶもう一人の少年は、もしかしたら何時間でも山並水族館にいれるのかもしれない。光はそこまででは無いようだけど、それでも楽しそうだった。
――来てよかった。みんな楽しそうだし。やっぱりお土産は買ってあげなきゃ。思い出にきっとなるよね。
一般道で一時間車で走って到着するレジャーは近場だ、なんて思うのは大人だけかもしれない。子供達は距離では無く、この非日常を十分に楽しめているんだから。来て良かったと、何度も思って、三人を眺めていた。
――でも、そろそろ三時になるから、アシカショーが始まっちゃうよ?
そう思って、先へ向かうことを促した。
「もうすぐ三時になっちゃうから、先にアシカショーを見て、それからまた見たかったら、逆走して戻ればいいんだよ。ささ、早く。もう四十分だよぉ?」
「「「はーい!」」」
大人まで子供と一緒に「はーい」と返事するのが愛しいけれど、まずは座る場所を確保しなくてはいけない。きっと、「手伝ってくれるお友達いるかなー?」とアシカショーのお姉さんが声をかけたら、二人とも手をあげるだろうから。目立つところに座らないと当ててもらえないかもしれないのだ。
でも、そう思っている家族連れは結構多いらしく、みんな出口手前のアシカショーへと、どんどん人の流れが増えていく。「私たちも急がねば」と思っていたら、最後の展示スペースにやってきた。この先がアシカショーの会場、ここは二ヶ月に一回くらいのペースで、企画展示をしている。なかなか手が混んでいて、面白いのだけれど、今日は一旦、アシカショーへいくしかないと思った。また戻ってゆっくり見ればいいだけのことだ。
今日の展示は、どうやらハロウィン特集らしい。オレンジと紫、黒色の三色を基調としたパネルの中に埋め込まれた水槽には、いろいろなものが隠れている。でも、今は先に進まなくてはいけないから、と、急ぎ足で三人を急かしていたら、急に夢輝が足を止めて、水槽にかじりついた。「カミナリをあやつる妖怪、電気うなぎくん」と魔女が吹き出しで喋っている看板がついている。
「いないと思ったんだ、僕。いつもいる場所が何にもいないから、どこにいるのかと思ってたんだ。電気鰻すごいよね! お父さん!」
「そうだよな、電気作れるんだもんな。すごいよなぁ。すごいと言えば、お母さんこないだ黄金のうなぎを食べたんだって」
「えー! ずるいー! どこでどこで?」
「海鮮ゆきちゃんで。賄いだよ、わざわざ食べにいったわけじゃ無いからね、お仕事お仕事」
「すごいずるい!いいないいな!ねぇお母さん! じゃあもちろん捌くとこも見たよね! ねぇ凄かった? 金色の鰻捌くのすごかった!?」
「え? 捌くところ……?」
確かに見ていた。私の手首ほどの太さの、五十センチ以上はある、その黄金の天然鰻を捌くところを。
――確か雪さんが、五年から六年ものだとか言っていた? そうだ、確かそう言っていた。自然界で伸び伸びと育った美味しい天然物なのだと言ってたよね。
その鰻を捌いている映像も、だんだん脳裏に浮かび上がってくる。
――氷でガンガンに冷やし動きが鈍くなった大きな鰻を、後藤さんが掴みあげ、大きな分厚い木のまな板の上にのせて、その首根っこに確か、大きな釘の様なものを、ゴツンと打ち込んで、でも、鰻は氷に冷やされてまだ動きが鈍くて……。きっと自分の首がそんな太い釘で木に貼り付けにされているなんて、鰻はわかってなくて……。それでどうしたんだっけ…? あぁ、そうだ。その後、後藤さんが、生きたまま鰻の背中に包丁を入れて、一気に切り開いたんだ。その包丁が最初に体に刺さった時、鰻は自分が今からどうなってしまうのかという恐怖を覚えったのか、くねくね、くねくね、体をくねらせたけれど、首に杭が打たれているから動けずに、どんなにもがいても、もう遅くって、後藤さんの腕が動いたと思ったら、もう、鰻は背中から半分にされていた……。
それでも鰻は動いていた。半分に切り開かれても、鰻はまだ動いていたんだ。開いた鰻の内側には、綺麗な桜色をした内臓がのっていて、その内臓の中で、濃い赤色の心臓は鼓動をやめてはいなかった。身体から優しく剥ぎ取られた内蔵は、まな板に置かれたけれど、でも、びくん、びくんと、心臓だけは取り出しても、まな板の上で動いていたんだ。頭も杭の先でうねっていた。生きたい生きたいと、鰻はもがいていたのかもしれない。
――生きているまま捌かれたんだから、そりゃ苦しいはずだ、かわいそうに。魚には痛覚がないっていうけれど、ものすごく苦しそうな目が一度だけこちらを睨んだ気がするもん。それにしても、血が一滴もついていない、真っ白な、美しいうな…ぎ……
「生きたまま、捌かれたんだから……?」
「お母さん?」
「あ、はいはい、じゃあ、アシカショー行こうね」
子供の声が聞こえてくるけど、適当に流しているもう一人の私がいる。でも、本当の私の意識は感じている。恐ろしい呪いのように、私の脳内に不吉な何かが侵食してゆく感触を。もう逃さないぞというかのように、私の心も支配し始めてくる。じわりじわりと、染み込んで、じわりじわりと、広がってゆく。もうこれは、隅っこに押し込めておくことはできないような気がする。
――ごとん
大きな塊が落ちる音がした。
それは週刊誌の形をしたものか、それとも首のない少女の遺体か。
《 これから料理でもするのかと思うくらいの下処理がされた遺体だった 》
『あれは、鹿や猪を解体しているような状態でした。解体っていっても、切り分けて肉にするって事じゃなくて、なんと言うか、きちんと血抜きされて、内臓の掃除がしてあるって感じです。頭部はなかったですね』
『内臓もきれいになくなっていて、血もほとんど見えませんでした。本当、狩猟した害獣を捌く途中のような、そんな感じです』
*
そこからの記憶は曖昧で、きっとそれなりに楽しいフリもできていたと思うけれど、気がつくと、もう家に着いていた。
キナコは帰ってきているのだろうか。
私はまだ、キナコの姿を見ていない。
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