第六話

 私が急いで雪さんのところに戻り、ペンを渡すと、雪さんはお客さんに注文を聞くときの紙を胸元から出してきて、その紙に私のペンで、くるくると円を描いて、その後に、「あ」の文字を三回書いてと、試し書きを始めた。


「すごい、今はこんなに細いペンがあるのねぇ。うちのオーダー書くペンの半分くらいじゃない?」


「そうですよね、手帳とかに書く用なんだと思うんですけど、私このペン結構好きなんですよね」


「私には細過ぎて、んん、老眼でちょっと見にくいわ。今の若い子たちはこういうの使ってるのねぇ。これでオーダー書いてあったらきっと読めないわねぇ」


「雪さん、歳とってますもんね!」


 やっぱり智美ちゃんは天然が入っていると思う。でも、それを理解している雪さんは、「失礼な! まだピチピチよ!」と軽く受け流している。


 そういうところが、雪さんの愛の深さなんだと思った。お節介の源とも言うのかもしれない。だから、他の場所ではなかなか定職できない智美ちゃんが、ここでは働けるんだ。きっと他の職場では、智美ちゃんはいじめられる対象になってしまうと思う。思った事をすぐ口に出してしまうから。そういうのを気持ちよく思わない人は沢山いる事を私は知っている。


 ここは、智美ちゃんにとって生きるために必要な居場所なんだと思った。きっと、誰でも、安心できる居場所が必要なんだ。じゃないと、社会からはじかれてしまって、生きていけないのではないだろうか。私もそうだ。家族が私の居場所、そして「海鮮ゆきちゃん」も今や居場所の一つになりつつあるのだから。


 そんな事を思いながら、雪さんの手元に書かれる細くて黒い文字を見ていた。すると、雪さんが、ペンを一旦テーブルに置いて、私が持ってきたクリアファイルから、小さな横長の汚い紙を取り出した。


――え? もう書くの?


 私が少し驚いてその様子を見ていると、雪さんはその紙をオーダー用紙の裏側に載せて、ペンで縁取りを始めた。


「こういうのはちゃんと考えて書かないとね!一枚しか紙はないんだし!」


――あ、ちゃんとしていた。やっぱりいきなりはちょっとだよね。


「えー、雪さんそんなめんどくさいことするんですかー? いきなりでいいじゃないですか」


「ダメよ! 智美ちゃんこういうのはちゃんとしないと! あと、書いた後に、証拠写真も撮っておくから。そういう細やかな事をしておかないと、後々困ることになるのよ! そういうのがいつも見ている水曜サスペンス劇場でも多いもの」


「え? 証拠写真?」


「そうよ、さっちゃん、だっていつもドラマ見てるとね、大体そういうのをいい加減にしてて、あぁ、だから言ったじゃない! あの時ちゃんと取っておかなかったからそんなことになるのよ! って言う感じの事件、結構あるの」


――それは、ドラマの登場人物たちがまさか事件の渦中にいるとは思ってないからそうなるのではないだろうか? ドラマだし……?


「だから、ちゃんとそういう所はしておかないとね!さ、なんて書こうかな。なんて書いたらいいと思う?」


 雪さんはお節介おばさんで「たすけて」と書いた人をなんとかしてあげたい気持ちで動いているの半分、ミステリー大好きおばさん半分だとさっきまで思っていたけれど、本当は、ミステリー大好きおばさんの方がだいぶ上回っているのかもしれないと、私は思った。そういうエネルギーが全身から出ているような気がする。好奇心、というか、謎解きに挑戦してやるぞという意気込みというか。


「さっちゃん? 聞いてる? なんて書いたらいいと思う?」


――あ、いけない、聞かれているんだった。


「どうしましょう? 雪さんどう思います?」


「そうねぇ、書いてみて分かったんだけど、長い文章はダメね。私みたいな老眼だと、この小さな紙に小さな文字でいっぱい書いてあったらきっと読みにくいわ。だからそうねぇ、聞きたいことはいっぱいあるんだけどねぇ 」


「あなたは誰ですか? って書いてみたらいいんじゃないですかぁ?」


「それよ! 智美ちゃん、冴えてるわね! まずあなたは誰ですかよね!じゃあこの紙のサイズで、それを一回書いてみようか。これくらいの紙だから、あ、そうだ。もしこれを書いたのが子供だとしたら、誰って言う漢字が読めないかもしれないわよね、てことは」


雪さんがオーダー用紙の裏に縁取った枠の中に、細い黒いペンで「あなたは だれですか?」と書いた。


「あら、意外とまだ書けそうよ? 思ったよりスペースがまだあるわ。ねねね、みてみて、ほら、まだ書けそうじゃない?」


「あ、本当だ。横に長いですもんね」


「でしょ? じゃあこんな細いペンじゃなくって、いつも使ってるペンで書いた方がいいんじゃないかしら? 文字数も少ないし。私、本当はもっといろいろ書いてもいいかと最初思ったのよね、だって、いろいろ聞きたいじゃない? あなたは誰ですか? もだけど、どこに住んでいますか? とか、何を助けて欲しいんですか? とか、何に困ってるんですか? とか、いろいろほら聞きたいじゃない、こう言う時って、情報が多い方が謎は解明しやすいし」


 それを全部書きたかったとなると、確かに細いペンが欲しかったのは理解できる。だって紙の大きさは、せいぜい縦三センチ、横九センチの横長だ。猫の首輪に巻くギリギリのサイズといったところか。雪さんに細いペンがいると言われた時、店にあるペンじゃダメなんだろうかと一瞬思った違和感は、そこだったんだ。


――そりゃ、細いペンがいるって発想になるはずだ。


「やっぱりあれね! いつも店で使ってるボールペンね! じゃぁ、これでもう一回書いてみようかな、えっと、ちょっと待ってね、もっかい、縁取りをしてっと、で、その中に、あなたはだれですか? って、こんな感じ。どうどう? 見やすくてさっきよりもずっといいと思わない?」


 断然さっきより見やすいと思った。店で使っているボールペンは私が持ってきたペンより、三倍は太く文字が書ける。オーダーのミスを防ぐために、雪さんが見やすい太さを採用しているからだ。なんならマジックペンで書く時もあるくらいだ。しかも、赤の。


「マジックだと太過ぎちゃうかもだし、やっぱりこれね!じゃあ、さっちゃんいいわね、これに書いても?」


「あ、はい。雪さん書いてくれるんですか?」


「さっちゃんが書きたい?」


「全然! もうそこは雪さん、書いてください」


「本当? じゃぁ! 私が書くわね!」


――なんだろうか、とても楽しそう。


 雪さんの水曜サスペンス劇場好きは、実は「海鮮ゆきちゃん」のスタッフ内では有名な話だ。雪さんが水曜日にサスペンス劇場を見た次の日の、木曜日シフトの山田さんは、朝タイムカードを押して開店準備を始める間中、ずっとその話を聞くことになるらしい。私は木曜日はシフトが入ってないので、そのめんどくささは知らないが、山田さん曰く。


「もうすごいから。最初から最後までのストーリーをざっと話した後の、犯人がどうだったとか、あの犯行の見せ方はどうだったとか、それが長いの。開店準備で厨房に降りるたびに、その話を聞きながら準備をするんだけどね、途中でやっぱり二階の準備に行くじゃない? で、また一階に戻るでしょ? そしたら続きから話し出してくれるの。わかる? もうね、返す言葉は、へー、そうなんですね、だけだよ。一回さっちゃんも木曜日シフト入ってみてよ。本当にすごいから」


 その話を聞いて、木曜日はシフトに入るのをやめようかなと思った。山田さんみたく、「へー、そうなんですね」と言いながら、手を動かせる気が私はしないからだ。私はどちらかというと、作業に集中してしまって、そういう話を振られても愛想よく会話ができないと思う。そういうところが前いた職場の人によく思われなくて、なんだか居心地の悪い空気感になってしまい、辞めることにしたのだ。


「できた! これでどう?」


 意識が目の前の事から離れている間に、雪さんは私が持ってきた汚い小さな紙に、「あなたは だれですか?」と書いて、向かい側に座っていた私の方へ、その紙をすっと右手で送ってきた。


「いいと思います。で、これをキナコの首輪につけたらいいんですか?」


「そうね、すぐにでも!」


「すぐにでも?」


「そりゃそうよ! だって困ってる人はすぐにでも助けて欲しいじゃない?」


 やはり、ミステリー大好きおばさんだけど、お節介おばさんの割合も多いのだと、先程の配分を少し見直すことにした。だって、雪さんのその表情からは、本当に誰かを心配しているのが見て取れたから。


 私は雪さんの書いてくれた紙の写真をスマホで撮って、またクリアファイルにしまった。


「さっちゃん、これで匙は投げられたわ。これからだけど。だから、明日の定休日はさっちゃんの家で早速調査をしましょうね!」


――え? 賽は投げられたじゃなくて? て、そこじゃなくて。


「さっちゃんの家の駅で十一時に待ち合わせ! じゃあ、さっちゃんもう時間でしょ? 今日もお疲れ様、また明日ね!」


――明日って、そうか、水曜日だから? って、勝手に!?


 雪さんは私の予定は聞かなかった。特に何もないけれど、なんだか、心がモヤッとした。でもそういう所は、いつもの雪さんだと思って、家路についたのだった。

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