第七話

 次の日、智美ちゃんは約束の時間になっても待ち合わせの青柳駅には現れなかった。


「なんでちゃんと駅の名前を覚えてないのよ智美ちゃん! もう、十一時半よ? え? だって言ってなかったからって? そういう時は、どこの駅ですか? って聞かなきゃダメじゃない。はぁ? 聞くものに決まってるでしょ! だって、あなたも昨日一緒にお話ししてたじゃない、って、あぁあ、もう、分かった分かった。来なくていいから。もう、せっかくお昼はとんかつ立花でご馳走しようと思ってたのに。え? じゃあ行きますって? もう、じゃあ着いたら電話してね、はいはい、うん、いいからいいから、じゃあね、はい」


 どの駅に行けばいいのかを聞いてなかったらしい。やっぱりちょっと智美ちゃんは違う世界に住んでいる人かもしれないと、私は思った。そういうところが仕事をしていても多いのだ。でも、それも含めての智美ちゃんだと、私は思っている。


 智美ちゃんのそんなところを知っているなら、私も教えてあげれば良かったと、少し反省した。雪さんは時間通りじゃないのが少々気にくわないご様子だ。それもそうか、週に一回の貴重な休みを無駄に三十分も使ってしまったなんて、雪さんにしてみればもったいないと感じるはずだ。


「はぁ、もう、本当に智美ちゃんは智美ちゃんなんだから! もったいない時間だったわね。どうせ遅れてくるだろうなんて悠長に待ってたけど、それ以前だった。まぁ、それが智美ちゃんなんだけど」


「ははは。ですよね。私もうっかりしてました。すいません」


「なんでさっちゃんが謝るのよ。でも、本当さっちゃんの家は駅からすぐなのね。あそこでしょ? あの三軒並んでいるところ」


「あ、はい。あの真ん中がうちです」


 私の家は三軒並んで立っている建売住宅の真ん中である。結婚してすぐの頃、転勤する予定のない会社に勤めていた貴志君と私は、マイホームを探していた。たまたまその時に売りに出ていたのが、今住んでいる家だ。


 駅まで一分の距離にある我が家は、電車の音はするにはするが、駅から電車が幹線道路を跨ぐために架けられた橋へと向かっていくあたりに建っているので、すぐ横を電車が通るような場所ではない。


 ここに決めたのは、ゆくゆく子供たちが高校生になった時、通学するのに便利ではないかと結論が出たからだ。白色の普通の二階建て住宅だけど、電車の線路に近いという事で、他に見ていた同じような間取りの建売よりも、多少価格が低かったのも決め手の一つだった。あの当時は、子供を産んで会社を辞めるとは思ってなかったから、この場所に建てて良かったと今改めて思っている。この場所に家を建てた事で、私が「海鮮ゆきちゃん」で働けているのだから。


「どうしようかな、時間が十一時半になっちゃったし、お昼ご飯はとんかつ立花に行こうと思ってたのよねぇ。あそこの店長さんお店の常連さんだから」


 とんかつ立花は、カウンター席のみのとんかつ店で、奥に個室もあると聞くが、子供連れで行くのは少々敷居が高いとんかつ屋さんである。今日はそこでお昼をご馳走してくれるつもりだとさっき聞いて、私は今日という日が何にも予定のない日で良かったと思った。敷居が高いというのは、お値段もそこそこするということだ。近い場所にある人気店だが、いまだに食べに行ったことがないお店だった。


 とんかつ立花の二代目は私と同じくらいの四十代男性で、「海鮮ゆきちゃん」には夕飯時に良く家族で来るらしい。定休日が木曜日だから、お休みの日が被ってないのだ。


 行ってみたいと思うお店が同じ定休日で行ったことがないという話は、飲食店あるあるらしい。確かに水曜日定休のお店は多い気がする。水曜日は市場が休みだからだ。そこに来てとんかつ立花は木曜日が定休日。


 お互い美味しいものをお客さんに提供しようとしている雪さんと、そのとんかつ立花の店長さんは、気が合うのかもしれないと思った。さすがに、休みの日まで海鮮屋さんの女将が海産物を食べることは少ないだろうし、その反対も然り。


――だったら、雪さんの家族もとんかつ立花の常連なのかな? と、それはないか。確かお孫さんはまだ小さいはずだから、カウンターじゃ寛げないな。


「さっちゃん、大丈夫? ぼうっとしてるけど?」


「あ、はい。すいません。とんかつ立花、初めて行くので、ちょっと想像してました」


「もう、さっちゃんまでとんかつ立花? そんなこと言ってたら、今日の捜査ができなくなっちゃうじゃない!」


――捜査って言った? 今?


「やる気ですよね、雪さん」


――あ、しまった。つい言葉が出ちゃった。


「もちろんよ! だって困ってる人がいると思うと、いても立ってもいられないんだから!」


「ははは。雪さんそういう感じですもんね」


――良かった。雪さんは変な取り方しない人で。


 私も智美ちゃんのことを言える立場じゃないところがある。頭の中で考えている時に咄嗟に声をかけられると、つい口が出てしまう時があるのだ。智美ちゃんほどではないにしろ、だが。それを受け取る人が変に受け取ってしまうと、揉め事に発展するという経験は、過去に何度もしてきている。だから、いつも気をつけてはいるんだけど、雪さんといるとつい心が緩んで、素の自分が出てしまう時があるのだ。


「どうしよう、食べに行ったらもうそこで今日の捜査は終わっちゃいそうだし、まずは私たち二人で、捜査を開始しましょうか」


「あ、はい。え? でもどうやって?」


「昨日キナコちゃんの首輪には結んでくれたんだよね?」


「はい。一応結んでみましたけど」


「で、どうだった!?」


「あ、まだ今日はキナコの首輪、見てないです」


 今日の朝、子供と一緒にキナコが外に出ていくのを見たのが最後で、まだ首輪は確認していない。キナコは一匹目の福助とは違って、人懐っこい猫で、子供たちが学校に行く時には集合場所までついていくのだ。その集合場所で、集まっている子供たちに撫でてもらったりして、キナコの一日が始まる、らしい。うちの子供たちからはそう聞いているし、私が旗当番に行く時も確かにそうなのだ。キナコの首輪に手紙をつける事は、慣れている人なら容易なことかもしれない。


「残念! もしかしたらもうお返事が来てるんじゃないかって楽しみにしてたのにぃ!」


――そんなに? そんな悶えるほどに?


 雪さんは身体をくねらせながら、残念がっている。やっぱり木曜日だけはシフトに入るのをやめておこうと思った。でも、そんな雪さんが、ちょっと可愛く思えた。もともと可愛らしい人ではあるが。


 雪さんは十年ほど前に旦那さんを癌で亡くして、一人で店を切り盛りしている。とはいっても、もともと雪さんが行商から始めた「海鮮ゆきちゃん」だし、亡くなった旦那さんは、公務員だったと言っていた気がするので、ずっと一人で店を経営していることになる。


 背も高くはないし、可愛らしい顔立ちの雪さんは、いつも髪をさっぱりと刈り上げているのだが、それは、きっと男性が多い業界内で立ちまわる為にしているのだと、私は思っている。雪さんの苦労話は賄いご飯の時によく聞かされるからだ。


「もう本当に昔はね、市場に行くと声をかけられてさ、で、うちにだけおろしてくれない嫌な奴がいて、その人に抗議したらなんて言ったと思う? 一晩付き合ったら売ってやるよって言うのよ? 信じられないでしょ? だから、絶対あんたんとこでは仕入れしないって啖呵きってやったことがあるわ」


「それは現代なら完全にセクハラで訴えれるレベルですね」


「でしょ! もう、女だからって下に見て、言いがかりつける奴もいたし、本当苦労してきたんだから。でも、絶対負けてなるものかと頑張ってきたの。でもね、あれだよ、捨てる神あれば拾う神ありって言葉があるでしょ?まさにその通りでね、まだ駆け出しの行商時代に、黄瀬川沿いにある龍泉の社長さんが、ゆきちゃん、良いお客さんを三十人作りなさい、その人はきっとあなたを応援してくれるからって言って、日本料理店やらフランス料理店やらに、いい魚屋があるよって紹介してくれたの。それがあって、今があるのよねぇ。もう社長さんは死んじゃったけど、九十歳まで生きたから、大往生よねぇ。懐かしいわぁ」


 あの時の雪さんは、苦労していると言いながらも、その苦労さえも楽しんで生きてきたみたいに見えた。私はそう言うのは無理だなと思って聞いていたけれど、雪さんが一生懸命で応援したくなる人だから、今に至るのだと思う。そして、自分もしてもらって今があるから、きっと困ってる人を助けたいし、応援したいんだと思う。お節介の源は、誰かにもらったご恩への感謝の気持ちなのかもしれない。


――私はどうなんだろう。今回のこと、めんどくさい気持ちの方が多いや。


 普通の日常に、こんなことが起きて、やっぱりめんどくさいと思っている。でも、目の前の雪さんを見ていたら、なんだか、めんどくさいけど、楽しそうな雪さんに付き合ってあげたくなってきているのも事実だった。雪さんがサスペンス劇場にハマっているのは、旦那さんとの思い出だからだとも、山田さんから聞いているのだ。


「雪さんが水曜サスペンスにハマってるのはね、その日が定休日で、唯一旦那さんと一緒にゆっくりテレビを観れる日だったからなの。一緒にああだこうだ推理合戦しながら観てたらしいよ。だから、私も雪さんのサスペンス話はできるだけ聞いてあげたいんだよね」


 山田さんはなんだかんだ言って、木曜日にシフトに入る。山田さんはお店の近くに住んでいて、雪さんの旦那さんがまだ元気だった頃からのパートさんなのだ。「海鮮ゆきちゃん」は、そんな心の温かい人ばかりだと、私は思っている。


「私もそんな仲間入りできたらいいな」


「え? なんか言った?」


「あ、いいえ、なんでもありません」


――また声に出てた。


「キナコちゃん、帰ってきてないかなぁ。ねぇ、さっちゃん、ちょっと家の方を見てきてみてよ」


 この時間に帰っている事はあんまりない気がするけれど、ずっと駅前にいるのもおかしいし、雲行きも怪しくなってきているような気がした私は、雪さんを自宅に招くことにした。西の空から灰色の雲が重たそうにこちらに進んできているような気がする。


 私達は、雨が降る前に、キナコの姿を探しながら家の周りを見回って、私の家に行くことにした。もしも雨が降り出したら、キナコは帰ってくるかも知れない。猫は雨が嫌いな生き物だから。




 でも、キナコは帰って来なかった。雨が降り始めたと言うのに。





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