第十九話

「あら、頭焼いてもらったの?」


「へへ。焼いてあったんですよ。後藤さん食べれるところは残さず調理するじゃないですか、いつも。頭は香ばしく少し時間かけて焼いたらしいですよ」


 智美ちゃんの持ってきたどんぶりのご飯の上に乗っている鰻の頭は、確かに香ばしく焼けていそうだった。でも、その見た目は結構グロテスクで、私だったら勧められても頂かないような気がした。


「これでまた天然鰻丼です!」


 美味しそうに鰻の頭をかじる智美ちゃんの口から、鰻の口先が出ていて、目玉があった場所がちょうどこちらを向いている。美味しい美味しいと首のあたりをかじるとゆらゆら動く鰻の焦げた頭が、恨めしやと揺れているような気がして、少し怖い気がした。


 せっかくの天然鰻のうな丼が、またこないだのとんかつ立花みたいになってしまっては勿体なさすぎる。左隣の智美ちゃんのことは視界に入れず、目の前のうな丼だけを見て楽しむことにした。こんな機会は滅多にないんだから。


 それにしても、これ、いくら位するのだろうか? そんな事を考えた。普通のうな丼は千九百八十円だけど、それでは到底食べれないだろう。倍くらいだろうか?でもそんな四千円近いうな丼を食べるお客さんはそうそういないはずだ。やはり、これは幻のメニューで、後世に語り継がれるべき「海鮮ゆきちゃん」伝説の賄い飯になる、と思った。後世と言っても、雪さんには跡取りがいないけれど。と、いうことは、今日だけの特別な賄い飯ということだ。


――味わって食べよ。もう二度と食べれないはずだもん。


 そう思いながら、また一口鰻を噛んで、口の中に溢れ出る旨みを楽しんだ。皮の焼き加減も最高だ。そして、後藤さんのタレの味わいがまた鰻の甘さを引き立たせている。


――美味しい。これはすぐにご飯を口に含みたくなるぅ。


 鰻を一口、ご飯を一口、どんどん減っていくどんぶりの中の鰻が名残惜しかった。一旦、どんぶりをテーブルに置き、肝吸いをいただく事にした。お椀を両手で持ち、顔に近づけて香りを嗅ぐ。


――鰹出汁の香りがランチ用のお吸い物と違う?


「あら、後藤さん一番出汁ちゃんと引いて作ってるのね。さすがだわ」


 目の前に座っている雪さんもどうやら肝吸いに手を伸ばしたらしく、肝吸いを一口飲んでそう言った。


―― 一番出汁をわざわざ引いたんだ。


 一番出汁はそれだけでもう高級なお料理だと私は思っている。


 ここで働き始めて知ったことだけれど、一番出汁は、乾燥した昆布をゆっくりと鍋の中で温めて旨みを引き出し、沸騰し始める手前で昆布を取り出してから、鰹節を入れて作る。もちろん昆布もそんなに安いものではない。我が家はお手軽な顆粒出汁だから、購入する機会さえない代物だ。それだけでも、非日常なのに、その後に花鰹をふんわりと重ならないように鍋に散らせて、頃合いを見計らって濾すことで、美しい黄金の一番出汁が出来上がるのだ。我が家には花鰹も置いていない。


 しかも後藤さん曰く、一番出汁の風味はあっという間に消えていくらしい。一番出汁を引いた瞬間からその風味が劣化し始め、本当に一番出汁の風味を味わえるのは、十五分くらいまでだと確か言っていた。もちろん旨味は残るから冷蔵保存して使うことはできるけれど、一番出汁の香りを楽しめる本当の美味しさは、出来上がってから少しの間だけなのだそうだ。なんとも贅沢な出汁だ。出汁というより、もうそれだけで立派なお料理だと思ってしまう。


 とはいえ、普段「海鮮ゆきちゃん」でお客さんに提供しているお吸い物は、雪さん厳選の顆粒出汁で作っている。具は蟹味噌豆腐とお麩、三つ葉だけの簡単なものだけど、お客さんには好評なのだ。智美ちゃんは蟹味噌豆腐は好きではないので、入れてこなかったけれど。そういう複雑な味は智美ちゃんのお好みではないらしい。


 本当は一流の日本料理店で働ける腕を持ちながら、「海鮮ゆきちゃん」で働いている後藤さんは、少し勿体ない気もするけれど、だからこそ、こうして美味しい賄いが食べれるし、お客さんにも喜んでもらえているのだと思った。


――さすが、後藤さんです。めちゃくちゃ風味がいいです!こんなの飲んだことありませんよぉ。


 もう一口肝吸いを丁寧にすすり、その仕事ぶりに感動する。


――鰹の風味が染み渡る。幸せだぁ。


 後藤さんが板前服の袖をまくり、そこから見えるたくましい腕の先の、職人らしい手からふんわりと花鰹が鍋に落ちる姿を思い出した。やはり、後藤さんは素敵な人だ。あのちょっと、とっつきにくそうな風貌も、清潔感のある刈り上げた髪型もかっこいい。


――そこ、ときめいたりはダメだから。


 いや、ときめいたりはしてないはずだ。ちゃんと夫を愛している、と思ってる。でも、家庭の中に入っていても、時にはそう誰かに思うことがあってもいいのかもしれない。どうこうなりたいと思うわけではないし、浮気をする気もないのだから。ただ、ときめく瞬間があるというだけだ。


――うん。


 何を考えているんだ私はと思いながら、箸で肝吸いに入っている鰻の肝を優しく摘み、口に運んだ。歯を使わなくてもいいくらいに柔らかいその鰻の肝が、口の中でとろけてゆく。


――あぁ。すごい甘みだ。


「めちゃくちゃ美味しい」


 声に出ていた。すると、それを聞いた雪さんと、目があった。


「物凄く甘いわよね。そして臭みがない! これは板前の腕ね。さすが後藤さんだわ。下処理がきちんとしてあるのね」


「そうなんですね、下処理。さすがです。こんな美味しい肝吸い、私、初めてです」


 一番出汁の風味は一瞬一瞬で劣化してしまう。だとすれば、まずは肝吸いからいただくべきだったと、少し反省した。きっと後藤さんは、私たちが最高の状態で肝吸いをいただけるように、時間もコントロールして調理していたはずだから。


――まずはこちらからだった。ごめんなさい、後藤さん。最高に美味しいです!


 そう思いながら、もう一口食べたら鰻の肝は消えて無くなってしまった。あとは、丁寧に引かれたお出汁を楽しむことにした。智美ちゃんはこんなに美味しいお出汁よりも、いつものお吸い物の方がいいだなんて、勿体ないことをしているけれど、そういうところに興味がないのも、また智美ちゃんらしいところだろうと思った。思ったけれど、智美ちゃんの方を向くのはやめた。鰻がこちらを睨んでいるかもしれないと思うと、見ない方がいいと思う。


――今は人生最初で最後の天然鰻、しかも黄金の天然鰻を味わい尽くすんだから。


 そう思いながら、胸の中のどこかで、何か引っ掛かりがあるのを感じていた。それは一体なんの引っ掛かりなのか、それは私にもわからなかった。

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