第二十話

 名残おいしけれど、最後のひとかけらを口に含んだ。こんなに美味しい鰻はもう二度と食べられないと思いながら。


「はぁー、美味しかった! 雪さん鰻の頭も香ばしくて美味しかったですよ!」


「そう、それは良かったね智美ちゃん。タレの味が美味しいから」


「もうタレだけでご飯食べれちゃいます。そこに来て頭が香ばしくて美味しかったです」


 智美ちゃんのお代わりしたどんぶりには、硬くて食べれなかった鰻の頭の骨らしきものが入っている。それは原型をとどめることなく、噛み砕かれたほんのり茶色い残骸だった。横目でチラリとそれを見ながら、私はお茶をすする。智美ちゃんすごいなと思いながら。しかし、本当に美味しい鰻だった。


 今日の鰻の記憶が、智美ちゃんのどんぶりに入っている鰻の頭の残骸で終わっては勿体ない。もう一度脳内で天然鰻の味わいを思い出して、その味わいを決して忘れまいと、脳裏に保存した。


「雪さん、いいですか?」


 私が目を閉じてお茶をすすっていると、後藤さんの声が聞こえた。個室の扉がガラガラっと開き、板前服を脱いだ後藤さんが顔を出す。きっともう自宅に戻る時間なのだろう。後藤さんは要介護のお母さんを自宅でお世話している。だから、昼休憩の時は自宅に戻ってお母さんの様子を見てくるのだ。


「後藤さんも食べた?」


「はい、いただきました。やっぱりすごいですね、肉厚で。旨味も強い。出せたらいいですけど、あとは仕入れの価格ですよね」


「そうねぇ、季節の物っていうのもあるしね。天然鰻の旬は秋でしょ? 秋限定、しかもその値段が出せるお客さんにしか出せないわね」


「季節限定の要予約なら、できるかもしれないですけど、時価で。越前蟹みたいな感じです」


「それならいけなくもないわねぇ。まぁ、明日、伊藤先生達が来た時に出して、聞いてみましょうか」


「はい。明日は一口サイズの蒲焼でお出しする予定です」


「そうね、それがいいかも。ありがとう、後藤さん。で、もう家に戻る?」


「はい。また五時に戻ってきますんで」


「お母さんにも鰻少し持っていってあげてね。あの柔らかさなら食べれるでしょ」


「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく少しいただいて帰ります」


 後藤さんは「ではお疲れ様です」と言って、扉を閉め、自宅へと戻っていった。きっと後藤さんは鰻にどうしても残ってしまう小さな骨を丁寧に取って、お母さんに食べさせてあげるんだろうなと思った。その姿を想像したら、少し胸がくっと縮まる気がした。


――本当に、優しい良い人なんだよなぁ。


「本当、後藤さんはいい息子さんだわ」


 雪さんも同じことを思っていたのか、と、つい雪さんの顔を見て目があった。もうすっかり私たち三人は贅沢な賄いご飯を食べ終えている。


「ですよね、お母さん思いで。素敵です」


 つい思ったことを口にしてしまった。でも、本当にそう思っているのは事実。ときめきではない。尊敬の方だ。結婚もしないで、要介護のお母さんをお世話しているなんて、なかなかできることじゃないと思うからだ。


 もしも自分の親が要介護になったら、私はどうするんだろうか。今の家に来てもらう? それとも施設に入ってもらう? その費用は? じゃあ貴志君のご両親が要介護になったらどうする? この問題は、まだ遠い問題だと思っているけれど、実はいつでもすぐ目の前にやってきてしまうことかもしれない。だから、後藤さんへは、そういう意味での、尊敬であって、決して恋心的なときめきの素敵ではない。


――うん。


「幸子さん後藤さん好きなんですかぁ?」


「は!?」


「いや、うっとりとした目で素敵とか言っちゃうから」


「全然そんなことじゃないよ! お母さんの面倒見ててすごいなって思ってるだけだよ」


「へー」


「もう、智美ちゃんからかうのやめてよね!」


 やっぱり智美ちゃんは場が読めない人だと思った。でも、まぁ、それが智美ちゃんなんだけど。


「本当、偉いわよねぇ、私も尊敬するわ。本当できた息子よねぇ。うちの息子はそんなふうに私にしてくれるかどうか。大体、私が人生かけて作り上げてきたこの店を継ぐ気もないし。全く」


 雪さんはどうやら後藤さんと自分の息子さんを重ねているようだ。この話題は雪さんの地雷を踏んでしまう恐れがあるので、私は愛想笑いだけをして、話題が変わるように、何か他の話題はないかを考えた。


「そういえば、とんかつ立花ご馳走様でした。すごく美味しかったです」


 話題を変えようとしたら、よりにもよって、とんかつ立花の話題が口から出てしまった。美味しかったと言いつつ、立花の店長さんが言っていたことを想像して、味わうことができなかったのに。


「そう、とんかつ立花ね。そうそう、あの時店長が言っていた事件なんだけどね」


――しまった。そりゃ、そっちに話題が飛んじゃうよねぇ。


「あれ、新聞だと、家出少女の猟奇殺人事件って書いてあるだけじゃない? でも週刊誌を読んでたら、もっと詳しく書いてあってね、新聞では書かれていないことが載ってたの! そうだ、思い出した! さっちゃんに見せてあげようと思って、買っておいたんだったわ。今持ってくるから待ってて! まだ時間大丈夫よね?」


 時計に目をやると、まだ午後二時四十分だった。今日はお天気がいいので、自転車で来ている。と、いうことはまだ一時間弱は時間がある。でも、正直その話は聞きたくなかった。そんな怖い事件の話はあまり面白い物ではない。しかもそれにうちのキナコが関わってるって想像しただけでも、気持ち悪い。いや、関わっていることはないと思うけれど。これは何か言い訳をつけて早々に帰らなくては。


「あ、あの雪さん、私、きょ……」


「まだ二時四十分だもんね、まだ大丈夫よね、すぐ持ってくるから!」


「あ……」


 雪さんは、またもやこちらの都合はお構いなしに走っていってしまった。いつものことだけれど。思い立ったらすぐ行動の人なのだ。悪気があるわけでは決してない。けれど、なぜかいつも心が少しモヤッとするのはなぜだろうか。


――仕方ないなぁ。付き合うしかないかぁ。だって、今日はこんなに美味しいうな丼食べさせてもらったんだし……。


 そうは思いながらも、やっぱり気乗りはしなかった。

 

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