第二話

「もおぉ、お母さん遅い! 風邪ひいちゃうよぉ」


「ずっと待ってたんだからね!」


 家に帰ると、案の定子供たちがもう玄関にいた。すんでのところで電車に乗り遅れ、次の電車が来るまでの待ち時間もあって、帰ってくるのが遅くなてしまったのだ。午後四時すぎ。それもだいぶ過ぎてしまった。きっと雨にぬれて寒かっただろう。これが真夏ならばなんてことない雨も、十月も終わりに近づけば、かなり寒いに違いない。ただでさえ雨の中を歩いて帰って来なくてはいけなかったのに、申し訳ないことをしたと思った。電車だと、時間が合えばすぐ自宅に戻れるけれど、乗り遅れてしまうとこういう事態を招く。それは重々承知だが、駐車場の数が少ない「海鮮ゆきちゃん」に、車で行くのは不可能だ。パート募集の条件も、「車通勤じゃない方」だった。


 今日みたいな雨の日は、朝子供たちを車で学校に送ってから、家事をこなし、仕事へ向かうことにしている。パートは週三日しか入っていないので、仕事のない日は車で迎えに行くこともできるのだが、今日は月曜日。私の勤務日は、月、火、金だから、そうしてあげることができなかったのだ。あんな猫の話を出さなければ、せめて途中まで車で迎えに行ってあげたり、もしくは玄関先で、寒い思いをしながら待たせるようなことはなかったかも知れない。そう思うと、さらに申し訳なかったなと思った。


「ごめんごめん、さ、中に入って早く着替えよ! 風邪ひいたら大変だもんね」


 そう言いながら急いで鞄から鍵を取り出し、玄関の鍵を開ける。建て売り戸建て住宅の玄関のドアの前は三人でいるには狭く、ドアを開ける私が邪魔で、子供たちはすぐさま家の中に入れず、もう早く早くと言っているけれど、二人のランドセルがぶつかり合う中で、私もなかなか身動きが取れなかった。


「もう、二人一緒には玄関から入れないから、ちょっと待って」


 声をかけたが、二年生の弟を押しやって、五年生の光が先に玄関で靴を脱ぎ、そして、濡れたランドセルを放り投げて、一目散にトイレへ走って行った。その後を追うように、二年生の夢樹もランドセルを放り投げようとするので、その取手を引っ掴み注意をした。


「あのね、ランドセル投げちゃダメ! お姉ちゃんの真似しちゃダメよ!」


 しかし、夢輝も手で股間を抑えて私に向かって泣きそうな顔で言う。


「僕もおしっこ漏れちゃうの!」


 そう言うと、夢輝はランドセルからスルリと抜け出しトイレへと走っていった。そしてトイレの前で地団駄を踏んでいる。


「おねえちゃん、はやく出てよぉ。ボクもぉ、漏れちゃうよぉ!」


「ちょっと待って! 大きい方だから!」


「えぇ! もうはやくしてよぉ!」


 可哀想に、よっぽど寒かったのか、二人ともトイレが恋しくて仕方ない状態で待っていたと見える。仕方がないので、夢輝のランドセルと、光のランドセルを拾って、リビングへ向かった。


――おお、寒い。これは相当寒かっただろうな……。部屋の中でも冷えるんだから。


 本当は十月ならばエアコンはつけないでいることが多いのだが、今日は仕方ないと、エアコンのリモコンを探した。


 私は、それなりに家はきれいにしている方だと思う。必要なもの達はその居場所を決めていて、そこに収まっていることが多い。だが、なぜだか今日はいつもある場所にエアコンのリモコンが、ない。壁掛けのリモコン置き場から他の場所に移すなんてことは滅多にないはずなのに。


――貴志君だな。今日は遅出だからって、私が仕事行く時まだ家にいたもん。全く、そういうところがだらしないんだから。


 夫である貴志君とは、以前働いていた自動車メーカの下請け会社で出会った。そこそこの規模の中小企業で、彼はそこの現場責任者。私は事務職だった。職場結婚だ。三歳年上の彼は昨日までトラブル処理の為、会社に遅くまで残っていたから、今日は昼から出勤でいいと言って、私が出かけた後に、エアコンをつけたのだと推理した。で、あるならば、


――あった。やっぱりここか。


 リビングのソファとセットで置いてあるローテーブルの上に置いてある。きっと戻すのがめんどくさくなって、そのまま置いていったのだろう。飲みかけのコーヒーカップもセットで。なんならテレビのリモコンも元に戻っていないけれど。


 こういうのは毎回のことだし、注意をしてもきっと治らないことはわかっている。以前も何度か指摘してみたが、「はいはいわかった、気をつけまーす」というだけで、治った試しは無い。だが、そんな些細なことで喧嘩をするのもおかしな空気に家の中がなってしまうので、私は黙って片付けるようにしている。その方が、お互い幸せだと、少し前に思ったからだ。


 少し、というのは私が今の仕事を始めたくらいの頃である。半年前、仕事をしていなかった私は、次の仕事先を見つけようと求人広告をスマホで調べていた。なかなか条件に合う求人はないなと、悩んでいた時、彼が、「特に贅沢しなかったら僕がなんとかするから、無理しないでいいよ」と、優しく声をかけてくれたのだ。


 ちょうどその頃は、彼の勤めている自動車部品メーカーで不具合品が見つかり、その選別作業に追われて毎日が大変そうな時期だった。一度メーカーに納品されてしまった部品から不具合品が見つかると、対象期間を遡って選別作業をしなくてはいけない。私も同じ会社で事務員をしている時に何度かその作業に加わったことがあるので、その大変さは良く分かっていた。特に現場担当者ともなれば、取引先の自動車メーカーに頭を下げ続け、報告書を作成し、不具合対策書を作成しと、かなり大変な作業になる。そんな大変な時にそんな優しい言葉をかける事ができる彼の器の大きさを、少し見直したのだ。


――仕方ない。あの頃とおんなじ様に、昨日も休日出勤してたんだから。


 そう思いながらエアコンのリモコンを手にしてスタートボタンを押した。


――あ、部屋の中でタバコ吸ったな。


 喫煙者の夫は家の中ではタバコを吸ってはいけないことになっている。本来ならば、庭先の屋根の下でタバコを吸うのだが、きっとめんどくさかったのだろう。雨だし、外に出るのが億劫うだったのだな、と、思った。疲れている時は致し方ないことかも知れない。


――仕方ない。これも許してやるか。


 我ながら優しい性格だと思いつつ、自分の荷物やランドセルをいつもの置き場所に移動させた。ランドセルは雨に濡れてしまっている。急いでタオルを取りに行かなくてはと、トイレの横の洗面所に向かうところで、二人が言い争っているのが聞こえた。


「もう、おねえちゃん、なんで早く出てくれないの! 僕後少しで漏れちゃうとこだった!」


「そんなこと言ったって、大きい方だったんだもん! 私だってずっと我慢して学校から帰ってきたんだから! それに元はと言えばお母さんが遅いからダメなんでしょ!」


「あ、ごめん」と、つい言葉が口をついて出る。


「「そうだそうだ、お母さんが悪いんだ」」


 開け放たれたリビングのドアの前にいる私を見つけ、子供達が騒ぎ立て始めた。


「なんでこんなに遅かったの?」

「なんで迎えにきてくれなかったの?」

「なんでなんで?全部お母さんのせいだよ!」


 確かにそうだと、今日は怒る気にもならない。賄いの時に、月曜日で時間があまりないことを知りながら、猫の話を始めてしまったのは、自分なのだから。


「ごめん、ごめん、あのさ、キナコが変な手紙をつけて来た話をしちゃったら、帰るのが遅くなっちゃった」


「もう、そんな話してるからだよ!」


 でも二人の興味はどうやら移ったようで、そういえばそんな事もあったねなどと話し始めた。子供達にとっても、キナコが首輪に変なお手紙をくっつけて帰ってきたのは、興味深いことだったのだ。


 あの日、先週の金曜日の夕方に私が首輪の手紙を見つけ、スイミングスクールに送りがてら、その話を二人にしたら、二人は思いっきり食いついてきた。


「えー! お母さんなんでさっき見せてくれなかったの!」


「僕もみたかった! 帰ったら絶対見せてよね!」


 確かそう言われて、それで、帰ってきてから子供達にその変な紙を見せた。するとそれを見た二人は、「めちゃくちゃ怖い!」と言って、その日は三人で一緒に布団で寝たのだった。


 子供はそういうところがあると思う。怖い話が苦手なのに、怖い話のテレビ番組が好きだ。そして決まって言うのだ。「トイレに一緒について行って」と。自分にもそういう記憶はある。怖いもの見たさというやつだ。


 子供達二人が想像していた以上に、きっとその小さな汚い紙に書かれた、煤ぼけた四文字は恐ろしいものに見えたんだろう。私も相当気持ち悪かった。


 今、その小さな紙は、クリアファイルに入れて、こっそりと電話機が置いてある棚の引き出しにしまってある。もしかして事件だったらいけないと思って、だ。


 そんな話を貴志君にしたら、悪戯だよって笑っていたけれども、それからなんだか電話機のあたりに黒い靄がかっている様に感じるのは、気のせいだろうか。いや、気のせいということにしておこう。


「本当に、今日はごめんね。ささ、おやつ食べよ! でもその前に、まずは着替えよう! 風邪ひいちゃうから」


 本当だよ全くお母さんは、などと言いながら洋服を着替え始めたのを見て、すっかり忘れていた濡れたランドセルをタオルで拭いた。やっぱり気持ち悪いなと思いながら。


――悪戯に決まってる。変なことをする人もいるもんだ。しかもご近所に。

 

 そこへ、雨に少しだけ濡れたキナコが猫専用ドアから入ってくるのが見えた。猫という生き物は、雨降りでもびしょ濡れになることがない。どうやって移動しているんだろうと思うけれど、濡れるのが嫌な生き物なのだと思っている。だったら雨の日に出かけて行かなくてもいいものを、それでも出かけていくのが、また猫という生き物なのだろう。


――これはそのまま、このタオルでキナコも拭いちゃおうかな。どうせ、洗うし。


「キナコ、おいでこっち。ほら、濡れてるし、足も拭いて」


 そう言いながら、キナコを捕まえて、我が家では十年選手の銀行のタオルで拭こうとした。その手が、首のあたりの硬いものに触れた。


「え……?」


 キナコの赤い首輪に、また、あの小さな汚い紙が、おみくじの様に結ばれていたのだった。

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