第三章

第十七話

「それで、 結局キナコちゃんは、何にもつけて帰ってこなかったのね?」


「はい、いや何もというよりは、ついてなかったけど、ついてたんです」


「ん? ごめん、さっちゃんそれってどういうこと?」


「ついてたものが、取れて、かけらが残ってた、みたいな感じで、赤い首輪に少しだけ紙が残ってるという感じでした」


「雨だったもんねぇ」


 結局、雪さんと一緒に捜査した水曜日の夜に、キナコは普通に猫専用ドアから帰ってきたけれど、その首輪には何もついていなかった。雪さんのいうように雨だったから濡れて取れてしまったのかもしれないけれど、猫とは不思議な生き物で、キナコの体は濡れてはいなかった。だから私たちが書いて結んだあのお手紙がどうなったかを知っているのは、キナコだけと言うことになる。でも私には猫語は分からないから、事情聴取をしようにも無理な話だ。目の前の雪さんはとても残念そうな顔をして、黒い樹脂でできたお客様用テーブルに頬杖をついている。


 今日は金曜日、これから賄いご飯なのだ。智美ちゃんが今日のご飯を運んできてくるのを待ちつつ、雪さんと二人、先に一階の個室にやってきて、うちの飼い猫のキナコが運んできた手紙の謎解きの続きをしている。謎解きといっても、大した謎ではない。キナコの首輪についてきたお手紙にお返事を書いたけれど、その先のお返事が来なかった、と言うだけのことだ。しかも、それ自体が誰かの悪戯かもしれない。そんな大袈裟な話ではないのだけれど、水曜サスペンス劇場が大好きな雪さんにはとても興味深い事件だったのだ。


「なんか残念ねぇ。そこから始まるのがサスペンス劇場では普通なのに」


 ため息まじりにそう呟いた雪さんの言葉を聞いて、サスペンスってなんだったけ? と少し思った。サスペンスと聞いてイメージするのは、殺人事件などの凶悪犯罪なのだが、雪さんはそういう類の事件を解決したかったのだろうか。それだとかなり怖い話になってくる。できれば自分の人生において一度たりとも関わりたくない。そう思っていたら、個室のドアの前で、智美ちゃんの声が聞こえた。


「開けてくださーい! 手がいっぱいで開けれないー!」


「あ、ごめんごめん、気づかずに。ありがとう、智美ちゃん」


 急いで木の引き戸を開けると、濃い飴色の照りが美しく光るうな丼を三つお盆にのせた智美ちゃんが立っていた。今日の賄いご飯は豪勢に、天然鰻のうな丼なのだ。


 一週間ほど前、「またぎの店タヌキ」の大将が、この「海鮮ゆきちゃん」にご飯を食べにやってきた時に、雪さんと天然うなぎの話で盛り上がったそうだ。そこで、自分で獲ってきた食材の卸もやっているタヌキの大将が、それなら一度使ってみてよと言って、試食用に特大の天然鰻を持ってきたとのことだった。


 私も今日出勤した時にまだ生きているその天然鰻を見たけれど、それはそれは大きく太い鰻で、黄金に輝いていた。天然鰻の旬は秋で、その頃の天然鰻は黄金に輝くのだと後藤さんに教えてもらったけれど、それはそれは神々しい姿だった。その鰻が後藤さんの手によって捌かれ、今、目の前にうな丼として現れたのだ。


「すごいいい匂い!」


 うな丼をテーブルに置きながら智美ちゃんが言うのを聞いて、私の鼻に届いていた甘く香ばしい香りが、私の口の中につゆを溢れさせた。ゴクリ。思わず唾を飲み込んでしまう。普通のうな丼と比べても、分厚さが倍ほど違って見える。ふっくらと盛り上がったその身に後藤さんお手製のタレが艶々光り、なんとも美しい。今まで一度も見たことがないような、うな丼だった。


「思った通り、すごい分厚さだわね。あとは皮の硬さとか、臭みとか、仕入れ価格と販売価格だよね。さ、まずはいただきましょうか」


「めっちゃ豪華!」


「あ、私、山椒取ってきましょうか?」


「本当だ、山椒がないわね、ありがとうさっちゃん、あ、ついでに吸い物も三ついるなら持っておいで」


「あ、私吸い物欲しいです」


「智美ちゃんは吸い物、雪さんどうします?」


「じゃぁ、頂こうかな、あ、後藤さんまだいるわよね? 肝吸いできないか聞いてみて」


「え? 肝吸いじゃなくて私普通のがいいです。ランチで出してるやつ」


「智美ちゃんは普通のね、オッケーです。後藤さんにちょっと言ってきます」


 今すぐにでもあの分厚い鰻にかぶりつきたいし、口の中はもう唾でいっぱいだけど、厨房へ取りに行くことにした。山椒がないなんて、せっかくの天然鰻なのに、もったいない気がしたからだ。でも、山椒を取りに行くと言ったおかげで、肝吸いまでいただけることになったのは、嬉しかった。天然鰻の肝吸いなんて、そうそう食べれるものではないはずだ。


 「海鮮ゆきちゃん」は、雪さんの人柄で、いいお客さんを沢山持っていると思う。同業者の仲間も多いし、常連のお客さんの中には、釣りが趣味で釣ってきた魚を格安で買い取ってもらう人もいる。


 こないだいた来たお客さんは、とてつもなく大きな美しい鯛を五匹も釣ってきて、一匹三千円程度で売って帰っていったらしい。そういうお客さんは大体釣りの帰りに店に寄るので、私はお会いしたことはないが、すごい釣り名人がいるものだと、次の日その大きな鯛を見て思った。


 船をチャーターして、有名な釣り場で釣ってきたその大きな鯛は濃い桜色が美しく、雪さんの話によると、ちゃんと船の上で神経締めというものがしてあって、身が悪くなってない鯛とのことだった。そういう船は一日チャーターすると十万円以上するらしい。


「十万円以上も出して、船で釣りに行って、そこで釣れたこんな立派な鯛を一匹三千円で売ってもいいんですか?」


「さっちゃん、この鯛何匹釣れたと思う? 八匹よ? 夫婦二人暮らしでは食べきれないでしょ?」


「確かに、冷蔵庫にも入りませんよね、捌いて分けたとしても、普通の家の冷蔵庫じゃ鯛だらけになっちゃう」


「頭も大きいでしょ? 捨てるなんてもったいないし」


「確かに。この頭一個で野菜室が半分埋まっちゃいそうです」


「柚木さんは釣りに行って、大きな魚を釣るのが楽しいのよ。だから釣った後はうちで捌いて、欲しいだけ持って帰って、食べきれない分はうちで買い取ってもらって、それを今度の釣りの費用の足しにしてるの。ご近所さんにあげるのも、限界でしょ?」


「そうですね、私も鯛丸々もらったら、どうやって調理していいか困っちゃいます」


「そういうことなの。うちも良くて、柚木さんも良い。ウィンウィンなのよぉ」


 そう言って買い取った大きな鯛は、後藤さんのおおきな木のまな板の上で見事に捌かれ、切り身になって、店の大きな業務用冷凍庫へと仕舞われたのだった。その鯛は十二月まで冷凍庫の中で眠り、大晦日に販売するお節の中に入るそうだ。なんとも豪華なお節である。


 きっとそういうところで利益を上手に出して、いつもはあまり利益がない大盤振る舞いでも、店が存続できているのではないかと、私は思っている。きっと「海鮮ゆきちゃん」の常連さんたちも、同業者さんたちも、雪さんのこのお店が好きなのだ。だから、きっと続いているのだろう。


――みんなにとって、なくてはならない店だよね。後藤さんにとっても。


 後藤さんは白い板前姿で背中をこちらに向けている。五徳が直接台の上に置かれているガスコンロの前で何やら作業をしてるのだ。こういう時は、慎重に声をかけなければ、怒られる時がある。


「話しかけないで」


 私は最初そう言われた時、身が縮こまった。その事があって、後藤さんは怖い人だと最初の印象で決め付けていたけれど、実際はそんなことはなく、焼き加減を見極めている最中は、集中を切らしたくないらしいとのことだった。後藤さんのそういうところが職人さんぽいと思った。きっと日本料理店での修行中、そう教えられてきたのだろう。


 では、今はどうか、話しかけてもいいものなのか、後藤さんの様子を伺っていたら、それに気づいたのか、後藤さんがこちらを振り向いた。


「肝吸い今できるんで、もうちょっと待っててください」


「あ、はい。じゃあ山椒先に持ってとっきますので、また取りに来ます」


「はい。後数分」


「了解です」


 どうやら雪さんの考えを察して、もうすでに肝吸いを作っていたらしい。さすが後藤さんだと思った。雪さんと息がぴったりだ。


 私は智美ちゃんの普通のお吸い物を作り、山椒を持って賄いご飯を食べる一階の個室に戻ることにした。ランチ用の吸い物を作ってなんていいながら、くるくるまるまった乾燥したお麩と、三つ葉が入った器に吸い物出汁を入れるだけだけど。


 毎朝仕込む、鰹の効いた吸い物出汁を入れると、三つ葉の細胞が熱でゆだり、清涼感のある香りがしてきた。私はこの三つ葉の香りが好きだ。きっと肝吸いにも三つ葉は入っているだろう。そう、肝吸いに期待を寄せながら、お椀に蓋をかぶせ、二人が待つ個室へと戻るのだった。

 

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