第十六話

 必要なものが最低限揃えられているだけの、部屋。リビングから見えるキッチンには冷蔵庫と電子レンジ、給油ポット、食べたものをいれるゴミ袋しかない。レトルトの食べ物や、ちょっとしたお菓子はダンボール箱に入れてあって、いつもそこから好きなものを取り出して食べているし、冷蔵庫の中にはミネラルウォーターが冷やしてある。トイレもあればお風呂もある。だから、生活するのに何にも不自由はしないのだけれど。


――なんかおかしい。


 生活できる最低限。でも、何かが足りない気がする。何が一体足りないんだろうか。もしかして、今のこの状況は、生活できる最低限じゃなくて、生きることができる最低限なんじゃないのか。


――いやいや、家出するのを助けてもらって、それで食べ物も寝る場所もあるんだし、トイレだってお風呂だってあるんだし、これはこれで最高じゃん?


 そう思ってみるも、やはり何か胸に引っかかるものがある。それはなんなんだろう。自分の目的はちゃんと果たせているはずなのに。二階のさっきの部屋が気持ち悪くて、そう思い始めてしまっただけなんじゃないだろうか。二階へ行こうと思うまでは、スマホは圏外だし、暇すぎるけど、それなりに快適にしていたはず。


「そうだ、スマホ!」


 思い出してスマホを見てみたけれど、やっぱり圏外のままだった。でも、さっき読んでなかったRINKの表示がまだ緑色のアプリの横に数字として現れていた。既読にしなかったらその数字は消えないで残り続ける。私はさっきお父さんと、ママと、お兄ちゃんからのRINKしか開いてなかったことを思い出し、RINKのアプリをタップして、他のメッセージを読むことにした。


 そうすれば、少し誰かと繋がっている気がすると思った。もしくはさっきの怖い体験を忘れれるような気がした。だから、急いで、アプリを開いて読むことにした。右手の指が、緑のマークをタップして、アプリが開く。ずらっと並ぶ登録している人のアイコンと名前を見ながら、誰のものを読もうかと思った。


――そうだ、美樹。


 土曜日に泊まることにしてもらった美樹のRINKをタップする。メッセージ数は16と表示されていた。土曜日の夜から届いている。


〈 いっちゃんの親から連絡今日はこなかったよー!楽しんでね! 今度彼氏の写真見せてね!楽しい夜を〜〉


――やっぱり、お父さんは美樹の家に連絡しなかったんだ。


 そう思ったら、胸がむかむかしてきた。でも、さっきの怖さは少し和らいだ気がした。だからそのまま美樹からのRINKを読み進めることにした。


〈 いっちゃんの親から連絡あったけど、まだ家に帰ってないの? めっちゃ聞かれたんだけど。うちの親にもどう言うことだって私が叱られたんだけど? どうなってるの? 説明してよね〉


 それを読んで、胸のなかでさぁっと何かが引いていき、代わりに冷たいものが押し寄せてくる様な気がした。そこまでは考えていなかった。私が家に帰らなかったら、当然泊まるといっていた友達に連絡するに決まっている。あの金曜日の夜、家出をすることで頭がいっぱいで、そんな事を思いもしなかった。今思えば当然考えなくてはいけないことだ。


――まずい、すぐに美樹にRINKしなくちゃ。


 でも、スマホはいまだに圏外で、連絡しようにもメッセージを送ることができない。


――どうしよう。またこれで美樹と仲が悪くなっちゃうかもしれない。


 急いでその下にあるメッセージを読む。


〈いっちゃん、無視? それはなくない?〉


〈連絡してよね。うちの親にも説明ができないじゃん〉


 怒ってるとわかる、顔を真っ赤にした白いウサギのスタンプを何度も何度も押しながら、メッセージが続いている。日曜日のRINKはそれで終わっているようだった。時間は深夜。きっと美樹はその時間まで親に叱られていたのだと、思った。


 申し訳ないことをしてしまった。もしかしたらそれが原因で、美樹も彼氏と泊まったりできなくなるかもしれない。きっと以前より疑われやすくなるに違いないと思った。親とはそういう生き物である。他人の子供で何かあれば、自分の子供もそうじゃないかと疑ってかかるからだ。


 日曜日の最後は最高潮に怒ってるとわかるような動く鬼のスタンプで、「マジムカつく」と文字が浮かび上がっていた。でも、次の月曜日の夜からまた、メッセージが来ていた。


〈 いっちゃん、どうなってるの? まだ帰ってないってさっき親から聞いたけど?〉


〈 ガチの家出なの?〉


〈 おーい! 連絡してねー! 待ってるからねー! 心配だよー!〉


 なんだかんだ、心配してくれているんだと思ったら、さっき押し寄せてきた冷たい波が少し引いた気がした。


――よかったぁ。心配してくれてる。やっぱりなんだかんだ言っても友達だな。ありがと美樹!


 そう思って、メッセージを打とうと思ったけど、やっぱりスマホは圏外で、メッセージを打つことができなかった。この圏外は一体いつまで続くのだろう? 神街さんが言うように、何か設定がおかしいんだろうか? そう思って、設定を開いてみたけれど、何にも特におかしいと思わなかった。Wi-Fiがないのは当たり前だけど、やっぱり圏外マークが取れる設定はどこにも見当たらない。


――そうだ、外に出てみればいいんじゃん。


 今は昼間だし、変質者もいないと思った。もっと早くそう思えば良かったのに、何故思いつかなかったんだろう。誰かに見られて連れ戻されたらまずいと言う気持ちが大きかったからかもしれない。


 私はソファから立ち上がって、リビングの窓に近づいて、重くて白いカーテンを開けた。でも、何かが少しおかしい。すりガラスの窓は、昼間だと言うのに、あまり光を取り込んでいない気がする。なぜ?


 おかしいなと首を捻りながら、窓を開けようとするけれど、鍵が開いているのに、窓は開かず、ガタガタと音を出すだけだった。


――そういえば、立て付けが悪いって言ってたけど、まさか開かないなんてことはないよね?!


 そう思って、見える限りの窓を開けようとした。リビングには外に出れるように、大きな窓が二枚入っているけれど、そこはどうも立て付けが悪いのか開かない。キッチンに行って、流し台のところにある窓も開けてみようとしたけれど、そこも鍵は空いているのに、開くことはなかった。あとは、リビングの隣にある和室だけれど、外に出れそうな場所の障子を開けると、そこもまた鍵が空いているのに窓は開かず、おまけに何かで塞がれているのか、外が全く見えなかった。


――え? まさか、外に出れない?


 そんなわけはないだろうと、急いで玄関に走って行き、玄関のドアについている銀色のノブを捻ってみたけれど、ドアもガタガタと音を出すだけで、開くことはなかった。


「うそ……」


 なんで考えなかったんだろう。神街さんが親身に相談に乗ってくれて、優しいから、全く疑いようもなかった。


――まさか、私はここに閉じ込められているの?


 力が抜けて、身体が冷たい玄関の床に落ちていく。玄関の床に貼ってある四角いタイルが私の体に接着して、私の身体を下から冷やしてくるのがわかる。


「なんで……?」


 思わず言葉が漏れた。さっき二階で見た、仄暗く赤い部屋に照らされた解剖図が脳裏に蘇ってくる。もしかして、私はとんでもないことをしてしまったかもしれない。


 今、初めてそう思った。

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