第四話
二本あったサバの浜焼きは、もう大きな塊だと思える肉がほとんど残っていない。あっという間のサバの浜焼き試食会だった。あとは、つくしの佃煮とお吸い物、漬物が残っているだけだ。
私たちがその汚い小さな紙を見ながら食事をしていると、ガラガラっと個室の引き戸が空いて、板前の後藤さんが顔を出した。
「雪さん、俺時間なんで、もういいですか?」
板前の後藤さんは車で十分の場所にお母さんと二人暮らしだ。後藤さんはちょうど今年で五十歳の独身男性で、お母さんは少しだけ痴呆が入っていて、週に何度かは介護施設でデイサービスを受けている。だから、基本的には自宅にいることが多くて、後藤さんはお母さんの様子を見るために、昼休みには自宅に戻ることにしているのだ。
後藤さんは、顔も性格も少しきつそうだと、私は最初は思ったけれど、たまにおかしなギャグを言ったりもする一面もあって、そこがなんだか可愛い、とても魅力的な人だと思っている。職人気質、そんなイメージがぴったりな人だ。
働き始めた頃、私は、後藤さんみたいな人が独身でいる事が不思議だったけれど、「海鮮ゆきちゃん」で働いている理由を知って、なんとなく独身でいる意味がわかった気がした。
後藤さんが「海鮮ゆきちゃん」の板前さんになったのは、お母さんのことがあるからだ。
本当はもっとしっかりとした、と言うと語弊があるかも知れないけれど、懐石料理などを出す日本料理店で働いていた後藤さんは、お母さんの様子がおかしくなり始めてから、以前いた日本料理店を辞めたのだ。朝早くから夜遅くまで拘束されるその店では、時間的にお母さんのお世話ができないからだ。日本料理店を辞めたその後、転職先を探したが、なかなか条件に合う職場が見つからないかったらしい。
そんな後藤さんの救世主が、雪さんだ。
たまたま仕入れに行った先でその話を聞いた雪さんが、知り合いの人を通じて後藤さんに声をかけ、給料は前より少なくなるけれど、お昼のランチタイムが終了して、夜の営業が始まるまでの二時間は自宅に戻れる事と、夜は八時までの就労と言う条件で、後藤さんに働いてもらっていると聞いている。ちょうど雪さんも、定食屋のレベルアップを狙っていた時期だったのが、好都合だったらしい。
雪さんにとっても、後藤さんが救世主だったのかも知れないと、私はその話を聞いた時に思った。なぜなら後藤さんが入った五年前から「海鮮ゆきちゃん」は以前にも増して繁盛店になったからだ。これは、智美ちゃんに聞いた話だけれど、多分本当のことだと思う。
介護の話をテレビの特集などで見たことがあるが、施設に入らず、自宅で介護をする人の大変さは、現在四十代の私には、まだどこか他人事であった。でも、後藤さんを見ていたり、後藤さんの話を雪さんから聞くと、いつか自分も、自分の親や、貴志君のご両親の介護が待っていると、改めて理解した。
いつかのテレビで見たケースは、独身の男性の母親が要介護になり、働くことができなくなって、生活に困窮しているというケースだった。その男性の母親は七十代で痴呆症を発症してしまい、デイサービスなどを利用しても、働く時間が以前とは変わってしまって、会社を辞め、母親の介護を中心にして生活してると言うことだった。確かに、自宅に痴呆症の母親を置いて働きに行くことは難しい気もする。勝手に料理をし始め、コンロの火がつけっぱなしだったと言う話を私も以前誰かから聞いたことがある。あれは、確か、自治会のゴミ当番で聞いた話ではなかったか。
そんな事をサバの浜焼きの、串の周りについている残り少ない白い肉を食べながら思っていた。この串についている白いサバの肉は、なかなかしぶとく串から離れようしない。きっと焼いている時に、串に細胞が縮まって張り付いてしまったのだ。でも、なぜかそう言うところは、美味しい気がした。私も智美ちゃんも、雪さんも、サバの残りの白い肉片を一つも残さないように箸でつまんでいる。それくらい名残惜しいサバの浜焼きだった。これはメニューにしたらヒット商品になるかも知れないねなどと話しながら、三人で、今、綺麗に食べている。
「後藤さんみたいな、介護で困ってる家族の人が書いたのかもね」
雪さんがポツリと言った。その言葉を聞いて、確かにそうかも知れないと思った。そういう線は一つの可能性かも知れない。そういえばさっき一瞬思い出した自治会のゴミ当番での話は、どこの誰の話だったかな、と脳内を探ってみたけれど、はっきりとは思い出せなかった。でも、そういうことがありましたと、雪さんには伝えてみることにした。同じ自治会内というところが、猫の行動範囲そのものを表しているような気がする。
「誰だったかは思い出せないんですけど、ちょっと前だったかも、あんまり思い出せないんですけど、痴呆症の家族を家に残して外出している時に、コンロの火がつけっぱなしで危うく火事になりかけた方が、同じ自治会内にいるって聞いたことがあります」
「それ本当? それは可能性としてはありよね。同じ自治会なら、猫の行動範囲圏内じゃない?」
「確かに!」
やっぱり雪さんもそう思うのか、と思いながら、だとしても、そのお宅を探すのは難しいなと思った。だって私の記憶は誰と話した話で、どこの家の話なのか全く思い出せていないのだから。それと、あまり必要な時以外で自治会の人と話をするとか、しかも今回のような案件を聞くと言うのは、私の性格では難しい。できるだけ、物静かに普通に波風立てる事なく生活したいと思っているからだ。と、そんな事を思ったら少し憂鬱な靄が心を包み始めていくのがわかった。
――めんどくさい。誰かがそんな余計な紙をキナコの首輪につけるもんだから、こんな事に……
そう思って二人の話を聞いていたら、なんとなく私の表情から思っている事をを察したのか、雪さんが聞いてきた。
「さっちゃんって、青柳町内会よね? 私、青柳町内会さん仲がいいから、聞いてみようか?」
どうやら毎年、私の住んでいる自治体、青柳町内会に古くから住んでいる人たちの忘年会がこの「海鮮ゆきちゃん」で行われるらしい。それを聞いたら、少しこれからやってくる年末が憂鬱になったが、その忘年会の参加者さんは、私が今の場所に住むよりずっと前からある家の方ばかりだと言う事で、町内のことならなんでも知っているとのことだった。
――町内のことならなんでも知っている……。そう言うのが、ちょっと好きじゃないんだよなぁ……
恐怖を感じるほど嫌な思いをした事はないが、三人目の子供を流産し、しばらく塞ぎ込んでいた私に向かって、
「なんだかお気の毒な事だったようで……」
などと、話したこともないのに話しかけてくる人や、
「そう言う事はよくある事だから、次また頑張れば良いわよ。まだ若いんだしね」
と、欲しくもない励ましの言葉をかけてくる近所のおばさんは、正直苦手だ。
あの時、なんでそんな事を知っているんだろうかと不思議に思っていたら、私の代わりにゴミ当番をした貴志君が、そう言う輩の聞き取り調査の罠にまんまと嵌って喋ったと言う事だった。
なんで、人のプライバシーを知りたがるのか、理解できない。でも、そう言うのは自治会に限らず、会社でも、学校でも、実際によくある事だと知っている。そういう個人の秘密のような情報を知る事で、何か得することでもあるのだろうか。その秘密を絶対内緒ねと言って、誰かに話す、そう言うのがいいんだろうか。芸能人のゴシップ誌のように、私がスクープしましたと胸を張って自慢するのが好きなのだろうか。そして、そんな個人の秘密を聞くのが好きな人が多いこともまた事実。だからゴシップ誌もワイドショーも存在しているのだとは思うのだけれど。
そんな事をなんとなく思っていると、今回の小さな汚れた紙が疎ましく思えてきた。そして、そんな事をお節介な人情派女将の雪さんに相談してしまった自分自身にも、なんでそんな相談をしたのかと、責めたくなってきた。そう思っていたら、つい口が出た。
「でも、それを聞いたところで、どうするんですか? すいません、この紙書きましたか? って聞いてみるんですか?」
きつめの口調で返してしまったかも知れない。雪さんは善意で言ってるのを知ってるくせに。
「そうねぇ。ストレートすぎだと、まずいわね、どうしようか、うーん」
きつめの口調には取られてなかったようだ。雪さんのそう言う性格に少し安心した。顎に手を当てて、ううむと考えている姿を見ると、雪さんは雪さんなりに私の持ち込んだ、変な汚い紙に書かれた「たすけて」の四文字をなんとかしたいと思っているようだ。やはり、お節介な人情派女将なのだと思った。それか、ミステリー大好きおばさんか、そのどちらかだと思った、その瞬間、雪さんが閃いたように言葉を発した。
「あ……、私、思いついてしまったわ」
「「え?」」
思わず智美ちゃんと二人同時に声が出ていた。雪さんは私たちの方に小さな紙が二枚入ったクリアファイルを見せて、こう言った。
「伝書鳩ならぬ、伝書猫。さっちゃんの家のキナコちゃんの首輪に、この何にも書いてない方にメッセージを書いて結ぶのよ!」
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