第三十二話

「ひー、ギリギリセーフだったね」


「本当。傘ささなくても、ここまでこれてラッキーだよ」


「あとちょっと食べるのが遅かったら、片付けてる時には今みたいな雨だったかもね。俺、荷物先に車に置いてくるわ。チケット買って待っててくれる?」


「うん。じゃあ、はい、これ車のキー」


「すぐ戻ってくるから」


 そう言って貴志君は車に大きめの荷物を置きに行ってくれた。駐車場まではすぐの距離だけど、奥の方にしか停めれなかったから、しばらく戻ってこないだろうと思った。駐車場の入り口にある喫煙所にも寄りたいだろうし。


「お母さん、これ買って」


「えー、だめ。まだそれは帰りの話でしょ?」


「え? じゃあ買ってくれるの? お姉ちゃん、お母さんお土産買ってもいいよだって!」


「えー、いいよなんて言ってない。帰りに見るのはいいよってことだよ」


「えー、欲しい欲しい、この大山椒魚のぬいぐるみ欲しいー!」


 購買威力を増すために出口にお土産屋さんがあるレジャー施設は多い。というかすべてのレジャー施設がそうなんだろう。でも、ここ山並水族館は入り口と出口がほぼ同じ場所にあるから、入り口なのに、お土産コーナーがある。なんとも迷惑な作りだと、前から思ってはいたけれど、改めて、迷惑な作りな気がする。まず入り口付近で買って買わない攻防戦が生まれるのだから。


 遠方から来た人だとすると、「せっかくだからお土産を買って帰ろうか」は、わかるけれど、同じ県内で、しかも一般道で一時間の場所といえば、地元も同じな気がする。京都駅周辺に住んでいる人が嵐山に行って京都のお土産を買うような、そんな地元感。でも水族館だから、お魚やカエルなどのグッズも多い。


――仕方ないかぁ。一個づつ、二千円までだな。


 そう思いながら夢輝が手に持っている大山椒魚を見たら、きっと五千円近くはするんじゃないかと思った。帰りに立ち寄る前に、予算を子供達に言い聞かせておかなければならない。


 子供達をお土産屋さんの前にある熱帯魚の水槽の前に待たせ、そのすぐ隣のチケット売り場の列に並んだ。前には若い女の子二人と、その彼氏と思われる男の子二人が並んでいる。


――いいねぇ。アオハル。ダブルデートかな?


 そう思いながら、並んでいると、その子達の会話が自然と耳に入ってきた。別に、盗み聞きをしたかった訳では無くて、たまたま耳に入ってきたのだけれども。どうやらそこにいない友達の話をしているようだった。話の流れからすると、この子達は同じ高校に通っているようだ。「あの先生は」とか、「あぁ、あいつってさ」などと聞こえてくるから、間違い無いだろう。


――おいおい、いくら雪さんのような思考回路になりきりたいとはいえ、若い子の会話に聞き耳たてては、だめじゃない?


 でも、勝手に耳に入ってくるんだから、致し方ない。聞きたくて聴いてる訳では無く、聴きたく無くても聞こえてくるんだから。思ってたよりも水族館は混んでいて、チケット売り場も人がずらっと並んでいるから、自然と前後の人とは接近してしまうのだ。だから、会話を盗み聞きできてしまっても仕方ないことなのだ。


「えー! マジで?」


「マジでマジで」


「すげー羨ましい!」


 羨ましいを連発しながら、男の子達が騒いでいるようだ。


――さっきの話の流れだと、お医者さんの息子君が不登校で学校を休んでいるうちに車の免許をとって、親に新車を買ってもらった、みたいなことだったよね。それは羨ましい! わかるよ君たちの気持ち。うちなんて車のローンが二台もあるよぅ。


「わかるわ」


 しまったつい、口に出てしまった。でも、良かった。おばさんの独り言だと思ったのか、全く気付いていないのか、若者達は楽しそうに話をしている。あと三組で、チケット売り場の順番もまわってくるし、もうしばらくの辛抱だと思った。それにしてもさっきの話、確かに羨ましいだろうな、と思った。高校生とはいえ、車に乗れなかったら移動には電車かバスかを使わないと遠くまでは行けないだろう。この水族館もバスが通ってるから来れたはずだし。


 そう思いながら、自然に流れる人波の中で、チケット売り場の窓口まで流れていたら、私の番がやってきた。大人二枚と、子供二枚、大人が千五百四十円で、小学生が七百七十円だった。合計四千六百二十円。家族四人で楽しむレジャーとしてはお値打ちな気がする。この値段では大きな遊園地は一人分にもならないだろうから。


――よし、あとは貴志君待ちだな。もうそろそろ……、あ、きたきた。傘さして走ってるけど、きっとあれは濡れてるよね。そういうところテキトーなんだから。


 きっと貴志君は左肩が濡れている。なんならズボンの裾も濡れているだろう。傘を差すのが苦手だから。そんな日常はなんだか普通で平和だと思った。いい兆候だ。これなら今日一日を思いっきり楽しめる気がする。


「はぁ、はぁ、はぁ、待った?」


「大丈夫、今チケット買えたとこ。早速入ろっか」


 光と夢輝も私の近くに呼ばなくてもやってきた。やっぱり貴志君は喫煙所で一服してきたっぽい。タバコの残り香がしてるから。でも、それも我が家の日常である。そんな残り香も我が家の香りと思えば、私はタバコ臭いのも今日は許せる気がした。


「さぁ、じゃ、まずは上にエレベーターで登らなきゃな!」


 エントランスでチケットのバーコードをかざしながら、まるで子供のように嬉しそうに貴志君が言う。子供達も待ちに待った水族館で嬉しそうだ。私もそんな家族の風景が嬉しいという顔をしていたと思う。ほっぺの筋肉が緩んでいるような気がしたから。家族は私が安心できる居場所なんだ。


 こうして私たちは、早速一番上の分水嶺をイメーして作ったオブジェから、水になった気分で、山並水族館を楽しむべく、エレベーターに乗り込んだ。


 エレベーターの中は薄暗く、木漏れ日が揺れていた。私は、小鳥のさえずりを聞きながら気分はすっかり森の中だった。


 


 

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