第二十八話

 猫達の餌入れを見に行くついでに、ソファの上を見ても、猫はいなかった。いつもならここに末っ子の玉吉がいる。玉吉は白色に少しだけグレーや薄井茶色が入った、長い毛がふさふさした猫で、「海鮮ゆきちゃん」の裏に蹲っているところを保護した猫だ。保護した時にはもう生後三ヶ月をすぎているくらいの大きさだったから、警戒心が強くて、なかなか保護できなかったのだけれど、怪我をしているようで、見捨てておけなかった。見捨てておけない一番の人は、もちろん雪さんだったけれど。


 雪さんのところで保護しようかと話も出たけれど、息子さんに反対されてしまい、私が一時的に保護することになった。貴志くんにRINKで聞いてみたら、すぐに、返信がきて、「二匹も三匹も変わらないから大丈夫」と、言われたからだ。写真付きで聞いたのが良くなかったかもしれない。どう見ても、ペットショップで売っているような猫に見えるから。


 次の日、一応、迷い猫ではないかとペットショップでICチップを調べてもらったけれど、ICチップは入っていなかった。その後も、ネットで迷い猫として探したけれど、飼い主らしき人は出てこなくて、我が家の三匹目の猫となった玉吉は、いわば新参者だ。


 だから、外に出かけるといっても、せいぜい庭と家の周りくらいで、遠出をすることがない。いつもはリビングの白いソファの上で伸びている。けれど、どうやら今日はいないようだった。猫の会議がこんな雨の降りそうな朝にあるのだろうか。そういうのは、夜のイメージだけれども。


 外で暮らしている猫達には、猫会議なるものがあると、貴志君は言っている。私はそんなの迷信だと思っているけれど、時々、三匹ともいない夜があるのは確かだ。一匹目の福助が夜にいないのはわかる。と、そうでもないか、もうだいぶ歳をとってしまって、最近は子供達の部屋で寝ていることが多い。昔は小鳥やネズミを捕まえて、猫専用ドアから咥えて入ってきたけれど、最近はそういうのもめっきりなくなってしまった。今年で十年目になるサバトラ柄のおじいちゃん猫だ。


――そうか、であれば、福助は子供達の部屋にいるのかな?


 子供部屋を覗きに行こうと思った。いつもはそんなことしないけれど、なんだか妙な胸騒ぎもする。あの週刊誌に出ていた猟奇殺人事件のことがあるからだ。そういう事件が起きる前には、犬や猫の不審死が出ることが多いという。人間の前に試すのだそうだ。外に猫を行かせるということは、そういうリスクもあるということ。もちろん、交通事故なども危険だし、聞いた話では、餌に毒を撒いて、家の庭に入ってくる野良猫を駆除する人もいるとか、いないとか。ひどい話だ。毒を盛るなんて。だから、保護猫団体は、譲渡する際に厳しくチェックしているのだ。


 外に出さないか、ストレスを与えるような環境ではないか、最後まで責任を持って飼うことができる年齢か、一人暮らしではないか、独身ではないか。


 団体によって違いはあるのかもしれないけれど、私が昔調べた時はそうだった。うちの猫に限ってそんなことはないと思うけれど、きっと被害にあった少女のご家族もそう思っていたのかもしれない。思春期によくあることだとか、普通に見えていても、子供達の心の中はわからない。思いたくないけれど、「まさか、うちの子が」である。


――心配しなくっても、いつも通りだってば。でも、なんかね……。気になっちゃたら一応、調べときたいっていうか。うん。


 リビングを出て、階段を登り、子供部屋へと向かう。


「光、夢輝、準備ちゃんとしてるー?」


「うーん!」


 元気な声で返事をするところをみると、夢輝の機嫌も治ったとみた。きっと光が上手に話してくれた気がした。不機嫌なまま出かけても楽しくないと、きっと思っているのだ。だって、久しぶりの家族でお出かけなんだから。


 子供部屋のドアをノックして、開けると、着替えが終わっている二人と、脱ぎ捨てたパジャマがベッドに放り投げてあるのが見えた。いつもなら畳みなさいとすぐに言うところだが、まずは猫が来てないか聞かなくてはいけない。


「ねぇ。福ちゃん部屋にいる?」


「えー? いるよ、ほら」


 福助は二段ベッドの上、光が普段使っている方のベッドの上で気持ちよさそうに丸まっている。私の声に気づいたのか、耳がひくっと動いてこちらに向いた。


――良かった。福ちゃんは無事。って、無事なのは当たり前なんだけどね。


「お母さん?」


「いや、福ちゃん、ちゃんと家にいるかなって思って。ほら、雨降るしさ。下に降りてくる時は、福ちゃんがいつでも部屋から出れるようにドア少し開けといてね」


「うん。もうご飯できた?」


「できたよ。おにぎりにした」


「何の具?」


「鮭と梅干」


「えー! 鮭嫌い」


「じゃあ、私の梅干あげる! 私鮭の方が好きだもん」


「やった! じゃあお姉ちゃんと交換する! 」


 そう言いながら子供達は私の横をすり抜けて、一階へと元気に階段を降りていった。


「光、お味噌汁あったかいから、よそってねぇ」


「はーい」


 これで子供達の朝ごはんはもう気にしなくていいだろう。ひとつ出かける前のミッションがクリアしたと思った。あとは、貴志君を起こしてあげなくては。


 ここ最近お疲れだったようで、朝私が起きても、全く気づかずに寝ていた。よっぽど不具合処理が難航したのだろう。丸々一ヶ月くらいはかけて処理作業をしてた気がする。できるだけ、気持ちよく目覚めさせてあげなくては、かわいそうだと思った。


――子供に起こされるんじゃなくて、良かったかも。きっとベッドに飛び乗って起こすと思うもん。


 福助がいつでも子供部屋から出られるようにと、いつも使っている、ドアストッパー代わりのクレーンゲームでとった猫のぬいぐるみをドアに挟み、寝室へと向かう。寝室のドアをそっと開けると、貴志君は案の定、まだ布団をかぶって寝ていた。ベッドに手をついて、顔を覗き込むと、まだ夢の中にいるのが分かる。穏やかな寝顔だから、嫌な夢ではなさそうだ。


――本当、幸せそうな寝顔だなぁ。


 少し白髪の混じった短めの髪は、寝癖がきっとついている。枕にへしゃけた髪が曲がって押し付けられているからだ。起きた時にはきっとその曲がったところが上に伸びているのだろう。いつも通りの寝癖だなと思った。そういうちょっとだらしない感じのところが何だか愛しい。


 最近の貴志くんは、少しお腹がぷっくりしてきたけれど、大学時代は山岳部で、元々の身体つきはがっしりとしている。今も製造業の工場の中にいるから、管理者といえども、重たい荷物だって運んでいると思う。パートさんが重たい金属部品をいくつも運んでいる作業を見ると、つい手伝ってしまう性格なのだから。そういう優しいところが好きだった。いや、今も好きなのだけれども。昨日の夜も、そんな日常を過ごしていると分かるような、たくましさを感じる腕だった。


 寝顔を見ていたら、もう片方の手でつい、貴志君の頬を触ってしまった。昨日の名残りが心のどこかにあるのかもしれない。複雑な残り香だけれど。でも、愛しいと思う気持ちがふわっと胸の奥から浮き上がってくる。指で、目をそっと撫でる。二重瞼の目尻には最近しわが増えた気がする。でも、それはどちらかと言うと優しく流れている笑い皺だろう。大変な時でも、よく笑う人だから。


「ん……」


――いけないいけない、起きちゃうじゃん。って、起こしにきたんだった。


 ベッドサイドの時計を見ると、まだ七時半だった。


――もう少し、寝かせてあげようかな。九時までに家を出れればいいよね。


 私はそっと寝室のドアを閉めて、リビングへと戻ることにした。あと二匹の無事をまず確認しなくてはならない。

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