第五話
「この紙にですか!?」
「そうよ、きっとこれを出した人も、お返事が欲しくて何も書いてない紙を結んだんじゃないかしら。なんだかそんな気がするの。そう思うと、何も書いてない紙を結んだという辻褄が合う気がしない?」
雪さんがなんだか嬉しそうに私に聞いてくるが、私はその発想にびっくりして、なんと返して良いかわからないでいる。確かに、何も書いてない紙をキナコの首輪に結んだ理由が、目の前にいる猫の飼い主からのお返事であれば、雪さんの言う通り、何も書いてない紙を結ぶかも知れないと思う。そして私が書いたお返事を受け取ったその誰かは、また手紙をキナコに結ぶかも知れない。それこそ、伝書鳩のように。
でも、それを繰り返した先にいったい何があるのだろうか。私の恐怖心はそれで多少薄まるのだろうか、いや、それよりも、その悪戯かも知れない、キナコの首輪に手紙をつけた犯人を見つけて、いったいどうしようというのか、私にはまだそれが見えていない。悪戯ではなかった場合、「たすけて」の文字を受け取り、その人を助けることができるのだろうか。手紙をやり取りするのは、きっと、私なのだから。
「これにお手紙を書くなら、小さな字が書けるペンがいるわよねぇ。こんな小ささじゃ、今店にあるペンだとちょっと太いと思わない? どう思う? さっちゃん」
私が手紙を書くというアイデアについて、あれこれと悩んでいる間にも雪さんの頭の中では物事が進んでいるようで、正直ついて行けていないのだが、とりあえず何か言わなくてはと思い、口から言葉が出る。
「あ、私細いペン持ってます」
――あ、何か言おうと思ったら、つい、ペンを持っているって言ってしまった。これでは雪さんがさらに加速してしまう気がする……
「まぁ! 早速取ってきて! さっちゃん!」
――そうなるよね、仕方ない。
「あ、はい。すぐ持ってきますね。あ、じゃあついでに、これも向こうに運んどきます」
厨房の奥にあるロッカールームに行くのだからと、ついでにさっきまで食べていた賄いの器を持っていくことにした。賄いのお昼ごはんは、小さな紙を見ながら、すっかりみんなの胃の中に収まっている。今テーブルにあるのは、頭と尻尾だけがしがみついた浜焼きの焦げた串と、サバの骨が乗った大皿一枚に、茶碗などの食器類が三人分。大皿の上に全部乗せれば一人で十分持っていける量である。湯呑みや急須は後回しにして、だ。
智美ちゃんが、「じゃあ私も一緒に」と言ったけれど、一人で考えをまとめてみたいと思った私は、その申し出はやんわり断った。智美ちゃんが一緒に運んでくれるとなると、その話し相手をしなくてはいけない。智美ちゃんのことは嫌いではないし、良いパートの先輩だと思っているけれど、少しデリカシーがない気がする。あの名物女将の雪さんのそばでずっと働いているから、そうなってしまったのかも知れないが、それだけでもない気がするのは、世間をあまり知らないからだと思う。
智美ちゃんは中卒で、多分「海鮮ゆきちゃん」以外では仕事が続かなさそうだからだ。智美ちゃんの中卒というのが悪いわけではない。どこか抜けているのだ。自分に小学生の子供がいるから余計にそう思って見てしまうのかも知れないが、おそらく智美ちゃんは少し発達障害なのだと思う。
私が小学生や中学生の頃は、知的障害がある子供達が入るクラスがあった。確か私の学校では「つばさ学級」と言っていた気がする。そのクラスの子供達は、所属している普通の学級と、その「つばさ学級」を行き来しながら学校生活を送る。でも、今でいう発達障害の子供達は、当時は「つばさ学級」ではなく、同じクラスにいたと思う。
智美ちゃんは多分そういう子だと、なんとなく思う。普通なんだけど、普通じゃない、みんなと少し見ているものが違う子。
実際に自分が子育てをするようになって、そういう知識を得たから、そう思うのかも知れないが。智美ちゃんの素直すぎるところや、すぐに人を信じてしまうところ、言ってはいけない場面で、言ってはいけないと普通の人なら思うことを言ってしまう所が、最初は違和感だったけど、少し発達障害なのかも知れないと思うと、腑に落ちたのだ。
天真爛漫と言えば聞こえはいいが、きっとそういう受け取り方じゃない人もいると思う。
そんな事を思いながら、大皿に乗せてきた茶碗類を洗い場の中に入れ、焼いたサバの残骸達をゴミ箱に捨てた。ゴミ箱の中には、私が朝取ってきた冷凍サバの水色の箱が捨ててあるのが見える。十六本入りの冷凍サバを二本浜焼きにして、残りは後藤さんが焼きサバ定食や、サバ味噌定食用に捌いたのだ。
私はその後藤さんのサバを捌く手つきに思わず見惚れてしまった。朝から昼過ぎにかけて解凍されたサバ達は、まだ触ると手が凍えるくらい冷たい半解凍状態だったが、冷たいものを触っていると思わせない手捌きで、あっという間に切り身にしていくのだ。
すっと腹を切りさき、内臓を手で掴み出して取り除き、頭を落としてから三枚におろす作業は、いつまでも飽きずに見ていれた。うちの子ども達が魚を捌く動画をネットで見ているが、その気持ちがここで働き出してから、私にもわかるようになったのだ。
「うぇ、内臓気持ち悪い。あ、でも中からちっちゃい魚が出てきた!」
「すごい! まさやん、今日はうつぼをさばくんだって、あ、頭落とした!」
「「すごーい!唐揚げになった! 」」
まだ働き出す前、子ども達がテレビでその魚捌き動画を見ながら喋っているのを聞くと、こんなものを見せて大丈夫なのかと正直思っていた。でも、「海鮮ゆきちゃん」で実際に魚を捌くところを生で見ると、生きていた姿のものから、食べ物へと変わる瞬間に立ち会っているようで、食べ物に対する見方が変わったと思う。魚も肉も野菜も、できるだけ無駄にしないように考えて料理をしたいと、思い始めたのだ。そんな事は当たり前のことなのに、パック売りの切り身を食べているだけでは、そこまでは思えなかった。
今日のサバは半解凍状態だから脂の乗った柔らかい身がほどける事なく、見事なまでに美しく切りわけられて行った。
そんな綺麗な手仕事を指を赤くしながらしている後藤さんは、とてもかっこよく見えた。お母さんのことがなければ、きっと誰かと結婚して家庭を持っていたかも知れないと、そういう時ほど思ってしまうのは、きっといけない事だと思う。
「海鮮ゆきちゃん」で働き始めたときは、後藤さんと智美ちゃんがくっつけば良いのになんて、少し思ったけど、そういう訳にはいかない事情を知ると、なんだか普通に生きてきて、今も普通の四人家族で、普通の主婦な私は、普通という名の幸福の中で生きてる気がした。
でも、普通とは一体なんなんだろうか。後藤さんの介護問題や、智美ちゃんの天真爛漫も、枠組みの見方を変えれば普通なのではないか。そんな事を思わずにはいられないほど、二人とも良い人だと思うのだった。
「さっちゃーん、まだー?」
――あ、いけない。
「はーい! すいませーん! 今行きまーす!」
ペンを取りに来たのだった。すっかり頭の中で今日の後藤さんがリプレイされていた。
「たすけて」と書いた人がもしも悪戯でないなら、その人は今、困っているということになる。猫の首輪に手紙をつけるほどに、だ。そう思うと、それは普通の状況ではない気がした。誰かに助けてと言えない人が、猫に、うちのキナコの首輪に、手紙をつけたのだから。きっとその普通じゃない状況とは、私が想像することができないほどの状況だと、なんとなく思った。
私は急いで、小さな紙に書くことができる細いペンを持って、雪さんのところへ戻って行った。
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