第八話

「で、結局キナコちゃんは帰って来なかったんですか?」


 合流した智美ちゃんが私たちに聞いてくるが、それほど興味はなさそうだった。なぜなら、これから注文するとんかつのメニュー表を眺めながら聞いてきているからだ。


 結局キナコは、ぱらぱらと冷たい雨が降り出しても帰って来なかった。私と雪さんが、今日のところはここまでかと言いはじめた午後一時半を少し過ぎた頃、智美ちゃんから、青柳駅に着いたと雪さんのスマホに連絡が入り、そのまま魚臭い車で智美ちゃんを駅で拾ってとんかつ立花へやってきた。


「そうなのよぉ。待ってたんだけど。近くにもいなかったしね」


「すいません」


「だから、さっちゃん、そこ謝るところじゃないでしょ?」


「すいません、本当に」


「もぉ、謝らなくっていいってば!」


 そんな会話を雪さんを挟んでカウンター席でしながら、憧れのとんかつ立花でのお昼ご飯を何にするか決めかねている。


 とんかつ立花は、噂通り、外から覗いたイメージ通りの内装で、コンクリートの打ちっぱなしがモダンな、木のカウンターだけが贅沢に伸びているお店だった。奥に座敷があるということはわかるが、カウンター席だけだと、十五六席ほどしかない店だ。


 メニュー表を見た限りで私が思うに、客単価で言うと、お昼の時間に一人二千円前後くらいのお店。夜はきっと一人当たりの客単価が三千円を超えるかもしれないと思った。夜のお客さんはお酒を飲む人もいるし、メニュー表の端っこに数行載っている一品料理をつまむ人もいると思うからだ。


――貴志君と子供とは一緒に来れないな、だって一人二千円としても、四人で八千円になっちゃうし。とんかつにその値段は出せないや。


 会社に勤めていた頃、私は経理部門で事務職をしていて、そういう領収書をチェックした記憶がある。同じ店の領収書なのに、やけに値段が違うなと思ってみてみると、発行された時間が昼間と夜で差があったりするのだ。


 手書きの場合は分からないけれど、レシートタイプの領収書だと、時間を見ればすぐに分かる。でもそれは、今いるこのお店のような個人店ではない。もう少し何店舗かある、チェーン店のようなお店のレシート型の領収書だった。昼に定食屋を利用したなら、仕事先の人と打ち合わせを兼ねての食事かもしれないが、夜の利用は、もしかしたら個人的な利用ではないかと疑いたくなる時もあったから、私はよくそのレシート型の領収書の時間を気にして見ていた。見つけたところで、意を申し立てることができる訳ではないが、なんとなく気になったのだ。


 そういえば、私が疑いたくなる領収書をよく提出していた加納さんは、社内でもあまり好かれている部類の人ではなくて、何年か前に会社を自主退職したと貴志君に聞いている。自主退職の理由は対外的には一身上の都合となっていたが、本当のところは横領。一応、会社設立当時からいるメンバーだということで、幹部のポストについていた加納さんは、会社のカードを使って、自分で使う個人パソコンを買ったのが会社にバレたということだった。


――そういえば、せこい人だったよな加納さん。だって、貴志君も言ってたもん。お昼にファミレスでご飯食べて、俺払っとくって言って、会社のカードで払って領収書もらってたって。普通お昼ご飯は、自分持ちなのに。あ、あと、MOCでハンバーガーセット頼む時とか、自腹の時は自分だけ割引チケット使うとかも言ってた気がする。


 そんな事を思い出していたら、隣の雪さんが智美ちゃんの方を向いて、「智美ちゃん、メニューをそんなに見てるけど、ここにきたらまずは黒豚ロースとんかつを食べなきゃ。店長、それ三人前お願いね」と言った。


――え? 黒豚ロースカツ定食!? えっと、これか、って、二千三百五十円!? なかなかのお値段ですよ雪さん!?


「さっちゃん、今日は私の奢りだから、遠慮はなしよ! 美味しいもの食べて捜査をしなくっちゃね!」


――顔に出てた?


「あ、はい、でもキナコ帰ってきてないし、まだなにも進んでいませんけど」


「いいのいいの!景気付け! とんかつ食べて謎に勝つ! ってね!」


「あ、はい、では、ありがたくご馳走になります。家族とは来れないだろうなと思っていたので、ものすごく嬉しいです」


「えー、雪さん私、黒豚じゃなくて、イベリコ豚が食べてみたかったのにぃ。この三千円のやつ、これ今、選ぼうとしてたのにぃ、勝手に決めないでくださいよぉ!」


「智美ちゃんは遅刻までしてきてまたそんな事を言う! 」


「えー、だってぇ」


 いつもの調子で智美ちゃんと雪さんの掛け合いが始まったけれど、私は智美ちゃんの反対側にいるので、カウンターの中にあるこざっぱりとした厨房を見ていた。


 カウンターと並行に存在している厨房は、まるでそこでの一連の作業をお客さんに見えてもらう為にあるような厨房だった。下の部分は、コンクリート打ちっぱなしの店内に溶け込むようにできていて、調理をする場所が、清潔そうな銀色の艶のないステンレスで囲われている。余計なものは厨房の上にはなく、大きな一枚板のまな板が一枚だけ置いてあって、端っこに揚げ油があるだけの、シンプルな厨房。


 そこへ、店長さんが白い板前姿で大きな肉の塊を持って来て、まな板に置いた。どうやら、注文を受けてから肉を切り分け、調理をするようだった。手慣れた手つきで白色の脂を乗せた、赤みを帯びた肌色の肉を大きな包丁で切り分けていく。後藤さんのサバを捌く姿にも見惚れていたが、とんかつ立花の店長さんの肉を切る姿もまた、見惚れてしまった。


 大きく薄い包丁は、白い脂身にすうっと吸いこまれるように入っていき、少し角度を変えたかと思うと、流れるような動きで肉を切る。一枚目がはらりとまな板の上に落ち、続いて二枚目が落ち、三枚目が落ちた。


「さっちゃん? 聞いてた?」


――あ、しまった。全く聞いていなかった。


「すいません、店長さんの肉捌きに見惚れてました」


「もう! 大事なこと話してたのに。まぁいいわ。それもこのお店の楽しみ方だしね。ね、店長」


「そうですね、お客さんに見てもらえるように設計してあるんで、見惚れてもらったら俺は嬉しいですね。今はまだ、肉を切ってるだけですけど」


「すいません、見惚れてました。すごく切れ味の良い包丁なんですね。お豆腐でも切ってるように見えました」


「そりゃそうよ、さっちゃん。だって毎日研いでいるんだから。毎日どころじゃないわね、ね、店長」


「そうですね、何枚か切ったら研ぎ直しますね。やっぱり脂がつくと切れ味がよくなくなっちゃうんで。でもあれです。研いだばっかりは金属臭がついちゃうんで、研いでから切れ味確認も含めて、店に出せない使わない肉を切って、それからまた使います」


「そういう丁寧な仕事は、やっぱりとんかつ立花よねぇ。高くてもそれだけの価値があるって思えるもん。さっちゃんあのね、このとんかつ立花は、オーダー毎に切ったお肉を霜降りしてから衣をつけてあげるのよ」


「霜降り?」


「そう、霜降り。お湯に一回くぐらすの。店長は京都の日本料理店で修行をして来ててね、その経験を活かして、霜降りをする事で肉の臭みを抜いて、同時に肉の旨味を閉じ込めてるの。手間がかかってるんだから」


「そういう事入れてかないと、特色出せないですから。親父の味を受け継ぎつつ、俺の代でも進化していかないと、雪さんとこみたいになれませんからね」


「もう、店長はいつもそう言うけどね、うちは跡継ぎはいないのよ。もうほんと、大将が羨ましいわ。ちゃんとした二代目がいて。誰も後を継がない店をやっていくのは、この年になると考えものよ。全く。私が頑張って作って来たお店、私が死んだらなくなっちゃうんだから」


 確かに、雪さんの息子さんはサラリーマンで、お店を継ぐ気はないと言っていた。雪さんがいなくなれば、私の第二の居場所である「海鮮ゆきちゃん」もなくなってしまうのだ。


「そういえば、雪さんのところにも来ましたか? もうお客さん、雪さんたちだけなんで、調理しながら話すんですけどね、昨日、警察が来たんですよ」


「「え!? 警察?!」」


雪さんと私は顔を見合わせた。雪さんが店長さんの方を向き直し聞く。


「 何か事件でもあったの?」


「なんか、こないだテレビでやってた猟奇的な殺人事件あったじゃないですか、家出少女のやつ。あれの捜査だとかで、この辺り聞き込みしてるって言ってましたよ。防犯カメラに被害者の女の子が映っていたとか、確か、そんな事言ってたかなぁ。そっか、雪さんのところまでは範囲じゃないんですかね」


「さっちゃん……」


「え、いや流石にそれは。だって、手紙を書けるって事は生きているて事ですよね」


「でも、あの事件が起きたのって、先週の確か、金曜日……」


「「いやいやいやいや」」


「ないわね」


「ないですよ」




 その後食べた憧れのとんかつ立花の黒豚ロースとんかつは、残念なほど美味しく感じられなかった。きっと雪さんも同じ気持ちだったかもしれない。智美ちゃんだけが嬉しそうに美味しい美味しいと言って食べていた。


 霜降りをして肉汁を閉じ込めたその肉は、切り口が生々しいほどに鮮やかな肌色で、噛み締めるたびに、その肉から溢れ出る汁が口内を潤していったから、私は、そのニュースでやっていた、家出少女の猟奇的殺人事件をどうしても思い出してしまったのだ。


 あの、先週金曜日に起こった、猟奇的殺人事件を。

 

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