第二十四話

「それで? あの変な紙、その雪さんって女将さんに渡したの?」


「うん。別に私も持っていたくなかったし。なんか、その自販機の防犯カメラに映ってるって話聞いたら、怖くなっちゃたしね」


「確かに怖いよねぇ、だってそれって、うちから車ですぐそこだろ?」


「そうなの! そこに来て雪さんの持ってきた週刊誌の記事の内容がねぇ、もう、本当読んでて気が滅入っちゃって。だから、仕事終わりにうちに来てもらって、雪さんにあの紙渡しちゃった。なんか、気持ち悪いものが家からなくなって、良かったって思っちゃったよ。はい、ビール。今日は三本までなら許してあげよう」


「三本もいいの!?」


「だって、ここ一ヶ月くらい、不具合品の選別作業とか、対策書とか、めちゃくちゃ大変だったもんね。やっと終わったんだしいいんじゃない? それとも、二本にしとく?」


「やー! うれしい! 今日は三本も飲める!」


 夫の貴志君は、取引先に納品した後で発覚した、組み立て部品の不具合品対応にここしばらく追われ続けていたけれど、ようやく今日、その全ての処理が終わったということだった。そんな日は、飲みたいだけ、飲んでもいいと思う。でもそう言うと、ついもう一本、もう一本となる気がしているので、本数指定をしてあげた。一ヶ月に購入する缶ビールの本数は、大体予算枠が決まっているのだ。


 リビングのソファでビールを飲みながら、幸せそうにテレビを見ている貴志君の背中を見ていたら、ふと、後藤さんの働いている姿を思い出した。


 後藤さんはお母さんと二人きりの家で、夜は何をしているのだろうか。きっと、親しい友人がいても、外出することはできないだろう。やけに白い蛍光灯が灯る、寒い色の部屋の中で、お母さんと二人、テレビを見ているのだろうか。


――キナコの手紙がなんでもなかったらいいな。


 またふとそう思った。最初にキナコの手紙の話をした時に、雪さんが後藤さんの家の話をしていたからだ。その時に思い出した、テレビで見た介護特集。親子二人で暮らしている男性が、お母さんが要介護になったことで働きにいけなくなり、生活に困窮しているという内容の番組だった。あのテレビに映っていた人も、後藤さんと同じくらいな年齢だったはずだ。


――もし、指紋が一致しなかったとして、そしたら一体誰が書いた手紙なんだろう……


 後藤さんみたいに、介護問題で生活に困窮している人が書いたのだろうか、それとも、ただの悪戯か。指紋が一致しなくても、手紙をキナコにつけたのは誰かは、わからないままだ。


「おとーさーん! ねぇ、明日はどっか行くよねぇ? だってずっとどっこも行ってないもんね」


 夕飯の洗い物をしながら、そんなことを考えていたら、光が夫に話しかけている声がリビングから聞こえてきた。不具合品の選別作業や、その他の処理業務で、ここ最近の週末は家族で出かけることもなかったから、きっと子供は子供なりに我慢していたんだろうと思った。光は現在、小学五年生。あと一年とちょっとで中学生だ。いつスマホを渡すことになるんだろうか。もう友達に持っている子がいるって聞いているから、きっと中学生になる時には渡すことになるかもしれない。


――正直怖いなぁ、スマホ。


 そう思ったら、週刊誌に書いてあった事件の様子を思いだしてしまった。――まるでこれから食べるみたいに、綺麗に処理をされていた――綺麗に処理とは、後藤さんが魚を捌く時にしているようなことだろうか。頭の上の、首の骨と尻尾の付け根を出刃包丁で勢いよく切り、水に晒しながら血を抜いて、それからお腹にすうっと一本線で包丁を入れて、そして手を差し込み、内臓を綺麗に優しく取り除く。


 思い出してはいけないことを思い出してしまった。頭の中に浮かんでくるのは、板前姿の腕まくりをしたかっこいい後藤さんなのに、なんだか別の映像も裏側で同時再生されているような気分になった。


――嫌だ。もう、あんなの読んだからだ……雪さんが変なもの見つけてくるから……忘れろ忘れろ


 忘れろと思えば思うほどに、また浮かんでくるのはなんでだろうか。私は、頭に浮かぶ映像を消し去るべく、白い皿にこべりついたトマトソースを勢いよくスポンジで擦った。


「ひゃっ!」


 擦った勢いが強すぎて、オレンジ色になりかけた、トマトソースが溶けた泡が顔についた。


――あぁ、もうっ!


 それを急いで濡れた手で拭いた、その手に、トマトソースの真っ赤な破片が乗っている。


「やっ!」


 急いでそれを振り払って、ふぅ、と、ため息をついた。


――落ち着け。何にも事件は起こってないし、キナコの手紙もただの悪戯!


「おかーさーん! 明日、水族館行くことになったよ!」


 私が一人台所で妄想と格闘している間に、光が貴志君と天気予報を見ながら、明日の行き先を相談していたらしい。明日の予報を見て、雨が降るといけないから、水族館に行くことに決めたと嬉しそうに話している。弟の夢輝は、スイミングで疲れてしまったのか、夕飯を食べてすぐに眠りこけてしまっている。でもきっと、水族館なら夢輝も喜ぶはずだと思った。いつも見ているCTubeで捌いているお魚が、きっとたくさんいるだろうから。


 そう思ったら、何か胸に変な塊が生まれた気がしたけれど、楽しそうにしている我が子を見ると、それは気づかなかったことにした。せっかくのお出かけを、変な想像で台無しにしてはいけない。全く、なんてものを読んでしまったのかと後悔したが、あの状況で、私に拒否権はなかった。



 その夜、目を閉じるたびに、読んだ記事の映像が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。だから、その夜は、貴志君と久しぶりに愛し合ってから眠りについた。貴志君に肌を撫でられ、キスをされて、感触を確かめ合う事で、私の存在はその記事の中ではない世界にあって、自分の居場所は愛の溢れる家族の中にあると、確かめたかったのだ。


 安心できる居場所を確認したかった。

 それだけで夫に抱かれても、私はいいと思ってる。


 


 

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