第三十話

 山並水族館は、車で一時間ほど走ったところにある淡水魚専門の水族館だ。私たちの身近な河川に生息する生き物から、世界中の珍しい淡水魚が集められている四階建ての水族館で、山並環境公園の中に建っているから、水族館だけでなく、広大な芝生広場やアスレチックなどで遊ぶこともできる。


 雨が降らないうちは公園で、もしも雨が降り始めてきたら水族館でと、その時々の天候で変更できるのが子育て世代にはありがたい。せっかく一時間もかけて行くのだから、一日楽しめるようにと、山並水族館にした貴志君と光の選択は間違ってなかったと思った。夢輝が行きたいと駄々をこねた海の水族館は山並水族館よりも少し時間がかかるし、規模も小さい。しかも、雨が降ってなかったとしても、遊ぶ場所が小さな併設された遊園地しかないのだ。遊園地は乗り物代もかかる。やっぱりそうやって考えると、山並水族館で正解だと思った。


 もちろん、お弁当持参。最低限の朝ごはんを作る合間に、おにぎり、卵焼き、タコさんウインナーと、ブロッコリーを茹でた。幼稚園時代は毎日がお弁当だったから、お弁当を簡単に作る技は身につけているつもりだし、何か理由がない限りは貴志君も毎日お弁当だ。毎日の昼食代考えると、お財布が厳しい。お弁当ならば、それを見越して夕飯を準備すれば使い回しが効く。一食分くらいの材料はそのつもりで初めから準備すればいいだけのことだから。


 貴志君の収入が悪いとは思わないけれど、そうやって家計を考えて行かないと、何かあった時に困ると私は思っているのだ。そう例えば、親の介護とか。


 車の助手席で、外を眺めながらそんなことを考えていた。何処かに出かける時の運転はいつも貴志君。大学時代山岳部だった貴志君は車の運転が好きらしく、山登りに行く道中、好きな場所へあちこち寄っていくのが趣味だったらしい。でもそれもあるけれど、きっと私が運転をすると、イライラするのかもしれない。女性の運転で車に乗るのはちょっと、と思う男性は一定数いると何かで読んだ気がする。何で読んだかは忘れたけれど、でもその気持ちは理解できる。私もそんなに運転が得意な方じゃないから、自分の運転で遠出をしたいと思わない。


「お母さん、あと何分?」


 後ろの席から、夢輝が聞いてきた。これで何度目だろうか。


「え? そだな、あと三十分くらいかな?」


「えー! 長いー!」


「しょうがないから。すぐだって、三十分くらい」


 後ろの席で子ども用のシートに括り付けられている子供達は、すぐに「あとどれくらいで着く?」と聞く。さっきも答えたばかりだ。五分ほど前のことだ。まだ五分しか経ってなかったら同じ答えしか出てこないのに、DVDが見れるようにはしてあるけれど、よっぽど車の中がつまらないのだろう。


「そのアニメが終わるくらいには着くと思うから、見てたらすぐだよ、すぐ」


「このアニメ見飽きた。毎回これなんだもん」


「何か借りてこればよかったね」


「そうだよー! もうお母さんそういうところ抜けてるんだから」


 光に指摘されてむかっとしたけど、楽しい家族時間。今日は怒るのは我慢しようと思った。貴志君はそんな会話を聞きながらニコニコ運転している。その横顔が「僕はいいマイホームパパですよ」って言ってるみたいで、すこしだけ、心がゆるんだ。余計な事は考えないで、今日という日を楽しみたい。でも、やっぱりキナコのことは気になった。


「お! すぐまたN県だけど、一旦S県に入るぞー。なんか違う県に来たと思うと、遠出してるって感じがするよな」


 貴志君の声にハッとした。そういえば、同じN県内の山並水族館に行くには、大きな川を渡るのだけれど、その橋の真ん中で一旦、S県に入るのだ。


――S県内の山中で、殺人事件。


 何でもないことですぐに頭の中があの週刊誌の記事に引き戻される。一体、私が何をしたというのだろうか。何も悪いことをしてない私に、誰がこんな呪いをかけたのか。もういい加減嫌気がさしてくる。忘れたいのに。


「ねぇ、あと何分?」


「もう! だからあと三十分くらいだってば! さっきも聞いたでしょ!」


「お母さん怖いー!」


 つい、夢輝の質問にいらっとして怒ってしまった。心の余裕がなかったのかもしれない。咄嗟に自分の口から出たきつい言葉に、反省しなくてはと思った。誰も私が何を考えているのかなんて、知らないのだから。運転席の貴志君もいきなり私が怒ってしまって、少しびっくりしているようだった。


 子供の世界は狭いと思う。自分の力で行ける範囲は、せいぜい小学校の校区内。自転車に乗って出かけるくらいだ。子供達にとっては、車に乗って遠くに行くという事だけで特別だし、早く目的地に着きたいと思う気持ちもわかってるつもりなのに。やっぱりあんな話を雪さんにしなきゃよかったと思った。そうすれば、週刊誌の記事を読むこともなかったはずだ。


――でも、もしもキナコが運んできた小さな紙が、被害者の書いたものだったとしたら? あぁ、ダメだ、今日は楽しい家族の時間なんだってば。


「ねぇ、どうかした? 機嫌悪いの?」


「え? 別に」


「だって、急に子供に怒りだすし、窓の外見ながら何か考えているようだしさ。大丈夫?」


「何でもないよ、ごめん、気を使わせて。楽しみだね、山並水族館」


「そうだよなぁ。最近行ってなかったから、結構俺も楽しみなんだよね」


 貴志君は山並水族館が好きだ。山登りと合わせて渓流釣りも趣味だから、山並水族館の展示が気に入っているらしい。


 山並水族館は、四階建てで、入場ゲートを入ってすぐにエレベーターで四階に上がる。そこからまるで水が、分水嶺から海まで旅をしているかのように、だんだん世界が変わっていく構成の水族館なのだ。内装も山奥の湧水から、渓流、河川、河口と、うまい具合に空間演出されている。貴志君はそこが気に入ってるらしい。子供が生まれてから渓流釣りには行けてないから、きっとその記憶の中の世界が恋しいのだと思う。


「我慢しなくても、行ってこればいいじゃん」


「でもそうなると、休みの日に幸子が一人で子供見なきゃいけないだろ? 渓流釣りは子供が大きくなってからできるしさ、今は家族と休日を過ごすのがいいんだよ」


 貴志君との会話を思い出す。仕事を続けたかったけれど、周りの目を気にして会社を辞めた私に、貴志君はいつも寄り添ってくれていた。もちろん今も、家族第一で考えていると思うけれど。


 小さい子供がいると、思ったように働けないことがある。子供の具合が悪くて、急に休んだり、途中で早退したり、そんな状態で働くことに後ろめたさを感じて、私は会社を辞めた。もちろん会社には、育児休暇制度もあって、その期間は十分に利用させてもらったけれど、育休が明けて職場復帰したら、思ってた以上に大変だった。保育園の送り迎えもだけど、保育園から熱が出たと言われれば、すぐに早退して迎えに行かなきゃならない。何かあるたびに、毎回「すみません」と謝るのが嫌だった。


――でも、今は後悔してないな。「海鮮ゆきちゃん」で働けてるし。


 またもや思い出してしまう。


――でも、「海鮮ゆきちゃん」で働いている時間は楽しい。みんないい人だし、後藤さんも、あれ、何でそこで後藤さんが出るんだろう、それも違うから。


 思わず車の窓枠に肘をかけ、手のひらで口を覆った。全く、どういう思考回路になってるのだ、私は。考えていることがあっちこっち飛ぶなんて、雪さんみたいじゃないか。そう思ったら、少し可笑しくなってきた。だったら、もう、私も立派なおばさんということだ。


――だったら、雪さんくらい切り替えて、今日を楽しむこともできるよね。


 そんな思考回路なら、今日はきっと楽しい日にできるはずだ。


 それでは早速雪さんのように気分を変えようと、足元の鞄の中から水筒を出して、お茶を一口飲んだ。流れてゆく景色の中で唯一動くことない空は、重たい色をしているけれど、雨はまだ降ってはいなかった。


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